第零話<プロローグ(後編)> ‐改訂版‐

2014年3月 加筆修正(11,690文字)

文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign


     /6

 窓の外が白み始めた。
 俺は布団の上でその様子をぼんやりと眺めていた。
 結局、あれから一睡もできないまま朝を迎えて――このまま横になっていても、やはり眠れはしないだろう。
 時刻は五時。
 少し早いと思いつつ、ジーンズに着替えて部屋を出た。

      ◇

 やうやう(ようよう)白くなりゆく山際(やまぎわ)少し明かりて紫だちたる雲の細くたなびきたる――と言うのは三大随筆の一つ『枕草子』の冒頭だっただろうか。
 春は明け方がいい。
 と、古の女流作家は春暁の趣をそう著した。
 そして夏は夜がいいのだと。
 だけど、夏の曙(あけぼの)だって悪くはない――中庭に立って東の空を見上げながらそんなことを思う。
 春霞のような幻想的な風情はなくとも、山間に湧き立つ雲が薄らと曙色に染まり、優雅に流れていく――それはきれいな朝焼けだった。
 朝焼けを見るのは何年振りだろう。
 昔はよくじいちゃんと眺めていたものだが……。
 もの思いにふけりながら中庭を散策して(と言うほど広い庭でもないが)、家の裏手へと歩いていく。
 そこには幼い頃の俺が一番好きだった場所がある。
 奥まったところにぽつんと建つ古ぼけた蔵――くすんだ灰色の瓦屋根に、今にも崩れ落ちそうな漆喰壁。そして、所々腐食した鉄金具の重厚な蔵戸――その朽ち果てた建物は、裏庭の最奥という立地も相まって幼心に秘密基地を連想させた。
 黙って忍び込んではじいちゃんに叱られたりもしたっけ。
 懐かしさに口元が緩む。
 やがて小学校高学年になり、探検ごっこを卒業してからはすっかり寄りつかなくなった場所ではあったが、今日はなぜか久しぶりに行ってみようという気になった。
 あるいは、行かなければ――と。
 引き寄せられるように向かった裏庭に、はたして、その蔵は記憶の中のそのままの姿でそこにあった。
 一つ変わったところがあると言えば、昔はもっと大きな建物だと思っていたぐらいか。
 近づいて蔵戸に触れる。
「……ん?」
 ギィ、と。
 丁番が錆びついた音を鳴らし、わずかに扉が開いた。
 鍵が開いている……?
 長らく使っていないとばかり思っていたのだが。
 とは言え、ただ単にじいちゃんが鍵をかけ忘れただけだろうと、さして気にもとめず、俺は思いきり蔵戸を開けた。
――と同時に、ふっと視界が暗くなる。
 おっと、昨夜も似たようなことがなかったか。
 なんて悠長に考える隙などなく、頭上から襲い掛かるように落ちてくる箱、箱、箱。
「うわああああ」
 全力で後ろに飛びのいた。
 バランスを崩して尻餅をついた俺の目前――鼻先すれすれを、大小様々な箱が一緒くたになって降りそそぎ、地面に打ちつけられて四散した。
「……………………なんで、箱ばっかなんだよ」
 早鐘を打つ胸を押さえて思わず口をついた言葉は我ながら間抜けだったが、俺以外の誰かであってもきっと同じ台詞を口にしただろう。
 紙箱、木箱、段ボール箱、桐箱、筆箱、硯箱、裁縫箱、工具箱、重箱、弁当箱、巣箱、ゴミ箱、下駄箱、玩具箱、跳び箱、吃驚箱、貯金箱、宝石箱、玉手箱、目安箱、賽銭箱。
 無数の箱が散らばる光景(珍百景登録なるか!)。
 なぜそれが一般家庭の蔵にあるのだろうと考えざるを得ない箱もあるわけだが、それはさておき。
 半ば放心状態で座り込んだ俺のもとへ、
「恵いいいいいい!!」
 と、じいちゃんが血相を変えて走ってくるのが見えた。
 頭に麦わら帽子をかぶり、手に鍬を持ったその格好から、畑仕事から戻ったばかりだとわかる。どんなに寝る時間が遅くなろうとも早起きの習慣は崩れていないようだった。
 じいちゃん元気だなあ。あれで御年八十八なんだもんなあ。
 なんて、若干的外れな感想を抱いていた俺に、じいちゃんは走り寄って、
「大丈夫かの! 怪我はないかの!? どっか痛めたりはしとらんかのおおおお!?」
 と、とても高齢とは思えない腕力で俺の身体を力いっぱい抱きしめた。
「ぐはっ」
 まさか、これほどまでに熱烈な抱擁をじいちゃんから受けることになろうとは思ってもいなかった。流石に「箱が飛んできたことよりも」とまでは言わないが、衝撃的な一コマだった……!
 いや、「だった」ではない。
 現在進行で抱きしめられているわけで、ぎりぎりぎりぎり締め上げられているわけで、てか、く、苦しい……。
「だ、だだ、だ、大丈夫やけん、す、すこ少し離れて……」
「ほ、ほほ、ほ、ほうか。け、け怪我がないなら構わんが……」
 息が詰まって言葉が途切れ途切れになった俺に引きずられるように、じいちゃんの口調までおかしくなる(つか、つられる意味がわからない)。
 じいちゃんを引き剥がして、俺はようやく一息ついた。
「――で、恵よ。一体何があったね?」
「俺も何が何だか……」
 扉を開けたら突然箱が降ってきた、と、それ以上の説明のしようがない。
 じいちゃんは怪訝そうに首を傾げる。
「おかしいのう。一昨年、大掃除をしてから誰も入っとらんはずやが。それに散らかっとるんは箱ばかりで、中身はどこにいったんやろうか……うん?」
「……ん?」
 示し合わせたように顔を見合わせた。
 扉の奥から、何やら物音が聞こえたような?

      ◇

 蔵の中は惨憺(さんたん)たる有様だった。
 本、雑貨、衣類、文具、玩具、工具、農具、果ては何かよくわからないガラクタまで、様々な物体が床一面を埋め尽くす。
 おそらくは外に散らばった箱の中身――物という物がごちゃ混ぜになって散乱して、さながら泥棒に入られた後のような――いや、泥棒だってここまで無意味に散らかしたりはするまい――言うならば“荒らすためだけに荒らした”とばかりの惨状がそこにあった。
 そんな破滅的な部屋の真ん中に、ぽつんと。
 小さな白い影が佇(たたず)んでいた。
「…………」
「…………」
「…………」
 思わず無言で固まる俺とじいちゃんと白い影――人間、咄嗟の事態には動作はおろか、思考すら停止してしまうといういい見本だった。
 しかし、沈黙は比較的たやすく破られた。
「――あの」
 と、真っ先に口を開いたのは白い影。
 そして何の戸惑いも躊躇(ためら)いもなく、潔癖なほど簡潔に潔く(意味がダダ被りだが気にしない)、
「ごめんなさい!!」
 謝罪の一言とともにがばっと頭を下げた。その勢いで、後ろで一つに束ねた長い髪が跳ねる。
「あれ、君は……」
 大きな白いリボンを結んだ茶色い髪。
 それよりも特徴的なのはその衣装――ふりふりひらひらな遍路衣装。
「およ? 恵の知り合いの子かね」
「いや、知り合いってほどでもないけど。と言うか、昨日話した遍路服の子」
「おお」
 雑然と取り散らかした部屋の中央に立っていたのは、街で出逢ったあの女の子だった。
 たまたま居合わせただけの会話だってろくに交わしていない相手だったが、知っている顔につい気が緩む。
 もちろん、顔を知っているからと言って素性が知れているわけでもなく、ことさら外見で判断しては痛い目を見るという通説を軽んじるつもりもないのだが。
 それでも蔵に潜んでいたのが、ひょっとすればひょっとすると、見知らぬ武装した中年男性だったという可能性だってあったわけで――そんな中、そこに居たのが見たことのある少女だったのだから、覚えず安堵してしまったとしてもそれは仕方がない。
 多少の心弛(こころゆる)びは誰にも責めることはできまい。
 それに、その子が俺たちの姿を見るや逃げ出そうとしたならば、もう少し緊張感のある状況になっていただろうが、現実は――目前の遍路少女は、頭を下げたまま逃げるどころか身じろぎひとつしない状態だった。
 いや、よく見ればその身体は微かに動いていた。
 女の子は俯いて、肩を小刻みに震わせている。
「…………」
 こういう状況はほとほと対処に窮する。
 この住居侵入を犯した女の子(器物損壊と窃盗未遂もおまけにつきそうだ)への対応としては、問答無用で警察に通報するのが正解なのかもしれないが、それは何だか可哀そうな気がして――そりゃあ、彼女が俺たちを油断させようと“怯えたふり”をしていないとも言い切れないが――せめて話を聞くぐらいの譲歩はしてもいいのかな、とそう思った。
 だが、何にせよ俺にはどうすることもできそうにないので、じいちゃんに「後はお任せします」と、視線を送った。
 それを受けて、じいちゃんが一歩前に出る。流石じいちゃん、意思疎通は完璧だ。
「とりあえず、顔をお上げ」
 その柔和な物言いに、女の子の身体がぴくんと反応する――相変わらず顔は伏せたままだったが、肩の震えはぴたりと止まった――じいちゃんはそれを見て、
「すぐさま警察に届けるようなことはせんから、そんなに怖がらんでもええ。ここで何をしよったか、まずは話を聞かせてくれんかのう」
「は、――はい!」
 女の子が瞬時に顔を上げた。
 その言葉を待っていました、と言わんばかりの満面の笑み――その様子に俺は、昨夜の幻覚と重なって。
 タヌキみたいな女の子だな、なんてことを思った。


     /7

「その前にひとつ訊いてもいいかな?」
 ふりふり遍路少女が何者で、何が目的で他人んちの蔵の中に居たのか、いざそれを聞き出そうとしたところに水をさしたのは、他ならぬ俺だった。
 最初は気にしないでおこうと思ったのだ。訊くにしても、女の子の話が終わってからでいいや、と。
 だけど気になって、どうしても気になって、思わず疑問が口から出た。
「それ……何なのさ?」
 女の子の足元に転がる橙色の丸いそれ。
 はじめはゴムボールだと思った。
 それは不思議なことに、風のない蔵の中でゆらゆらと不安定に揺れていた。
 その揺れが――左右に小さく揺らいでいた程度のわずかな揺れが――次第に早くなり、不自然に大きくなり、やがて上下へと運動の向きを変えた。
 もはや、揺れではなくなった。
 低い位置で小刻みにドリブルするバスケットボールのように、「タタタタタ」と聞こえてきそうな上下運動。
 転がっていた丸い何かが突然そんな風に動き始めて――無論、それだけなら玩具の電源が何かのはずみで入ったのだと、自分を納得させることもできたのだが――それは不意にぴたりと動きを止め、
 次の瞬間、にょきっと頭を生やした――俺が「それ……何なのさ?」と思わず口走ったのはそのときだ。
 女の子はきょとんとして俺を見る。
「? それって?」
「だから、君の足元の丸いヤツ。手とか耳とか尻尾とか生えてるソイツ」
 そう言いながら彼女の足元を指差す。女の子はそれを視線で追って、
「あ、起きたんやね。タヌキさ――」
 だが、その言葉を最後まで聞くことはなかった。
「おお! たいさん!!」
 突として大きな声を上げたじいちゃん。
 じいちゃんは言うが早いか、それに向かって手を伸ばした。
 呼応してオレンジ色が跳ねる――ポンポンとゴムボールのように物が散乱した床を弾んで、じいちゃんの腕にすっぽりと収まった。
「たいさんや、こんなところにおったんかね」
 じいちゃんはそれを抱きしめて「よしよし」と頭を撫でた。
 その光景に俺は、
「なんだ、たいさんだったんだ。――って、そんなわけあるかい!」
 図らずも。
 一人ツッコミをやってのけてしまった……。
 蔵の中を微妙な空気が流れる。
「な、何や、恵。急に大声なんか出したらたまげるやろう」
 先に大声を出したじいちゃんに突っ込まれた。
「ふふ。面白いヒトやね」
 面白い格好をした女の子に笑われた。
「いや、えっと……」
 穴があったら入りたいとはこのことか……。
 咳払いで誤魔化して(自分が受けたダメージは誤魔化せないが)、俺はじいちゃんに抱かれた丸いオレンジ色を指差して訊いた。
「たいさんってことは、それ、タヌキなん?」
「ほうよ。可愛いやろう」
「可愛いかは別として……、タヌキってそんなんだっけ?」
「タヌキ以外の何に見えるんよ。ああ、もしかして恵はタヌキを見たことがなかったのかのう」
 じいちゃんは真顔で答える。嘘をつくようなじいちゃんではないし、かと言って、冗談を言っている風でもない。
 横目で女の子を見ると不思議そうに首を傾げていた――「タヌキ一匹で、この人は何を大騒ぎしているのかしら?」とでも言いたげな表情で。
「…………」
 タヌキ……。そうか、タヌキなのか……。
 まあ、丸っこい耳と目の周りの黒い模様とふっさりと毛を蓄えた尻尾だけ見ればタヌキに見えなくもない――百歩譲ってタヌキだとしよう。
 問題は胴だ。
 オレンジ色の真ん丸ボディ。瑞々(みずみず)しく張りのあるそれは、動物と言うより“みかん”だった。皮、剥けそう。
 “みかんのお化け”だと言われたほうがしっくりとくるんだけどなあ……。
 だけど、じいちゃんがタヌキだと言うのだからタヌキなんだろう。
 そんなことを考えながらそれを見る。
 ヤツは俺をじっと見返して、そして、「ニヤリ」と笑った。

      ◇

 オレンジ色の不思議生命体が笑ったように見えたのは俺の気のせいだったのかもしれないし、真実、笑っていたのだとしても、そこにどんな意図があったかなんて知る由もないのでさておくとして――ようやく。
 予定よりも長い回り道の末、話は本筋へと戻った。
 まず、風変わりな遍路服に身を包んだ少女の名前は「あゆみ」と言うらしい。
「あゆみって呼んでくれて構わんけんね」
 と、彼女は言った。
 呼び捨てをするのは気恥ずかしいが、名字を教えてくれなかったのでそう呼ぶしかない(「あゆみさん」は何か違う気がするし「あゆみちゃん」もなあ……)――なんて、女子の名前を呼ぶのにいちいち弁明しないといけない自分が些か情けない気もするが。
 俺の心の内など知らないじいちゃんは、
「あゆみちゃんと言うんかね。わしは幸野恵八言うて、こっちは孫の恵。――で、あゆみちゃんは何をしにここへ来たのかのう?」
 と、ごく自然に名前を連呼する。
 いやまあ、普通はそうだよな。変に意識するからいけないわけで……。
 とりあえず、俺は一歩下がって二人の会話を聞くことにした。名前を呼ばずにやり過ごそうという気満々である。
「ええっと、先に確認なんやけど……『四国結界の伝説』は知っとる?」
「うむ? お大師さんが四国に張った結界の話かね? それはもちろん知っておるよ」
「じゃあ、八八さんの話は?」
「八十八のお寺に棲(す)む結界の守り人様のことやね」
「あなたは?」
 不意に訊(たず)ねられて、俺は慌てて肯いた。
 結界と八八さんの話ならよく知っている。幼い頃、じいちゃんにどれほど聞かされたことか。
「よかった、二人とも知ってるみたいやね」
 だったらそこらへんの説明は省くね。と彼女は言って、一呼吸置いた。
 いよいよ、ここからが本題らしい。
 やにわに空気が張り詰める。
「その結界が――」
 もったいぶるように一度ためてから――少女は言った。
「何か変なんよ」
「…………ふうん」
 何とも反応に困ることを言われた。しかも、何かって何さ。
「え、何? 何なん? その『それが?』みたいな顔」
「みたいも何も、実際『それが?』って感じなんやけど……。と言うか、結界云々って作り話やろ?」
「…………」
 幼い頃の俺ならまだしも、高校生にもなって昔話を信じるほど夢見がちな性格はしていない――そんな俺の言葉に絶句する遍路少女。
 彼女は冷めた目で一瞥くれると、くるりと背を向けた。
 そして一人でブツブツ呟いている。
「…………信じられん……。結界伝説を知っとって、しかもあの指輪を持っとるヒトがそんなこと言うとは……。あろうことか、作り話やなんて……」
「――ん?」
 今、指輪がどうとか言わなかったか?
 思わず右手の中指を見る――きっと、コレのことだよな……。思えば、昨夜、商店街のタヌキ像のところで自損事故をやらかしたあのときも、彼女は俺の指輪ばかり気にしていたような……?
「あのさ、この指輪がどう――」
「えらいこっちゃ! 結界が何か変って、何がどう変なんよ!?」
 またしても突として大きな声を上げたじいちゃんに、俺の声は掻き消された。
 二拍も三拍も遅れての反応だったが、女の子は嬉しそうにじいちゃんに笑顔を向ける。俺の問いかけは聞こえていないようだった(もしくは無視されたか)。
「結界に直接何かしらの異常が出たってわけじゃあないんやけど、半年ほど前からその徴(しるし)が顕(あらわ)れるようになって……」
「ふむ。その言い方やと、たちまち結界が崩壊するってわけではないんよのう?」
「おおい」
「うん、それは大丈夫。でも“今はまだ”ってだけ。もしかしたら時間の問題かもしれんけん。だからあたしは、手遅れになる前にどうにかせないかんって思って、“とある本”を探しにここへ来たんよ」
「なるほどなるほど。して、その本というのは?」
「おおーい」
「あたしが探してるのは『四国八十八結界』という本。その本を読めば、万が一、結界が壊れるようなことがあっても、その修復法がわかるはずなんよ」
「ほうか。なら、早くその本を見つけんとなあ」
「おおーい……」
 二人は話し込んで何度も呼びかける俺を見向きもしない。
 実を言えば、女の子が大真面目な顔で結界の話をはじめたとき、俺は「うわあ、この子痛い子やったんか」と内心うんざりしたのだが、うちの家系にはお大師さんを愛してやまない(むしろ病んでいる)じいちゃんがいたわけで、いざ蓋を開けてみると二対一で俺が孤立するかたちになった。切ない話だ。
 間に入り込める余地はなく暫く静観しようと決めた俺の対面で、どんどん盛り上がりをみせる二人の会話。
 いいよ。俺は一人で蔵の片付けでもしているさ……。

      ◇

 手を付ける前は絶望でしかなかった蔵の片付けだったが、太陽が真上を通り過ぎる頃には、あらかた終わりが見えてきた。
 結界話に花を咲かせていた二人も、俺が荷物を抱えて行ったり来たりしているうちに手を貸してくれて――散らかしたのは少女であって、手を貸してくれたと言うのは違う気もするが――この調子なら覚悟していたよりずっと早く、片付けを終えられそうだった。
 しかしまあ、よくもあそこまで箱の中身を引っくり返せたものだ――白い着物の袖からのぞく女の子の細腕を眺めながら、俺はそんなことを考える。
 なにせ少女一人が散らかしたとは到底思えないほどの、目も当てられない悲惨な光景が蔵の中には広がっていたのだ。
 ならば、協力した誰かがいたのだろうか。
「もしかして、お前が協力者ってことは……あるわけないか」
 蔵の角で退屈そうに溶けている(もちろん比喩だが、ヤツは原形をとどめないほど伸びきっていた)たいさんに声をかける。
「ほら、そこ邪魔。棚の前で寝そべるなって」
 荷物を持っていないほうの手で追いやると、たいさんは俺の腕の下を擦り抜けて蔵戸の外へと出ていった――去り際、近くの棚に身体をぶつけて積んでいた箱のひとつを落としていった。
 まったく、片付けたそばから散らかすなよ。すでに姿を消した相手に文句を言いながら落ちたそれを拾い上げる。
「ん? なんだ、これ」
 みかん箱より一回り小さいくらいの薄汚れた木箱。
 こんな箱、そこの棚を片付けているときにはなかったはずだけど……。
 蓋には奇妙な札が貼られていたが、そこに書かれた墨字はかすれて読めなかった。読めないのをいいことに、俺は札を剥ぎとって箱を開けた。
 このときは思いもしなかった。
 後に、この軽はずみな行為を後悔することになろうとは。
 なんて展開が、後々俺を待ち構えているかどうかは、後にならなければわからないことなので、さておくとして。
 その箱の中に入っていたものは、箱だった。
「…………」
 やはり札が貼られていて、やはり読めない。
 またしてもそれを剥いで、蓋を開ける俺。
 そして出てくる次なる箱。
 まるでロシア土産の何とか人形(マトリョーシカ人形?)みたいに、次から次へと箱の中から箱が出てきて、あっという間に硯箱ほどの大きさになった――小ささになった、と言うべきか。
 そろそろ終着でもよさそうなサイズだが、さらに箱が入っているかもしれないし、最後は「空」というオチが待っているかもしれない。期待はせず、二十一個目(よくそれだけの箱が入っていたなと思う)の蓋を開けた。
 また、箱。
 かと思えば、本だった。
 これまた古めかしい紺色の本が一冊入っていた。気のせいか、うっすらと光を放っているように見える。
 表紙には『四国八十八結界』の七文字――お? どっかで聞いたタイトルだ。
「恵、どうかしたかね?」
 にゅうっと背後から首を出すじいちゃん。
「うわ、びっくりした」
「何をしよるんよ。片付けをしよるかと思えば、また箱を引っくり返して。うん? その手に持っている本は何ぞね?」
「箱の中の箱を開けたら出てきた」
「箱の中の箱?」
 いろいろ端折って答えた俺に、じいちゃんは目をしばたたかせる。その後ろで、
「ああ!」
 と、女の子が歓喜の声を上げた。
「それ! その本なんよ、あたしが探してたの!!」
 やっぱり指輪を持ってるあなたの近くにあったんやね! と、意味のわからないことを言ってはしゃぎながら、その本を手に小躍りする不思議お遍路っ娘ちゃん。
 本を上へ下へと振り回す――その仕草は完全に幼女で、俺は思いがけず父性というものに目覚めそうになる。
 ああもう、そんなに激しく振り回して、落としても知らんけんな――って、ほら。言うてるそばから。
 と、妄想する俺の目前で、楽しそうにくるくる回っていた女の子は手を滑らせて本を床へと落とした。
 床に当たって本がめくれる。
「うわあ!」
 俺は思わず声を上げた。
 開かれたページからこぼれた眩しい光に驚いて。
 そこには四国の地図が描かれていて、所々に黒い点が打たれていた――その点をつなぐように光の線が走っている。
 黒い点は八十八の霊場を示しているのだとすぐにわかった。ならば、光の線は結界か。
 光は、薄暗い蔵の隅々まで照らすほど燦然(さんぜん)たる輝きを発していた。
 しかし、徐々にその光彩を失い、
 やがて――消えた。
 強い輝きに慣れかけていた視界に、ふっと闇が落ちる。
 その刹那。
 ぐらりと、地面が大きく揺れた。
「地震かの!?」
「ちょっ、棚の整理をしたばっかやのに! 少しは空気読めや!」
「恵よ、今はそんなことに腹を立てとる場合じゃあないぞ。『地震雷火事親父』言うて、世の中で怖いものを順に並べたとき真っ先にくるんが地震やけんの、つまりは、そういうことよ!」
「どういうことよ!?」
 逆境や不測の事態に弱いのは血筋だったらしい。軽くパニックを起こす男二人。
 一方で。
 不規則に波打つ床板の上で、遍路服の少女は、今までどこに置いていたのか赤杖を胸の前に握りしめ目を閉じて立っていた。
 いつ棚上から物が落ちるとも限らないこの状況で、だ。
「おい、あ――」
 俺が「あゆみ」と名前を呼んで、その身体を引き寄せようと腕を伸ばそうとしたとき、
 彼女は閉じていた目蓋をつと開けて、
 そして、それがまるで合図だったように、

 ――■■■■■■■■■■、■■、■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 あの声が。
 深夜の廊下で聞いたあの呻き声が。
 突として、薄闇を切り裂いた。
 昨夜と同じ暗い声――だが、昨夜のそれとは比べものにならないほどに、一層深くて、尚更昏い。
「――――!」
 目に見えない無数の刃が全身をくまなく切りつけるように――それは音でありながら、実態をもって襲いかかる。
 その唸(うな)りから伝わってくるのは「苦」。
 底なしに深く闇よりも闇(くら)いそれに、数えきれない「苦」があふれている。
 だけど、それは悲しみや怒りや憎しみといった念ではない。
 言葉で表せるような単純なものではないし、かと言って、複雑なものかと言われれば、そうでもない。
 そもそも、そんな人間らしい感情が――それには、ない。
 だとしたら。
 ただ、そこに在る「苦」を、
 ただ、そこに在ると知らしめるためだけの、それに。
 主体などあるはずはなく、ならば、対象だってあり得ない。
 だから、本来これは、聞こえるはずがないのだ。
 聞いてはいけないし、聞こえてはいけない。
 それなのに、なぜ。
 なぜ、俺には、
「――おい、恵!」
 遠くで、温かい声が聞こえた。
 じいちゃんの声だ。
 名前を呼ばれて、途切れかけた意識が呼び戻される。
 どうやら(やはりと言うべきか)、じいちゃんにこの声は聞こえていないらしい。
「どないした、恵! おい!」
 膝を折ってその場にうずくまる俺に、じいちゃんが手を伸ばす。
 俺の肩に、無骨で、だけど大きくて温かいその手が、あとわずかで届くという距離――その間を、白い影が割って入った。
 真っ白な遍路服を着た少女は、
「この声が聞こえるん?」
 と、俺に訊いた。
 彼女の柔らかそうな唇が、触れそうなほど近い。
 それ以上に、俺の顔を覗き込む瞳が――濃い焦げ茶色の瞳が、あまりにも深くきれいで、俺は思わず息を呑(の)んだ。
「ねえ?」
 聞こえるん? と、質問を重ねる唇。
 俺は慌てて首肯した。
 それを見て彼女は満足そうに――あるいは不敵に――微笑みを浮かべて、
「聞こえるなら、教えて。この声がどこから聞こえてくるのか」


     /8

 行きついた先は、裏のみかん山だった。
「こりゃあ、たまげた……」
 目の前の光景にじいちゃんは愕然と呟いた。
 そこは一面橙色に染まり辺りは甘酸っぱい香りで満たされていた――今朝までは確かに緑一色だったはずなのに。
 もともと、ここに植えられている温州みかんは秋から冬にかけて収穫時期を迎える――だから、夏空の下で橙色をたたえるこの景色は異常でしかなかった。
「こっちの方向でええの?」
「――ああ。このまま、真っ直ぐ」
 遍路服の少女に手を引かれ、木々を掻き分けて、やがて一本の老木に行き当たる。
 その根元にたいさんの姿があった。
「うん。――、みたいやね」
 少女がくすっと笑った。
 そのときの言葉はよく聞こえなかったが、後から思えば“当たり”とか“正解”だったような気がするし、ともすれば、“合格”だったのかもしれない。
 彼女は老木の前に立つと、気を落ち着かせるように静かに目を閉じた。
 そして、赤杖と襟元から取り出した一枚の札をかざして、

『南無大師遍照金剛』

 と、言葉を発する。
 すると、札が閃(ひらめ)き、老木の幹へと吸い込まれるように消滅し、
 瞬間、辺りは眩い白光に包まれた。

      ◇

 ほどなくして。
 その光が消えた頃には、山は日常を取り戻していた。
「……一体、何が起こったんやろうなあ」
 緑が茂るいつもの風景を眺めながら、一番に口を開いたのはじいちゃんだった――うろうろ、うろうろと、落ち着きなくそこら中を歩き回っている。
 俺はと言うと、何をするわけでもなく、その場にただ座り込むだけだった。
 たわわに実った橙色の果実は白い光とともにきれいさっぱり消え去り、それと同時に、あのおぞましい呻き声もぴたりとやんだ。
 終わってしまえば何とも呆気ない。
「大丈夫? 気持ちが悪いとか、ない?」
 女の子の手が、俺の肩をぽんと叩いた。
「さっきのあれは……」
 彼女の問いには答えず、自分の疑問を投げかけた。
「あれは――あの声は、結界の話と関係あるん?」
「うん。あの声だけじゃない、みかん畑の異変だってそう」
 遍路服の少女は、短いスカートの裾を丁寧に折りたたんで俺の隣に腰を下ろした。
「あれらは警告みたいなもの――結界に何かしらの異変が起こったとき、もしくは起こりそうなときに顕(あらわ)れる徴(しるし)なんよ」
「ふうん。もし、その徴ってやつに気づかんふりをして、放っておいたらどうなるん?」
「結界が崩壊する」
 いたって簡単な答だった。
「ただ、その後――結界がなくなったら何が起きるかまでは、正直、知らんのよ。だけどきっと怖いことが起こる。そして、そうなったら、きっと――」
 きっと、あたしは後悔する。
 その言葉に、俺はどきりとした。
 言葉そのものではなく、そう言ったときの少女の横顔に。
 彼女は変わらない口調で、「だから、あたしは」と言葉をつなぐ。
「そうなってしまわんように、手遅れになる前にどうにかしようと、いろいろ調べて――ようやく、見つけることができたんよ」
 結界の異常を解決するための方法、それを。
 幸野家の裏庭、幼い恵少年が秘密基地だと言って慣れ親しんだ蔵の中に。
 そこで見つけた一冊の本に――その手掛かりを見つけた。
 紺色の表紙に『四国八十八結界』と記されたその本は、今、遍路服の少女が大事そうに抱きしめている。
「あなたが見つけてくれたこの本に書いとったんよ。あたしが今からするべきことを。そして、そのために何が必要なんかを」
 少女はそう言って立ち上がった――そのはずみに、スカートの裾がふわりと踊る。
 一歩と半歩歩いたところで、くるりと俺の方を振り返った。
 そして、差し出された右手。
 俺と彼女の位置関係は――故意にそうしたのか、はたまた、偶然なのかはわからないが――まったくもって、出逢ったあのときの再現だった。
 あのときと同じように、遍路服の少女は俺に手を差し伸べていた。
 だけど、違うところもあった。
 真っ白な着物を際立たせて見せるのは、藍色の夜空ではなく、陽光に輝く鮮やかな緑葉だったし。
 彼女の瞳が見つめているのは俺の目で、指輪ではなかった。
 彼女は、真っ直ぐな視線を向けて、
「お願い、あたしに力を貸して。あなたの力が必要なんよ」
 と、俺に告げた。
 それに対して、俺は。
 やはりあのときと同じように。
 だけどあのときとは違って。
 多少の迷いを感じながらも、それでも、自分の意志で彼女の――あゆみの手を取ったのだった。

つづく


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