第零話<プロローグ(中編)> ‐改訂版‐

2014年3月 加筆修正(10,150文字)

文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign


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 国道から逸れた山沿いの道。緩やかな坂道を自転車で上っていく。
 月明かりだけが頼りの視界には、ぼんやりと田畑が広がるばかりで――所々に人家の影を見つけることができるもののそこにヒトの気配は感じられず――辺りはただ静かに闇に沈んでいた。
 不自然さを感じた。
 その寂々(せきせき)たる雰囲気に。
 しん、と。
 まるで、得体の知れない“ナニカ”が息を潜めているかのような。
 街の灯りが遠くなるにつれ、その閑(しず)けさはより深みを増していく。
 そんな中。
 ジージー……と、変圧器に似たクビキリギスの鳴き声だけがやけに耳に響いていた。

      ◇

 中心街から少し離れた小高い山の中腹に恵八(けいはち)じいちゃんの家はある。
 幼い頃、ほとんどの時間をじいちゃんの家で過ごしていた俺はこの山間(やまあい)の道を駆け回って遊んでいた。
 高校に進学して学校指定の寮で生活するようになっても、バイトの予定が入っていない休日には決まってここに足を運んでいるので――もっとも、二年になってからはバイトと模擬試験とが重なり、ここへ来るのは実に三ヶ月振りになるのだが――この仄暗い外灯に照らされた小路と疎(まば)らな家並みは馴染みのある風景だった。
 見慣れた景色。
 厳密に言えば、数年ほど前まではじいちゃん以外に住んでいる人が居なかったわけで、ここ二、三年の間に新しい家が建ち並び(と言うほど並んでいるわけでもないけれど)、幾何(いくばく)か景観は変化した――それでも、ここに漂う空気は変わらない。
 ひっそりと薄寂しいこの空気は。
 つまり、今も昔も変わらず「田舎」だということ――それも頭に「ど」がつくほどの。……と、格好つけて言うことでもないのだが。
 ともかく、昼間ですら人の姿を見かけることが稀な場所柄。
 陽が沈んだ後は公道を歩いたところで誰一人として擦れ違うことがなくても不思議ではなく、亥の刻にもなれば、点々と灯る人家の燭(ともしび)もすべて消え去り、さながら廃集落のような静けさが一帯を包み込む。
 まして、もうじき一日が終わりを告げる深夜零時前ともなれば。
 なおさらそこは、当然のように無人で、必然のごとく無音の空間となる。そして、その“何もなさ”が“当たり前”であり“その場所らしさ”でもあった。
 そんな見慣れたはずの――誰も居るはずのない夜路(よみち)に。
 俺は、怪しい人影を見つけた。
 それはよく知っている家の前。幸野(こうの)の表札がかかった門のちょうど真ん前で、きょろきょろと辺りを見回し徘徊する様は不審者以外の何者でもなかった。
「…………」
 俺は自転車から降りると、ゆっくりとその影に近づいて声をかけた。
「……じいちゃん、そんなところで何しよるん?」
 かくして。
 不審な人影の正体は俺の祖父――御年八十八になる幸野恵八だったわけだが、こんな夜更けに一体何をしているのだろう。まさか、認ち……
「おお、恵」
 俺に気がついたじいちゃんは「おかえり」と片手を挙げて応えてくれた。昔から変わらない朗らかな笑顔――その様子に別段、変わったところは見られない。
 よかった。自分の家がわからないとか、無意識のまま歩き回っていたとか、そういうわけではなさそうで、俺はほっと胸を撫で下ろした。
 ……いや、待て。それはそれで問題だが。
 遅くとも二十時には布団に入るじいちゃんが、なんたってこんな夜中に――こんな日付が変わろうという時分に、真っ暗な夜道をふらふらと徘徊していたのか。
「何しよるん? 何かあったん?」
 俺は繰り返して訊いた。それに対して、じいちゃんは「うむ」と肯(うなず)いた。
「それがのう、たいさんがおらんなってしもうて……。来しな(来る途中)に見かけんかったかのう?」
「? たいさんって?」
 田井さん……泰さん……退散……耐酸……タイ産……●田胃散……?
 頭の中をいろいろな“たいさん”が走り抜けたが、どれも心当たりがなかった。
「ほれ、いつだったか――裏の畑に怪我をしたタヌキがおったという話をしたやろう」
「あ、ああ。あのときのアイツか」
 思い出した。
 確か六月の初め、ちょうど梅雨に入ったばかりの頃だったと思う。
 家の裏手にあるみかん山。じいちゃんはそこで一匹のタヌキを見つけた。
 怪我をして動けない様子だったので連れ帰って手当をしてやると、そいつはそのまま家に居ついて――人家の暮らしが余程気に入ったのか、出て行こうとしなかったらしい――それで結局、じいちゃんはそのタヌキを家で飼うことにした。と、そんな話だった。
 そのタヌキの名前が「たいさん」だ。
「それで、この近くにたいさんはおらんかったかのう?」
「いや、多分見てないけど……」
 電話で話を聞いただけで、実物は見たことがなかった。
 タヌキのたいさんと言われてもすぐにその姿は浮かばなかったので、頭の中ではイヌをイメージしていた。尻尾が太くて、毛がふさっとした茶黒っぽいイヌ。
「ほうか……。どこに行ってしもうたんやろうなあ。一言も告げんと去っていくとは水臭いのう、心配やのう」
 と、じいちゃん。
「心配せんでも腹が減ったら帰ってくるやろ」
 俺はじいちゃんをなだめて――もとは野生のタヌキ、自然に帰ったという可能性もあるわけだが――家の中に入るように促した。
 およそ三ヶ月振りのじいちゃんの家。玄関の土間には鍬(くわ)や採れた野菜を入れるカゴが積まれていて、それを踏まないように靴を脱いだ。
 居間で荷物を下ろしていると(と言っても、寮に入れなかったので荷物は学生鞄と本屋の袋だけだが)、じいちゃんが飲み物を持って入ってきた。
 グラスに注がれていたのはお馴染みの“オレンジ色のアレ”である。常備しているとは流石“みかん県”の住人だと言わざるを得ない。
「およ? 恵。お前、所々に怪我をしとるみたいやが、一体どうしたんよ」
「ああ、チャリで転んで……。ま、傷とか全然たいしたことないけん気にせんで」
 そう言えば、タヌキの腹に頭から突っ込んで弾き飛ばされたのだった。派手に宙を舞ったわりには軽傷で、今はその痛みもなく、おかげですっかり忘れていた。
「それでうちに来るんがこんなにも遅うなったんか」
「いや、そう言うわけじゃあないんやけど」
 本屋に寄って小説を立ち読みしていたからだと言うと、じいちゃんは「相変わらず本が好きやのう」と笑った。
「晩飯は食うたかね? お隣の西田さんが鯛飯をおすそ分けしてくれてなあ。それと里芋とじゃこ天の煮物も少しやが残しとるけん、腹が空いとるならレンジでチンして食うたらええよ」
 ちなみに里芋は「伊予美人」やけんの。と、地元産をアピールするじいちゃん。
「ご飯はいいや。来る前にすませたし」
 それは嘘だったが、何となく食欲がなくてじいちゃんの申し出を断った。
 ところでお隣の西田さん。お隣と言っても軽く四百メートルは離れているお隣さんで、正直あまり面識はないのだが、じいちゃんの情報によるとたまげる(びっくりする)ほどデカいイヌを飼っているらしい――そういや、たまに遠吠えが聞こえてくるなあと思っていたが、なるほど、西田さんちのワンちゃんだったのか。
「恵や、学校はどうかね? 楽しんどるかね?」
「んー……普通」
 愛媛の真面目なポ●ジュースを飲みながら――夏でも熱い緑茶を好んで飲むじいちゃんは湯呑みを片手に――とりとめのない会話を交わす。
 会話と言っても喋っていたのはほとんどじいちゃんで、俺はじいちゃんの質問に答えを返す程度だった。
 唯一、俺が自発的に話したことと言えば、タヌキ像の前で出逢った風変りな遍路服姿の少女のことぐらいで。
「ほう! 変わった格好のお遍路さんとな?」
 思いがけず、じいちゃんがその話に食いついた。
「お遍路さんも時代とともに変わっていくけんのう。最近はほれ、何て言うたか――そうそう、『お遍路ギャル』よ、『お遍路ギャル』。『お遍路ガール』とも言うんかのう? とかく、若い女の子のお遍路さんが増えてきたそうな。今はそういう時代やけん、女の子らしい可愛いお遍路衣装があってもええのになあと、前々から思いよったんよ」
「へえ、てっきりじいちゃんのことやけん『遍路をするなら昔ながらの白衣(びゃくえ)を着んといかん!』って怒るんかと思った」
 その言葉にじいちゃんは、
「以前のわしなら白衣を奨(すす)めとったに違いないが――まあ、時代が変われば人の心も変化するいうことよ」
 と、言った。どことなく含みのある言葉に俺は「そっか」と相槌を打った。
「ときに、恵よ。女の子と言えば」
 ずいっと身を乗り出すじいちゃん。
「来月の八日には、お前も十七歳になるわけやが。どうかね、ぼちぼちお付き合いをするような女の子の七人や八人できたかね?」
「いや、おらんけど……」
 しかも、七人や八人って。多すぎやしないか?
「ほうかあ、それはつまら寂しいのう」
 孫に浮いた話がないと知って、残念そうに肩をすくめる祖父・恵八。しれっと誤魔化したつもりかもしれないが、言葉が混ざって新たな言葉が生まれているぞ、じいちゃんよ。つまらさびしいって何さ。
「わしがばあさんと出逢ったのはな、今から七十二年前。ちょうど今の恵と同じ歳のことでなあ」
「あー、その話は三十回以上聞いた」
 俺の記憶が確かならば、次で三十三回目だ。
 ところで、三十三という数字は仏教において特別な意味を持っている。「三十三間堂」や「西国三十三所」の「三十三」は、観世音菩薩が人々を救済するとき三十三の姿に変身するという「三十三応現身(さんじゅうさんおうげんじん)」に由来するらしい。
 ともすれば、じいちゃんの馴れ初め話を三十三回聞けば何かしらの救いが! ……とかないか。
「そういや、いつの間にパソコンなんか買ったん?」
 話題を変えようと話のタネを探していた俺は、円卓――幼い頃“ちゃぶ台返しごっこ”をして叱られた記憶がある――をはさんで座るじいちゃんの側らに、見覚えのないノートパソコンが置かれてあるのに気がついた。
「ほうよほうよ、すっかり言うのを忘れとった。実はの、先月からパソコン教室とやらに通い始めてのう」
 あからさまな話題転換にじいちゃんは気を悪くする風もなく、どころか嬉しそうな顔でそう答えて、赤色のパソコン(派手だな!)を持ち上げてみせた。
「ええやろう? ばあさんに内緒で買うてしもうたんよ」
「へえ」
 ばあちゃんに内緒なのか。
 そう言えば、ばあちゃん、久しく姿を見ていないがどこに行ったのだろう……。あ、別に行方不明ってわけではなく。
 昔から旅行が趣味だったばあちゃんは、現在、じいちゃんを放ったらかしに友達と世界中を飛び回っている最中で――じいちゃんには定期的に写真入りのハガキが届くらしく安否はわかるらしい――裏を返せば、それしか安否と所在を知る手掛かりはないのだが――ともあれ、この地球のどこかで元気に遊んでいるのは確かで(よもや宇宙に飛び立っていたりはしないよな?)、親族共々さして心配はしていなかった。
「それでの、インターネットとやらを教わってなあ。今は店に行かんでも買い物ができる時代なんやなあ。ほれ、このタオルも通販サイトとやらで買うたんよ」
 じいちゃんはそう言って、首に巻いた真っ赤なタオル(これまた派手だな!)を広げて見せてくれた――愛媛の「愛」の文字が大きく刺繍されていて地味にカッコイイ。
 愛媛県の北東部にある今治市(いまばりし)は世界有数のタオルの産地で(ゆるキャラグランプリ二〇一二王者の腹巻を巻いた某黄色い鳥さんの生まれ故郷でもある)、そこで誕生した「今治タオル」ブランドは、近年、日本国内だけではなく世界にも広く知られるようになった。
「使い心地をぜひとも試してみたかったんよ」
 と、じいちゃんは真っ赤な愛タオルに頬ずりしながら満足そうに目を細める。
 その恍惚とした表情を眺めながら、俺は、
「それはよかった――と、言いたいところですが、じいちゃん」
 と、言った。
 じいちゃんは「どないした、改まって?」と顔を向ける。
 俺は自分の背後を指差して、一言。
「買い過ぎ」
 そこには。
 タオルの山が築かれていた。ざっと数えても百はくだらない。
 その言葉に、じいちゃんは「はっ」とした顔をする。
「しまった、ばれた!」
「ばれるわ!」
 てか、隠していたつもりだったのか!? 部屋に入ったときからバレバレだったよ! 突っ込まなかっただけで!!
「ちなみに、わしの寝室にはこれの三倍置いてある!」
「なんだって!?」
 タオル一枚二千円として、四百枚――あ、考えるんじゃなかった。
「簡単に買い物ができるけんって、何でもかんでもポンポン買うたらいかんよ」
 俺はそうまとめて、いったん話を切った。
 にしても、じいちゃんがパソコンねえ。「とやら」が多いが、それなりに使いこなしているようだ。
「でな、この間“えむえむおーあーるぴーじー(MMORPG)”とやらを始めてみたんやが、なかなか奥が深くて面白いのう。『人の数だけ煩悩がある!』略して『ひとぼん』言うて、煩悩の化身『ぼんのーん』を滅却しながら智慧(ちえ)を集めて功徳(くどく)を積んで終いには涅槃寂静(ねはんせいじゃく)を目指すんじゃが、そこで同志が百八人できてのう、一昨日“おふかい(オフ会)”とやらに行ってきたんよ」
「なんと!」
 俺より使いこなしていた!
 ゲームのタイトルや内容にはあえて突っ込みを入れないが、じいちゃんが毎晩二十時に就寝していたとか、もはや過去の話なんだろうなあ。
 タヌキのたいさんを探して夜道を歩き回っていたのも、心配で眠れなかったというわけではなくて、普通に活動時間の範囲内だったんだろうなあ。
 ばあちゃんがいなくて(俺も暫く遊びにきてなかったし)寂しいのはわかるが、だからと言って独り暮らしの学生みたいな生活を謳歌するなよ。それもネットゲームで昼夜逆転とか、不健康極まりないと思うんだ……。
 はたして、パソコン話は俺がついていけなくなったところで終了した。
「――で、恵は今日から夏休みかのう?」
 じいちゃんは二杯目の緑茶を飲み干すと、俺にそう訊いた。
「うん。暫くバイトも休みやけん、また畑の仕事を手伝わせてや」
「ほうかね、ほうかね。それは有り難いのう」
 じいちゃんは嬉しそうに破顔した。
 そして、空になった湯呑みを卓上に起きながら、「やけどな、恵」と続けた。
「家にいんだ(帰った)ほうがええ。たまには母さんらに顔を見せてやらんと」
 もちろん、こうして遊びに来てくれるんは嬉しいし、何日泊まろうと迷惑なんてことは全然ないんよ。と、じいちゃんは言って、また笑った――だけど、その笑顔はどことなく悲しそうに見えた。
 俺は何も答えることができず――だからと言ってじいちゃんの言葉を無視するわけにもいかず――黙って頷いた。
 でもその動作は首肯の意ではなく、じいちゃんの顔を真っ直ぐ見ていられなかったから視線を逸らせた結果であって、多分、じいちゃんもそれに気づいている。
「…………」
 俯(うつむ)いたまま顔を上げることができない。
 暫くして、向かい側に座っていたじいちゃんが立ち上がったのがわかった。何も言わずその場から離れていく。
 きっと怒っているのだろう――いや、呆れているのかもしれない。
 幼い頃から都合が悪くなると黙り込んでしまう俺に。
 だが。
 くしゃっと、何かが俺の頭を撫でた。
「今夜はもう遅い。ぼちぼち眠るとするかのう」
 じいちゃんの声。
 その声はいつもと変わらず優しかった。


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「…………」
 夜中にふと目が覚めた。
 枕元に転がる携帯電話に手を伸ばして時計を確認すると、時刻はまだ午前三時を回ったばかりだった。
 目を閉じて寝直そうと試みるが、どうもうまく寝つけない。
 眠くないわけじゃあない。
 ただ、目覚めた脳がここぞとばかりに思考を巡らせる。
 こんなときに思い浮かぶのは、決まって“あまり考えたくないこと”だ。
 目蓋の裏に浮かぶじいちゃんの顔――困ったような少し悲しげなさっきの笑顔。
 円卓をはさんで話をした、あの後。
 二人分のグラスと湯呑みを片付けて、俺は二階の和室へと移動した――そこにはすでに布団が用意されていて、寝転がると微かながら陽に干した匂いがした。
 夏休み中は学生寮が使えなくなることをじいちゃんは知っている。
 寮を追い出された俺が実家に帰らずここへ来ることを、もしかしたら予見していたのかもしれない。
 いや。
 もしかしたら、ではない。
 俺がここに来るとわかっていたから、夕飯のおかずを残して布団も準備してくれていたのであって――みかんジュースにしても、いかに命の水と歌われようとジュースそのものをあまり口にしないじいちゃんが常備していたとは考えにくい――それは久々に会う孫をもてなそうと、あらかじめ用意してくれていたものに違いなかった。
 いつだってそうなのだ。
 じいちゃんは俺に優しい。
 八年前のあの日も。
 八年経った今でも。
 そして俺は、そんなじいちゃんに甘えてしまっている。
『家にいんだほうがええ』
 じいちゃんが言った。
 たまには実家に帰って母親に顔を見せてこい、と。
「………………」
 深く溜め息をついた。
 いつからこうなったのか――なってしまったのか、と考える。
 だが、いくら思考を巡らせたところで答えなど出てこない。
 そんなことはとっくの昔にわかっていた。
 ずきり。
 と、どこかが痛んだ。
 目を開けると、竿縁(さおぶち)の天井が豆電球の橙色に浮かび上がって視界に映る。
 意識は完全に醒(さ)めていた。

      ◇

 古びた階段が「ギィ、ギィ……」と軋みを上げる。
 じいちゃんの家は昔ながらの木造家屋だ。階段や廊下(鶯張りというわけではない!)を踏むたびに響くその音が、どれほどの歳月を刻んできたかを物語っていた。
 すっかり目が覚めてしまった俺は、何とはなしに水を飲みに一階の台所へと向かった。
 階段下から台所までは長い廊下が続いている。
 そこで背筋がぞくりとした。
 北側の廊下は明かり取りがなく昼間でも薄暗い。常に足元灯が点いているが、わずかな電球色ではこの長い廊下全体を照らすには頼りなかった。
 幼い頃、暗い廊下が怖くて、夜中にトイレに行きたくなると寝ているじいちゃんを揺り起こしては付き添ってもらっていた。
 でもそれは、あくまで幼い頃の話だ。
 確かに老朽化も相まって、他人の目には不気味に映ることもあるかもしれないが、俺にとっては慣れ親しんだ愛着のある場所なのだ。
 だから、その先が暗く吸い込まれそうで、言い知れぬ恐怖に足がすくむとか、知っているはずなのに知らない場所に迷い込んでしまったような、得体の知れない不安感にとらわれるとか――ない。
 ほら、よく見ろよ。見慣れたじいちゃんちの廊下じゃあないか。
 事実、目の前にあるのは相変わらず暗くてひっそりとしたいつもの廊下だった。
 いつもと変わらない場所。
 なのに。
 いつもと違う闇が、確かにそこに在(あ)った。
 静寂という暗闇。
 そう言えば。
 あの耳障りな虫の声さえ、今は、聞こえない……?

 ――■

 刹那、何か聞こえた。
 何かの“声”が聞こえた気がした。
 俺は思わず後ずさりした――それが目前の暗闇から聞こえてきたから、というわけではない――ただ、身動ぎせずにはいられなかった。
 胸の奥が“ぞわぞわ”として吐きそうになる。
 身体は火照って暑いはずなのに、背筋が粟立つ感覚がキモチワルイ。
 多分、それは聞いてはいけない声――ヒトが聞くべきではない声だと本能的にわかった――解ったのだが。
 俺は、ついその声に耳を傾けてしまった。

 ――■■■■■■■■■■■■

 それは。
 まるで闇の淵底(えんてい)から響いてくるような、昏(くら)い呻き声だった。
 この世の全ての「苦」を内包し知らしめる呻吟(しんぎん)。
 形容しがたい悪寒に総毛立つ。
 息苦しくて呼吸すらままならない。心臓をわしづかみにされた気分だ……。
 堪えきれず両耳を塞いだ。
 聞こえない。
 と、心の中で繰り繰り返す。
 聞いてはいけなかった――聞こえてはいけなかった。
 こんなにも闇(くら)い声なんかに、耳を傾けてはいけなかったのだ。
 聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。
 聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。
 聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。聞こえない。
 自分に言い聞かせた。
 たとえ今、何か聞こえていたとしても。
 それはきっと、西田さんちのたまげるほどデカい愛犬・小太郎くんが吠(ほ)えているだけなのだ――と。

      ◇

「大きいのに小太郎とか、なんでやねん!」
 流石にノリツッコミできるほどの余裕はなかったが、自己暗示はそれなりに有効だったようで、いつの間にかあの呻き声は消えていた。
 かわりにクビキリギスの鳴き声がどこからともなく聞こえてきて――あれほど鬱陶しく耳障りだったその音に「日常」を感じて――知らず安堵する自分がいた。
 一度周りを見回し、いつものじいちゃんの家であることを実感する。
 気持ちが落ち着きを取り戻すと、疑問が頭をもたげた。
 あの声は一体何だったのだろうか……。
「っ……!」
 さっきのあれを思い起こした瞬間、猛烈な吐き気に襲われた――さながら、身体が「それ以上は考えるな」と警告しているかのように。
 俺は咄嗟(とっさ)に口を押えて台所へと走った。
 廊下の突き当たり――じいちゃんの部屋の前を横切って台所に入ると、流し台へと駆け寄った。
 そして水道の栓を思いきり捻じって、蛇口から直接水を飲んだ。節水の心掛けはこの際ガン無視で、勢いよく流れ出る水をガブ飲みした。
 基本、蛇口に口をつけるのも、水道水をそのまま飲むのも抵抗がある人間なのだが――そこではじめて自分の喉がひどく渇いていたことに気がついた。
 十分に喉を潤し一息入れてから、二階の和室に戻ろうとじいちゃんの部屋の前を通り過ぎようとして、俺はふと足を止めた。
 じいちゃんの部屋から明かりもれている。
 まさか、『ぼんのーん』滅却に勤しんでいるわけじゃあないよな……?
「じいちゃん――」
 ゲームもええけどあんまり夜更かしせられんよ。と、襖(ふすま)越しに声をかけようとして言葉を飲み込んだ。
 話し声が聞こえたからだ。
 襖の隙間からちらりとじいちゃんの姿が見えた――どうやら電話をしているらしい。
 こんな時間に電話? 誰と?
 オンラインゲームでのトラブルとか、高齢者を狙った詐欺事件とかのニュース記事が頭をよぎって、思わず耳をそばだてた。
 ぽつりぽつりと、じいちゃんの話し声が聞こえてくる。
「夜遅うに所々傷をこさえて(作って)来るけんたまげたが――いやいや、たいした怪我じゃあないんよ。自転車で転んだと言っておったが、幸いかすり傷だけでのう」
 しかし、あいつは落ち着いとるようで、案外そそっかしいところがあるのう。と、じいちゃんが微笑する。
「――でな、今日が終業式やったとかで成績表を見せてもらったんやが、学校には真面目に通いよるし、勉強だって頑張っとる。相変わらず人付き合いは苦手そうだがのう。そこはお前やばあさんに似たらよかったのになあ」
 その内容から電話の相手が母親なのだとわかった。
 相手さえわかれば、これ以上ここで聞き耳を立てている理由はない。詐欺まがいの何かだったらどうしようかと身構えたりもしたが、その心配はないようだ。
 それに身内とは言え、いつまでも人の会話を盗み聞きするのは気が引けるし、俺は早々にその場を離れようとした。
「二学期が始まるまでうちで面倒みとるけん、心配せんでええよ。本当ならちゃんと家に帰るように言わないかんのやがのう……」
 背後でじいちゃんの声がする。
「……そもそも、あいつがああも家に帰りたがらんようなったんは、わしのせいやけんのう。お前の父親として、あいつの祖父として、あのとき間に入って取り持っておったら、こうはならんかったのかもしれん」
 すまんことをしたのう、と小さく言うじいちゃんの言葉が痛かった。
「このままじゃあいかんとわかってはおるが、かと言うて、今さら頭ごなしに言うことはできんやろう――それにあれこれ言うたところで、納得するかどうか、できるかどうかは本人の気持ち次第やけんのう――時間はかかるかもしれんが、もう少し黙って様子を見ていてはくれまいか」
 じいちゃんは続ける。
「ただのう、わしらが思うとる以上に、きっとあいつは悩んどる――考えんでええことを考えて、苦しんどるんじゃあなかろうかと――それが心配でならんのよ」
 階段へ向かっていたはずの足が止まっていた。
 どころか、指先すら凍りついたように動かない。
 立ち聞きをしているという後ろめたさはとっくになく、俺はじいちゃんの言葉の続きを待っていた。
 今は受話器の向こうで母親が話をしているらしく(流石にその声までは聞こえない)、時折、じいちゃんが「うん、うん」と相槌を打った。
 そして短い間の後、
「うむ、お前が恵を心配しとるんはわかっとる。恵だってそれぐらいわかっとろうよ」
 穏やかな声で、じいちゃんはそう言った。
 その言葉を背に受けて、俺は二階の和室へと戻った。
 部屋に戻っても布団には入らず、窓辺に腰を下ろした。
 ガラス越しに映る虚空に浮かぶ月――それを見上げながら考える。
 さっきの言葉の意味を。
 はは。と、笑みがこぼれた。
 ……そっか。
 心配してくれてたんだ――母さん。
 目を閉じると、あのときの――八年前の“あの言葉”が浮かんでくる。
 そして、それが口をついた。
「“嘘つき”」

つづく


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