物語はフィクションです。実在する人物・地名・団体名など固有名詞が登場することもありますが、当作品、運営会社とは一切関係ございません。 また『おまいりんぐ』企画は四国八十八箇所巡礼、お遍路さんを揶揄するものではありません。この企画を通じて一人でも多くの方に遍路や四国の自然・文化に触れていただき、興味を持っていただければと願っております。


第零話<プロローグ(前編)> ‐改訂版‐

2014年3月 加筆修正(13,000文字)

文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign


     /0

 あの日も、うだるような暑さだった。
 鳴り止むことを知らない蝉の声が、より一層、暑さを強調する。
 見上げればどこまでも広がる青い空。大地を焦がす夏の陽射しは眩しすぎて逃れるように入った寺の境内。
 そこは、別世界を錯覚させた。
 ひやりと、冷たい空気が火照った頬を掠(かす)めていく。喧々(けんけん)と響く蝉の鳴き声もどこか遠くに感じられて、まるで白昼夢を見ているかのようだった。
 ぼんやりとした意識のまま境内の奥へと歩を進めた。
 何かに導かれるように。
 そして、行き着いた先は境内の片隅。
 日常から隔絶されたその場所に――≪  ≫は、在(い)た。
 深く、青く生い茂る木々に包まれて凝然と立つそれは、ヒトの姿でヒトの言葉を解していたけれど、幼いながらに――いや、幼かったからこそ――ヒトとは違う“ナニカ”であると直感した。
 直観して、受け入れた。
 怖くはなかった。
 むしろ、あのとき抱いた感情は、もっとこう、別の――……


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「じいちゃん、今日はどんな話を聞かせてくれるん?」
 これは、俺――愛媛県松山市在住の高校二年生、幸野恵(こうのけい)がまだ幼かった頃の記憶だ。
 俺の両親は共働きで、家を留守にすることが多かった。そのため幼少期の大半は母方の祖父、恵八(けいはち)じいちゃんに面倒をみてもらっていた。
 じいちゃんの家は、市街地にある実家から程よく離れた山中に建っている。
 今でこそ近所に住む人も増えて人家や店が点在しているが、数年ほど前までは何もない孤立した場所で、あるものと言えば、じいちゃんの所有する畑とみかん山、そして所有者不定の手入れがされなくなって久しい荒れた杉林ぐらいだった。
 そんな環境の中で、遊ぶ道具もなければ相手もいなかった俺は、昼はじいちゃんに連れられて山に行っては畑仕事の真似事をしたり、近くの林の中を探検したりして過ごし、夜になればじいちゃんの話に耳を傾けながら眠りにつく――そんな毎日を送っていた。
「そうやなあ。……よし、今夜は四国を守る『結界』の話でもしようかのう」
 いつものように蚊帳(かや)をつった布団に寝転がって話をせがむ俺に、じいちゃんはそう切り出した。
「四国を守る、けっかい……?」
「うむ。わしらが暮しとるこの四国には『八十八箇所霊場』言うて、お大師さんゆかりのお寺があるんよ。それでな――」
 じいちゃんの話は四国に伝わる民話や伝説がほとんどで、とりわけ「遍路(へんろ)」や「お大師さん」にまつわる逸話が多かったのを覚えている。
 その中の一つに『四国結界の伝説』という話があった。

 弘法大師・空海ゆかりの聖地、四国――

 四国は、日本列島を構成する島の一つで、徳島県・香川県・愛媛県・高知県の四県からなる。瀬戸内海をはさんで近畿地方・山陽地方・九州に三方を囲まれた位置にあり、島の中部には四国山地や讃岐(さぬき)山脈の山々がそびえている。
 国の中心地から遠く離れた四国は、古来から修行の場とされてきた。
 讃岐の国(現在の香川県)に生まれた弘法大師・空海もこの地で修業を積み、八十八の霊場を開創したと伝えられている。
 この八十八箇所霊場を巡礼することが「遍路」であり、その巡礼者は「お遍路さん」と呼ばれる。そして、霊場を開いた弘法大師・空海は人々に「お大師さん」と呼ばれ、今も親しみ慕われ続けている。
 お大師さんは衆生救済のため――人々の災難を除くために、四国各地に霊場を開いた。と同時に、ある“しかけ”を施した。
 それが――結界。
 八十八の霊場を“柱”として張られた結界は、千二百年の刻(とき)が流れた現代でも四国を包み守っている。大きな災害に見舞われることなく人々が平穏に暮らせるのも、全て結界の加護によるものだとか。
「ええか、恵。わしらが平和に暮らせるんは、お大師さんの結界のおかげやけん。お大師さんに感謝する気持ちを忘れたらいかんよ」
 それがじいちゃんの口癖だった。
「じいちゃん、もし、その“けっかい”がなくなったらどうなるん?」
「そりゃあ、えらいことにならあ」
 四国が海に沈んでしまうかもしれんのう。と、わざとらしくすごんでみせるじいちゃんに、俺――あの頃はまだ素直で可愛げがあった――は随分と怖がらせられたものだ。
「なあに、心配せんでええ」
 じいちゃんの大きな手が幼い俺の頭を撫でた。
「結界の力が弱まらんよう、『八八さん』が見張ってくださっとる」
「はちはちさん?」
「おうよ。八八さんは八十八箇所のお寺に棲(す)む結界の守り人様での、普通の人間にそのお姿は視(み)えんが、いつも結界とわしらの暮らしを見守ってくださっとるんよ」
「そっか、なら安心やね!」

 ――そんな、幼い記憶を夢に見た。

 暑い夏の夜。
 蚊取り線香の匂い。じいちゃんの声。大きな手。
 繰り返し聞いた物語。
 四国遍路。お大師さん。四国を包む結界。
 そして。
 寺に棲まうヒトには視えない守り人。
 それらを思い出すたびに。
 俺の脳裏には、決まってあの“面影”が浮かぶのだった。


     /2

「――、恵!!」
 名前を呼ぶ声で目が覚めた。
「ほら! いい加減、起きなって!!」
 起き抜けの耳元でがなるのはやめてほしい。ズキズキと痛む頭を押さえながら顔を上げると、クラスメイトの鈴本陽子(すずもとようこ)が呆(あき)れたように笑っていた。
 長いストレートの黒髪に、黒縁の眼鏡。スカート丈は規則の“ひざ下五センチ厳守”を信条とする――なんでも、セーラー服はひざ下丈のスカートに三つ折りの白いソックスを合せるのがよい(萌える?)のだとか――愛媛県立美間(みかん)高等学校、二年B組の学級委員長であり、この学校の生徒会長をも務める逸材である。
 学級委員長という役回りと、また数少ない同中出身者ということもあって、鈴本は何かと俺に声をかけてきた。
 クラスに上手く馴染めないでいる俺が、唯一まともに会話のできる相手だった。
「まったく、終業式の日まで居眠りせんでもいいのに」
「終業式……?」
 そう、だった。苦笑まじりの鈴本の声にようやく思考が追いついた。
 今日は七月二十日、一学期の終業日だ。
 体育館で行われた一時間程度の式典を終えて、教室に戻ってきたところまでは何となく思い出すことができた。その後ホームルームが始まって、それから……?
 教室を見回すと、俺と鈴本の他に生徒の姿はなかった。
 窓から差し込む陽の光が、若干、西に傾いて見えるのは気のせいだろうか。
 今、何時だ?
 黒板の上に掛けられた時計を確認すると、針は「4」の文字を指していた。
「――は? もう四時!?」
 確か終業式が終わったのは十一時を過ぎた頃――ということは、かれこれ五時間近くも眠りこけていたことになる。
 なるほど、これは鈴本でなくとも呆れて笑ってしまう……。
「恵ってさ」
 名前を呼ばれて視線を戻すと、鈴本は何やら二つ折りの紙をじっと見ていた。
「授業中、あんなに居眠りしよるわりにはテストの点がいいけん、先生たちも悪い評価をつけられんのやね」
 相変わらず優秀なことで。と、称賛とも非難ともとれる物言いに、俺は何のことを言っているのかわからず、黙って鈴本の顔を窺(うかが)って――鈴本は鈴本で、それ以降はただ黙々とその紙に視線を落としていたのだが、不意に「ぷっ」と吹き出した。
「あははは! 今後の課題の欄、見た? ほら、ここ――って、あ! ちょっと!!」
「何、勝手に他人(ひと)の成績表を見てんだよ」
 鈴本が見ていたものが自分の成績表だとわかって、俺はそれを取り上げると無造作に鞄の中へ押し込んだ――何を見て笑ったのか確かめればよかったと思ったのはファスナーを閉めた後で、一度しまったものを取り出す気にはなれず、いっそ忘れることにした。
 どうせ、たいしたことは書かれていないだろう――と。
「もう、そんな引っ手繰(ひったく)るように取らんでも。別に減るもんでもなし」
 腰に手を当てて怒ったポーズの委員長。
「そりゃあ、減るもんじゃないけどさ……」
 見られたぐらいで減ったら困るけどさ、評価の値。これでも学費免除のために頑張っているわけだし。
 わざとらしく溜め息をついてから、一向に帰る素振りのない鈴本の顔を仰ぎ見た。
「ところで、こんな時間に何してんだ?」
「何って、あんたが起きるのを待ってたんじゃない。それなのにいつまで待っても起きる気配がないし……。私が声をかけんかったら、絶対、明日の朝まで眠ってたはずよ」
「どうせなら――」
 もっと早い時間に起こしてくれればよかったのに。
 言いかけて、やめた。
 よくよく考えずとも俺が勝手に眠り込んでいただけであって、鈴本にどうこう文句を言える立場ではない。感謝こそすれ愚痴をこぼすのは筋違いというものだ。
 俺は「いや……」と言葉をつないだ。
「それは、悪かったな」
「うん、素直でよろしい。人間、素直が一番なのだよ、幸野くん」
 お前は先生か。
「――で、俺に何か用?」
「ん? んー、まあね……。あー……、でもなあ…………うーん……」
「? どうした?」
 饒舌だった今までとはうってかわって、途端に歯切れが悪くなる委員長さん。
 何を躊躇(ためら)っているのかは知らないが、だからと言って今さら黙られても困る――それでも、鈴本がすっかり口をつぐんでしまったので、俺も付き合って黙することに決めた。
「…………」
「…………」
「……………………」
「……………………」
 ……あまり長く沈黙が続くと“先に喋ったヤツが負け”みたいな心境になるのは俺だけだろうか――もっとも今の場合、鈴本のほうは別に意地でだんまりを決め込んでいるわけではないだろうが(ないよな?)。
 とは言え、このまま向かい合っていても埒(らち)が明かないのは事実で――よもや愛の告白なんて展開は冗談であってもあり得ないし、そもそも、それを期待するほどの要素が微塵もない――いい加減、この状況が面倒くさくなってきた頃、
「……あのさ」
 と、長らく続いた沈黙を鈴本が破った。
 鈴本は――意を決したように――言う。
「えっと、何ていうか……愛の告白、みたいな?」
「………………………………………………………………………………………………………………」
「沈黙、長っ! しかも何、そのビミョーに嫌そうな顔!? まあ冗談だけど! 冗談に決まってるけど! ふーんだっ!!」
「いや、あまりにも唐突すぎて……」
「だからって、もう少し気の利いたリアクションってものがあるでしょ!?」
 机をバンする委員長。
 気の利いたリアクションも何も、突っ込む言葉の一つすら出なかった俺。
「そんなザマじゃ、いつまでたっても『リアクションチャンピオン』の座は譲ってあげられんよ!」
「いらんし……」
 そんなザマとか言うな。
 しかし鈴本がタイトル保持者だということに驚きなのだが。何の選手権だよ。
「とりあえず、冗談だよな?」
「冗談に決まってるってば。それとも何? ぬか喜びさせちゃった、みたいな?」
「それこそ冗談」
「あっそ」
 鈴本のこういう発言(だけにとどまらないので“奇行”と言うべきかもしれない)は今に始まったことではない。突拍子もないことをしてはクラスメイトを白けさせるという、有益か無益かわからない、あるいは有害にも思える能力を備えていた。
 それでも学級委員長だけでなく生徒会長にも抜擢されるのだから、そのキャラクター性は決して無用ではないのだろう。
 よくわからないヤツ。
 それが中学一年以来、ずっと同じ教室で勉学に励んできた鈴本陽子というクラスメイトに対する評価だった。
 もっとも。
 コイツに限らず、俺が“よくわかる”誰かなんてこの学校にいやしないのだけど。
「……まあいいや。別に用がないなら帰るぞ」
 そう言いながら鞄に手をかけて立ち上がろうとした瞬間、首の付け根あたりで嫌な音がした――「ゴキッ」と。
「おっと、帰るにはまだ早くてよ」
 襟首をつかまれて、椅子へと引き戻された。
「危な――」
「ハッシー先生から伝言をことづかってんの。ついでだから言っとくけど、こんな時間になったんは生徒会の仕事を片付けてたから!」
 鈴本は口早にそう言うと、俺の鼻先にプリント用紙を突きつけた。
 ハッシーもとい高橋裕樹(たかはしひろき)先生は二年B組の担任で、進路指導課主任と学年主任を兼任している。その先生からの伝言と聞いて、用件はすぐに思い当たった。
「先月締め切りの調査票、まだ出してないんやって? さっさと記入してさっさと職員室に持って来い! ――だってさ」
 やっぱりそれかと、内心うんざりしながら用紙を受け取って机の上に広げた――『進路希望調査』の文字がことに気持ちを憂鬱にさせる。
 あーあ、面倒くせえ。
「……ねえ、そんなマジんなって悩まんでも」
 プリント用紙と向かい合ったまま身動きしない俺を見かねたのか、鈴本が言った。
「うちらまだ二年なんやし、テキトーに書いて出しちゃえば?」
「適当に、ね」
 それができなかったからこそ今こうしているわけだが、そうとは言わず、「適当に書いたら調査の意味なくね?」と言ってみた。
「あんたって真面目なんか不真面目なんかわからんときあるよね」
 と、鼻で笑われた。
「じゃあさ、鈴本。お前は何て書いた?」
「私? 私は語学系の大学への進学だけど」
「…………」
 即答だった。
 鈴本はごく当たり前のように、さらりと答えた。
「ほら、私って外国文学好きだし国際文化学とか面白そうかなーって。実用性を考えたら特定の言語学に絞ったほうがいいんかなとも思うけど。ま、そこはまだ考え中」
 適当に(鈴本の言い方を借りるならテキトーに)放り投げたつもりの問いかけに、予想に反して、想定以上に、この上なく真っ当な答えが返ってきて、俺は何となく裏切られた気持ちになった。
 進路。将来の夢――か。
 とくに希望はありません。そう書いて出したいところではあったが、実際にそんな真似をするほど子供でもないし、少し考え(たふりをし)て近所にある大学名を第一志望欄に記入した。第二志望は……別にいっか、無記入で。
 そして自分の氏名と記入日を書いて、ボールペンを置いた。
「へえ、地元国立一択なんだ」
 俺が書き終わるのを隣で覗き見ていた鈴本が、意外そうに呟いた。
「まあ、私立は学費高いけんね。だからって、国立一本と言い切るのは流石と言うか……自信の差を見せつけられた気分と言うか」
 それは皮肉っぽい台詞ではあったが、素直に感心している風だった。何を勘違いしているのかは知らないが。
 とは言え、その勘違いをとりたてて指摘する気はなく、俺は書き上げたばかりの調査票を「はい」と鈴本に手渡した。
 鈴本はそれを反射的に受け取りつつ、きょとんとした顔を向ける。
「? 私に渡されても。職員室に行って先生に」
「かわりに提出しといて」
 ついでに教室の戸締りもよろしく。
 鈴本の言葉を遮るように言って立ち上がると――少し警戒していたのだが、今度は襟首をつかまれることはなかった――教室の出入り口へと向かった。
 一拍遅れて、背後から鈴本の抗議の声が聞こえてきたが、まあ、気にしない。

      ◇

 校舎の外。
 溶けるような暑さに眩暈(めまい)を覚えた。
 少し傾いたとは言え、相変わらずジリジリと照りつける太陽。炎天の下、校庭の向こうに見えるグラウンドからは威勢のいい掛け声が聞こえていた。
 どうやら野球部のようだ。
「こんな暑い中、ようやるわ……」
 青春の汗とはよく言ったものだが。
 そんなものとは無縁の帰宅部である俺は、クーラーの癒しを求めて学生寮へと急いだ。
 美間高校には学生寮がある。
 松山市内にある公立高校のうち寮があるのはここだけで、俺がこの学校を選んだ一番の理由はそれだった――加えて言うならば、文武両道を謳(うた)う高校が数多くある中、完全学問重視の偏った理念を掲げ、極端な話、“成績さえよければその他の問題は大目に見てもらえる”という校風が自分にとって都合がよかった、というのもある――その分、必然的に勉学に関してかなりシビアにならざるを得ないのだが――他にも理由はあるが、ここでは割愛しよう。
 寮は校舎のちょうど裏手に位置する場所にあった。
 正門を出て校舎を囲むフェンスに沿って暫く歩いていくと見えてくる、古ぼけた建物がそれなのだが、『愛媛県立美間高等学校学生寮』の木表札が掲げられた鉄筋コンクリート造の三階建てで、かなり老朽化が進んだボロ学生寮――耐震基準は大丈夫なのだろうか、正直不安になるレベルだ。
 そもそも学校自体の歴史はまだ浅く、校舎は他校と比べて格段にきれいなのだが、学生寮の建設までその費用を回せなかったらしい。元アパートとして使われていた格安物件を買い取って、そのまま寮として使っているのだそうだ――と、寮の管理をしている用務員のおっちゃんが言っていた。
 ほとんどの部分は修繕工事さえされていない有様だが、共用玄関だけは後から増築したもので、そこだけは不釣り合いに真新しく、高級マンション並みに美しかった。
 最も人目につく玄関さえ整えておけば、他が多少汚くても体裁は保てる――そんな学校側の思惑がうかがえる(というのも、用務員のおっちゃんの言)。
 もっとも誰がどう見たところで、お世辞でもきれいとは言いがたい寮であることに違いはないのだが、風呂やトイレは個別にあるし空調設備も整っている。慣れてしまえばそれなりに快適な空間だった。
 少なくとも、――よりは。
「おっと」
 気がつけば寮の玄関の真ん前に立っていた。
 中に入ろうとガラス扉の取っ手に手を伸ばそうとして――その手を止めた。
『只今、閉寮期間中』
 そう書かれた貼り紙が一枚。
 ……そうだ。
 もう夏休みだ。
 今日が一学期の終業日である以上、改めて確認することでもないのだけど。
 さておき、美間高校の学生寮は長期休暇中の利用が許されていない。と言うのも、休暇の間は親元に帰ってゆっくりと疲れをとるとともに、存分に孝行しなさいという学校側の意向であり、日頃は成績ばかりを重視し、ある意味、人間味を蔑ろにしている学校なりの配慮でもあった。
 俺からすれば、随分お節介な配慮なのだが。
 何かの事情で実家に帰れない生徒だっているかもしれないのに。
 とは言え、普段であれば終業式当日に寮が閉鎖されることはなく、少なくとも二、三日は荷物整理などの時間を設けてくれている。
 それが今年に限って、寮を管理しているおっちゃんが家族と海外旅行に出かけるとか何とか――だからと言って、そんなときに他の職員が管理人の代役を務めるという気の利いた優しさは、この学校にはなかったらしい――そんな理由で、閉寮時期が例年より早まったのだった。
「さて、どうするかな……」
 一人呟く声が、開かない扉の前で虚しく木霊する。
 職員室に行って鍵を借りてこようかと考えたが担任の姿が浮かんでやめた。呼び出しを無視して学校を出てきた手前、今さら顔を合わせるのは少々気まずい。
 まあ、わざわざ取りに入らないといけないほどの荷物があるわけでもないし。
 そう思い直して、そのまま学校を後にした。


     /3

 松山中央商店街は、愛媛県松山市の中心市街地にあるアーケード商店街で、「大街道(おおかいどう)」「銀天街(ぎんてんがい)」「まつちかTOWN」の三つの区間からなる。二〇〇六年、経済産業省外局の中小企業庁が選定した『がんばる商店街七十七選』の“にぎわいあふれる商店街”に選ばれたらしい。
 中心市街地の空洞化が嘆かれる時代ではあるが、地元の商店街にはやはり元気であってほしい思う――言うほど愛郷心のある人間ではないけれど、何度か立ち寄ったことのある店が久しぶりに足を運んだときには違う看板を揚げていたという話を聞くと、些か寂しい気持ちになったりするものだ。
 ほとんどの学校が夏休みに入ったばかりということもあって、平日の夕方という時間のわりには人通りが多かった。
 終業式を終えてそのまま遊びに来たのだろう、制服姿の学生も少なくない。
 俺はアーケード入り口にある駐輪場に自転車を置いて、そこから一番近い書店に入ると足早に小説コーナーへと向かった。今日はアニメ化もされている人気ファンタジー小説の新刊が発売される日だった。
 ……が。
「今日発売の小説? ああ、あれね。女の子がいっぱい出てくるやつ。そうだなあ、おいちゃんは髪の短い青い服の子が好きだなあ――うん? おいちゃんの好みはどうでもいいって? がはは、それもそうだ――で、申し訳ないけど入荷が遅れてな、週明けには入ると思うが……どうする? 取り置きしとくかい?」
 さほど顔馴染みというわけでもない書店の親仁(おやじ)が、通りすがりに軽い口調でそう言った。それも馬鹿デカい声で。
 店内(あくまで見える範囲)には俺以外に誰もいなかったからよかったものの、危うく愛読書が世間に知れ渡るところだった――別に隠し立てするほど恥ずかしい本を買い求めようとしていたわけではないし、俺の趣味が世間に知れ渡ったところで、それがどうしたという話ではあるが。
 要は気持ちの問題というやつだ。
 例えば、積極的に隠そうという気がなくとも結果的にそうなっていた場合、それが自分の意志とはまったく関係ないところで明るみに出るのは誰だっていい気はしないだろう。
 それはさておき、地方の(とくに個人経営の)書店では、発売日から店棚に並ぶまでに一日二日の時差が生じることがある――長年、毎週火曜日が発売日だと思っていた某週刊少年雑誌が、実は月曜日発売だという事実を知ったときの衝撃といったらない――小説もしかり。
 どんなに人気があろうと物理的流通に影響は与えられない。
 遅れるときは遅れるのだ。
 その結果、発売当日に店へ足を運ぶも、目的の本が手に入らずがっかりすることが割りとよくある。
 そんなわけで。
 今回もまた例に漏れず消沈したところで、と言いながら、往生際悪く他の店をあたってみようとその場を離れかけた俺は、平積みにされた小説の中にふと気になる一冊を見つけて立ち止まった。
 ライトノベルと称されるジャンルの小説――最近の流行なのだろう、やけに字数の多いタイトルが並ぶ(未曽有の五十字超えとか、どうしてこうなった!?)。あとはキラキラネームよろしく、ルビがないと読めない系が増えたような……。
 その中の一冊を手に取った。
 引き籠りの主人公とタヌキ少女のラブコメらしい。良くも悪くも流行に乗ったタイトルにキャラクターが描かれた表紙――気になったのはその横のポップで、手書きで書かれた紹介文に“松山市出身の作家”とあった。
 なるほど、それでタヌキ少女なのか。
 四国にはタヌキが登場する民話や伝説が多く残されている。
 たとえば『証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)』『分福茶釜(ぶんぶくちゃがま)』と並んで、日本三大狸話の一つに数えられる『松山騒動八百八狸物語』は、そのタイトル通り松山が舞台で、史実をもとに書き下ろされた物語にタヌキや妖怪の要素を加え怪談話にアレンジしたものが、伝統芸能の一つ講談(こうだん)として広まった。
 そこに「隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)」という化けダヌキが登場する。
 松山のタヌキは天智天皇の時代に端緒をなすほどの歴史を持ち、やがてその数は八百八匹にもなった――それらを統率していたのが隠神刑部で、その眷属の数から「八百八狸(はっぴゃくやたぬき)」とも呼ばれる。
 隠神刑部は、物語の最後には力を封じられ神通力を失ってしまうが、平成の狸合戦にもしっかり(ちゃっかり?)参加している。惜しむらく――おっと、これ以上のネタバレはやめておこう。
 ちなみになのだが。四国にタヌキの伝説が多いのは、お大師さんこと弘法大師・空海がキツネを四国から追い払ったせいだ、なんて言い伝えもある。
 もちろん、真相はわからないけれど。
 地元出身作家の小説、上・中・下巻の三冊を読了して店を出る頃にはすっかり陽も暮れて、時刻は二十時をまわっていた。
 とは言え、まだそれほど遅くはない時分――なのに擦れ違う人が疎(まば)らなのは、この暑さのせいだろうか。
 夕方、ここに着いたときには、それなりに賑わっているように思えたのだが……。
 俺は少し離れた大型の書店に立ち寄った後、暫く目的もないまま閑散としたアーケード内をうろついて、それから駐輪場へ自転車を取りに戻った。
 駐輪場から見上げた藍色の空。
 陽はもう完全に落ちたというのに、気温はまったく下がっていない。
 じっとりと湿気を帯びた空気が絡みついて、体感温度をさらに上昇させる。日中の焼けつくような陽射しのほうがまだ清々(すがすが)しかったとさえ思えるほどに。
 雨が降るってわけでもなさそうなのにな。
 頭上には――街の灯りで目を凝らさないと見えないが――星が光っている。少なくとも雨を降らせるような雲は一つもなかった。
 何となく嫌な感じを覚えつつ、俺は自転車にまたがるとアーケードから裏路地へと移動した。そして、少し走ったところで大きな通りへと出た。
 大街道と銀天街の二つの商店街が合流する交差点――そこに差し掛かったとき。
 一人の女の子が目にとまった。
 白衣(びゃくえ)をまとい、菅笠(すげがさ)をかぶり、手には杖が握られている。
 それは、四国で暮らしていれば誰しも一度くらいは目にしたことがあるはずの、お遍路さんの姿。
 と、最初は思った。
 だけど何かが違う。
 今までに見かけたお遍路さんのそれと、交差点の向こうから歩いてくる女の子のそれ。一見、同じように思えるのだが、やはりどこかがおかしい。
 擦れ違いざま、その子と目が合った。
 笠から覗く焦げ茶色の瞳――何かを秘めたその眼差し――には、どこか既視感があった――その姿に気をとられていた俺は、目前に迫る“それ”に気づいておらず、
「危ないっ!」
 誰ともわからない叫び声に、はっとなる。
「――っ!?」
 視界に落ちる影。
 飛び込んできたのは、大きな――腹! ……は、腹?
 “それ”が銀天街入り口にある“タヌキの像”だと認識できたときには遅かった。
 その巨体に正面から突っ込んだ俺は自転車共々吹っ飛ばされて――引力に抗う術もなく、そのまま地面へと落下した。

      ◇

「……………………いたた……」
 身体を動かそうとすると激痛が走った。
 それでも無理して上半身だけでも起こそうと四苦八苦していると、すっと白い手が差し出された。
「っと、スミマセン」
 反射的にその手を取って、顔を上げた。
「あ……」
 藍色の空の下。
 真っ白な着物が際立って映る。
 手を差し出して、真っ直ぐな眼差しを向けていたのは。
 交差点で擦れ違ったあの女の子だった。
 菅笠はかぶっていない。大きなリボンで束ねられた髪――その毛先が柔らかそうに夜風に揺れていた。
 そして、その髪の隙間から覗く丸みを帯びた獣の耳。……って、え? え!?
 流しかけた視線を思わず戻した。
 女の子の頭をまじまじと見つめる。
 が、当然ながら、そこに獣の耳なんて生えているはずはなく。
 丸くて先が少し黒い、まるでタヌキのような耳が見えた気がしたのはただの見間違いで――さっき読んだ小説のヒロインの面影と重なったのだろう――妙な幻覚を見てしまったようだ。
 だからってリアルで獣耳少女はどうよ、俺……。
 己に愕然としながら、改めて女の子を見上げた。
 目の前で手を差し伸べてくれている女の子は、いたって普通の女の子だった。
 あ、いや。
 普通と言い切ってもよいものか、些か疑問ではあるけれど。
 女の子は白衣を着て、橙色の輪袈裟(わげさ)を首にかけて、手には杖と菅笠を持っている――と、それだけ聞くと、正装をしたお遍路さんの姿が思い浮かぶことだろう。
 だが、しかし。
 一般的にイメージされるお遍路さんとは根本的に何かが違う――初見で感じた違和感の正体が、女の子を間近で見てようやくわかった。
 白衣が変、なのだ。
 レースをあしらった肩から袖口にかけて広がる袖の上衣は銀糸の帯で締められて、黒の帯締めがほどよいアクセントになっている。
 その下はフリフリのミニスカート。
 そして、白いニーソックス。
 ……コレ、本当にお遍路さんなのか?
 確かに、四国を巡礼するのに服装は自由だと聞いたことがあった。
 だけど――だからといって、見るからに歩きにくそうなその格好――それで無事に八十八箇所を巡り切れるのかと要らぬ心配をしてしまう。
 それとも、お遍路さんに似た格好をしているが巡礼をしているわけではない、とか?
 つまり、あれか。
 コスプレというやつか。
 松山もいつの間にやらそーゆー街になったというのか。
 そんな風に俺が女の子の服装について延々考察している間、彼女は彼女で、握った手を見つめたまま何か考え込んでいるようだった。
 そこで、はたと気づく。
 ここは往来のど真ん中。人通りが少ないとは言っても決して無人というわけではなく、俺たちの横を何人もの人々が通り過ぎていく――その視線がやけに冷たい。
 もっとも、それは仕方のないことだった。当然の帰結というやつだ。
 なにせかたや地面に座り込む男子学生、かたやコスプレお遍路少女。その周囲には散乱した本や筆記用具。ひっくり返った自転車がカラカラと後輪を鳴らしていた。
 そんな状況なのだから、人目を引くのは仕方がない。し、人がヒクのも仕方がない。
 とは言え、一旦気になると途端にいたたまれなくなって――しかも俺はその女の子と手をつないだままだった! ――今すぐにでもこの場所から逃げ出したかった。
 なのに女の子は固まったように動こうとしない。
 彼女は倒れている俺に手を差し伸べてはくれたが、引き起こしてくれる気はないらしい――俺の手を握って、それをただじっと見ていた。
 手を、と言うより。
 指輪を?
「あのー……?」
 声をかけた。が、反応がない。
「もしもーし」
 少し声のトーンを上げる。やはり反応がない。
「おーい!」
「? ??」
 つかまれた右手を軽く振ったところでようやく気づいてもらえた。
 彼女は俺の顔を見て、周りを見回して、もう一度俺の顔に視点を戻したところで、はっとした表情を浮かべる。
 それからの動作は俊敏だった――すぐさま手を放すと跳ねるように一歩下がり、ばつが悪そうに視線を送る――その仕草が小動物みたいで何となく可愛らしかった。
 俺は苦笑しながら立ち上がった。
 身体の痛みはいつの間にか消えていて出血などの外傷もほとんどなかった。あれほど派手に宙を舞ったにもかかわらず、かすり傷と打ち身程度ですんだのは本当に運がよかったとしか言いようがない。
「自転車も……大丈夫そうだな」
 側らに転がっていた自転車を起こし破損部分を確認する。カゴが大きく歪んでしまっているものの乗るのに支障はなさそうだ。
 俺が自転車を見ている間に、女の子は鞄からこぼれた本などを拾ってくれていた。
「あ、どうも」
 それを受け取りながら――彼女の視線が、やはり自分の指輪に向けられていることに気がついた。
 中指にはめた指輪は“お守り”として身に着けているものだが――いつだったか、鈴本に「アクセなんて柄にもない!」と言われたことがある。ほっとけ――別段、珍しいデザインというわけでもない、少し幅広の、文字のような模様が刻まれたシルバーリングだ。
 年季の入った、若干、薄汚れた感じの。
 なので、通りすがりの女の子がそこまで気にするような代物ではないはずなのだが。
 はず。と、曖昧な言い方になってしまうのは、その指輪が他人から譲ってもらった――いや、借りていると言ったほうがいいかもしれない――ものだからであって、その価値は正直わからない。
 パッと見ガラクタのようだが、実はものすごい高価な、数百万の値がつくアンティークということもないとは言い切れない(その場合は相手に殴られそうだ)。
 まあ、俺なんかに渡している時点で高が知れているという気もするが。
 さておき。
 目の前のコスプレ遍路少女は、格好も変だが挙動も変な女の子だった。
 それでも、倒れている誰かに手を差し伸べて、散らばった荷物を拾ってあげようと思う子だ。悪い子ではないのだろう。
 俺はもう一度お礼の言葉を告げて、その場所を離れた。
 自転車のハンドルを握る手。
 その右手の中指に、街灯に照らされた指輪が鈍く光る。
 ――あれから八年、か。
 すっかり夜色に沈んだ街を走りながら、俺はあの夏の“面影”を思い起こしていた。

      ◇

『手を出して』
 と、≪  ≫は言った。
 寺のお堂も、参道も、全てが朱に染まる時分――それは≪  ≫と別れた夕暮れの刻。
 言われるままに差し出した手のひらに、冷たくて固いものが触れた。
「……くれるの?」
『ううん。あげないよ』
 夕陽に染められた笑顔。
『それは、君に――』

 あのときの言葉だけが、なぜか上手く思い出せない。

つづく


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