第一話<霊山寺(前編)> ‐改訂版‐

2014年4月 加筆修正(9,650文字)

文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign


     /7月22日(1日目)

 竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)霊山寺(りょうぜんじ)。
 徳島県鳴門市にある四国八十八箇所霊場、第一番札所である。
 縁起によると、天平年間(七二九~七四九年)、聖武天皇の勅願により行基(奈良時代の高僧。畿内を中心に身分層を問わず広く仏法の教えを説き人々に篤(あつ)く崇敬された人物で、日本各地に道場や寺院を多く建立した)が開創した。
 弘仁六年(八一五年)に弘法大師・空海がここを訪れ、三七日(さんしちにち)という二十一日間の修法(密教で行う加持祈祷の法)を行い、その際、天竺(インド)の霊鷲山(りょうじゅせん)で釈迦が仏法を説いている光景を感得したという。
 そこで天竺の霊山である霊鷲山を和の国(日本)に移すとの意味から「竺和山霊山寺」と名付けたそうだ。
 天正年間(一六七三~一六九三年)に長宗我部元親(ちょうそかべもとちか、長宗我部氏第二十一代当主であり土佐の国人から戦国大名へと成り上がった)の兵火に焼かれた。その後、阿波徳島藩の第三代藩主、蜂須賀光隆(はちすかみつたか)によって再興されたが、明治時代の出火で再び多くの建物を失った。
 本堂と多宝塔以外は近年の再建である。

      ◇

 四国遍路は“札所の番号通りに巡らなくてはならない”という決まりはない。
 それでも、第一番札所を起点として遍路を始める人が大半だろう。
 第一番札所・霊山寺で心を起こして「発心の道場」徳島を発ち――波音の切れ間に己心の声を聞きながら「修行の道場」高知を歩み――豊かに香る風土に心身を清めて「菩提の道場」愛媛を渉(わた)り――最後は「涅槃の道場」香川にある第八十八番札所・大窪寺(おおくぼじ)を目指す。
 八十八の寺をすべて巡って結願(けちがん)となる。
 かく言う俺――もうじき十七歳の誕生日を迎える高校二年生、幸野恵(こうのけい)の人生初の遍路も、やはり第一番札所・霊山寺が「発心の地」となるのだった。


     /1

『本日はJR四国をご利用いただきましてありがとうございます。特急いしづち八号、この列車は高松行きです』
 俺は車内放送の声を聞きながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 松山駅のホームが徐々に遠ざかりやがて視界から消えていく。
 完全に見えなくなったところで溜め息をついた。
 そして隣の席へと視線を移す――そこには遍路服の少女が座っていた。
 少女の名前は「あゆみ」という。
 それ以外のことはわからない。
 唯一知り得たその名前すら本名かどうか怪しいもので、ともすれば一切素性の知れない女の子だった。
 そんな彼女と行動を共にしているのはもちろん事情があってのことだが、とりあえず、ここに来て新たに一つわかったことがある。
 通路側の座席に座った彼女は、何がそんなに嬉しいのか、目を輝かせて車内をそわそわきょろきょろ見回していた――どうやら、(鉄オタとまでは言わなくとも)列車を見れば無条件にテンションが上がる人種だったらしい……!
 しかし三歳くらいの幼女ならまだしも、おそらく自分とさほど歳の離れていないだろう少女が落ち着きなくはしゃぐ姿はいただけない。
 と言うか、正直恥ずかしい。誰がって、隣に座っている俺が。
 そんなわけで、駅前のコンビニで買った弁当とペットボトルのお茶が入った袋をそっと彼女の前に差し出した。人間、物を食べているときは大概大人しくなるものだ。
 だが、
「お昼にはまだ早いよ? って言うか、さっき朝ご飯食べたばっかりやん」
 と、彼女はころころ笑うばかりで、弁当の袋を受け取ろうとしなかった。俺の目論見はあっさりと失敗したのだった。
 食べ物が駄目なら車窓からの景色で気を引こう。そう考えて、窓側の席と通路側の席を交代する。これで少しは静かになればいいのだが……。
「ねえ、徳島に着くん何時?」
「えっと、高松駅で乗り換えて……。今が七時半だから、昼前には着くんと違う?」
 不意に訊かれて、携帯で時刻表を確認しつつ俺は答えた。
「乗り換えの駅に着くんは?」
「十時前かな」
「そっか。それじゃあ、着いたら起こしてやね」
「寝るんかい!」
 それこそ、さっき起きたばっかりなのに!
 てか、席を譲った意味ないじゃん! 別にいいけど!
 あゆみは俺の突っ込みには反応せず、かわりに「おやすみなさい」と挨拶して背もたれに身体をあずける。
 それから数分も経たないうちに規則正しい寝息が聞こえてきた。
「…………」
 マイペースというか何というか。
 今日からこの子と四国一周を旅するんだよな、俺……。
 はあ。と、大きく息を吐いた。
 素性の知れない少女と二人きりの旅――創作ではありがちな、だけど現実にはそうそう起こり得ないシチュエーションに期待よりも不安のほうが大きい。
 むしろ不安しかないと言ってもいい。
 もっとも、旅の目的が目的だし、現実もへったくれもない気がしなくもないが。
 とりあえず、一言。
 どうしてこうなった?
 ここに至るまでの経緯を思い返して、俺はもう一度溜め息をつくのだった。

      ◇

 夢を見ていたのだろうか……。
 山一面を橙色に染めていたみかん畑は何事もなかったかのように日常を取り戻し、同時に胸を締めつけるあの呻(うめ)き声もぴたりとやんだ。
「さっきのあれは……結界の話と関係あるん?」
 俺の問いに、遍路服の少女は首肯する。
「あれは結界に異変が起こったときに顕(あらわ)れる徴(しるし)。このまま放っておいたら、きっと怖いことが起こる……」
 俺の隣に座っていた彼女は立ち上がると――まるで出逢ったときを再現するように――すっと右手を差し出した。
「お願い、あたしに力を貸して。あなたの力が必要なんよ」
 目の前に差し出された手。
 だけど、俺はあのときのように反射的には握り返せなかった――その手と、真っ直ぐに向けられた彼女の瞳を、ただ交互に見比べるだけだった。
「手遅れになる前に手を打たないかん……。やけんね、明日から八十八のお寺を巡って、そこに棲(す)む『八八さん』に逢いに行こうと思うんよ」
 結界の異変は、それを守る力が弱まったために起きたのだと――だから、結界の守り人である「八八さん」に逢いに行くのだと――彼女は言った。
 そして、
「もちろん一緒に来てくれるよね、恵」
 さらりと、さも当然のように言い放つ遍路少女。しかもナチュラルに呼び捨てだった。
「えーっと?」
 意味がわからずに、俺は「何で俺が?」と訊き返す。
 その問いに、女の子は差し出した右手を下ろして一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐさま不機嫌そうな目で俺を見据えた。
「もう、さっきまで何を聞きよったん!? 徴が顕れたってことは結界に何かしらの問題が起きたってことなんよ!?」
「うん、それは何となくわかった」
「結界に問題が起きたってことは、結界を守る『八八さん』の力が弱まったってことの証でもあるんよ。結界を守るには、まずはその守り人さまの力を取り戻さないかんの!」
「なるほど!」
「だから、結界を守る力を取り戻すために『八八さん』に逢いに行くんよ!」
「オッケー、そこまでは理解した!」
「『八八さん』に逢いに行くんやけん、恵が来てくれんかったら意味ないやん!」
「そこ! そこの意味がわからねえ!」
 何が“やけん”なのかわからねえ!
「…………」
「…………」
 彼女は口を閉ざして、ますます不機嫌そうに頬を膨らませる。
 俺は無言の重圧に耐えきれず、「助けて」とじいちゃんに視線を送った。
 それを感じ取ったのか、じいちゃんは周囲を見回しながらうろうろと歩き回っていた足を止めて振り返った。
「じいちゃん……!」
 視線がぶつかる。
 以心伝心の絆は蔵で証明したはずだ。さあ、助け舟を出してくれ!
 じいちゃんは俺の目を見て力強く頷(うなず)くと、
「恵や、とりあえず一緒に行っておやりよ」
 と、言った。
「ちゅうか、お前たちの会話はろくに聞いとらんかったけん何の話かさっぱりやがのう」
 舟どころか、浮き輪さえ持たせず孫を瀬戸内海沖に放り出すじいちゃんだった。てか、ろくに聞いてもいないのに「とりあえず」で放り出される身にもなってほしい……。
「恵、お前の力が必要やと言うてくれとるんよ。それにのう、結界は四国にとって大切なものやけん。その結界の危機に立ち上がるんは遍路の国に生まれた者の宿命やと、幼い頃から言い聞かせておったろう?」
「宿命云々は初耳だよ!」
 と言うか、俺らの会話しっかり聞いてんじゃーん!
「まあまあ、そんなにがなり立てられん。だいたいのう、女の子の一人旅は心細かろうに……。ええか、女の子を守るんが男の役目よ。わしゃあ、孫をそんな薄情な人間に育てた覚えはないんやけどのう……」
「む」
 その言葉に一瞬たじろぐ。
 流石によよと涙ぐむ演技はやりすぎだと思ったが――加えて、顔を覆う指の隙間から目を覗かせて、ちらっと俺を窺(うかが)う仕草が妙に腹立つ……。
「ああ、もう、わかったわかった。一緒に行くけん。行ったらええんやろ」
 半ば投げやりに言った俺に、
「よく言うた! それでこそわしの孫よ!」
「本当? 恵、ありがとう!」
 と、じいちゃんと少女は目を輝かせた。
 ……なんか似てるんだよなあ、この二人。
「実はのう、いつか恵にはお遍路を勧めたいと思うとったんよ。それで、いつも“これ”を持ち歩いておった。ときが来たらすぐに渡せるようにとな」
 じいちゃんは背を向けて何やらごそごそと服のどこかをまさぐり始める。そして白い布を引っ張り出して(え、どこから出した?)、俺の目の前でそれを広げた。
 それは、背に『南無大師遍照金剛』と入った遍路の衣装――白衣(びゃくえ)だった。
「ささ、これを着て八十八箇所を巡ったらええ。お前の力で結界の力を取り戻し、来たる災厄の不安から四国を救っておくれ。恵、お前にもついに、遍路の国に生まれた者の宿命を背負って旅立つときが来たんよ。ちゅうか、今旅立たんでいつ旅立つと言うんよ。四国を巡るならいつ? 今でしょ!」
「それ、最後のが言いたかっただけじゃね!?」
「ばれたか!」
「あのさ……、本気か冗談かわからんなるけん、そーゆーのやめてくれる……?」
「いやいや。本気も本気、大真面目な話よ。……でもまあ、そんな大義名分はさておくとして」
 さておいていいの!? と、まがりなりにも大義名分をさておこうと言ったじいちゃんに俺はまたしても突っ込みそうになったが、その顔を見て何も言えなくなった。
 じいちゃんの顔は、思いのほか真剣だった。
 そして、その口から出た言葉もまた、少し意外なものだった。
「八十八箇所のお寺を訪ねて『八八さん』を探す旅は、もしかしたら、恵、お前の悩みに“答え”を出してくれるかもしれんよ」
 お前が幼い頃からずっと抱いとる悩みにのう。と、ぽつりと呟いたじいちゃんに、俺は言葉が出なかった――俺の側に立っていた少女もまた黙って状況を見守るばかりで、橙色の丸いアレはじいちゃんの足元に転がって眠っているようだった。
「……別に」
 短い沈黙の後、俺は口を開いた。
「俺は何も悩んでなんかないよ。じいちゃんの思い過ごしやって。でもまあ、夏休み中はどうせ暇やし、心配せんでも“『八八さん』探し”には付き合うけん」
 あくまで付き添いとして。
 結界のためでもなければ自分のためでもないと暗に言った俺に、じいちゃんは、
「それでええ。とりあえず、行っておいで」
 とだけ言った。
「さて、恵よ。いつまでもそんなところに座っておらんと。あゆみちゃんも部屋に戻ってお茶でも淹れようかのう」
「あ、はい。いただきます!」
「そういや、蔵の片付けも途中だったな……」
「片付けは構わんよ。それより恵は明日の準備をして、二人とも今夜は早めにお休み」
「明日……」
 “明日から八十八のお寺を巡って、そこに棲む『八八さん』に逢いに――”
 女の子の言葉を思い出した。
 そうか、明日からって言ってたっけ。……って、そんなことより、いつの間にか彼女がうちに泊まる流れになっていたりする……?
 ともかく。
 このときすでに「一緒に行く」と言ってしまったことを後悔し始めていた俺だったが、
「よろしくね、恵!」
 そう言って、立ち上がろうとした俺に手を差し伸べた彼女を見て――彼女の屈託のない笑顔を見て――結局、その言葉を撤回することができなかった。
 だから。
「ああ――よろしくな、あゆみ」
 一抹の不安を感じながらも、俺は彼女の――あゆみの手を取ったのだった。

      ◇

 で。
 一抹程度に思っていた不安が、実は途轍(とてつ)もなく大きな不安だったことに気がついて、さて、どうしようと思っているのが現在。
 いや。不安と言うより、不満か。
 どうして俺が? という疑問と、そして何より面倒くさいという感情が膨らんで頭から離れない。
 あのときあゆみの手を取ったのは間違いだったと思う。
 反面、自らの発言を反故にしたくないという小さなプライドが邪魔をしたのも事実だし――俺が「一緒に行く」と言ったとき、二人は本当に嬉しそうな顔で笑って、そんな彼らの期待を裏切るのが怖かったというのもまた本音だった。
 結局のところ、いい格好がしたかっただけなのだ。
 なんて、自己嫌悪で軽くへこんでいる間にも列車は走り、乗り換えの駅を過ぎて目的地へと到着した。
『板東(ばんどう)、板東。お降りの際はお忘れ物のないよう――』
「あ。ここだよね、降りる駅」
 駅名を告げる車掌の声に、あゆみが顔を上げた。
 松山を出発して約四時間半で徳島の板東駅に到着(その間、彼女はずっと寝ていた)、そこから二十分ほど歩いたところに第一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)はあった。


     /2

「恵、早く早く!」
 阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士(こんごうりきし)が左右に鎮座する仁王門(におうもん)の前であゆみが俺に手を振っていた。
 その様子を他の参拝者はちらちらと横目で見ては、何か言いたそうに、だけど結局何も言わずに通り過ぎていく。
 ある程度予想はしていたが、やはり、あゆみの姿は人目を引いた。
 霊山寺の門にはお遍路さんの格好をしたマネキン人形が立っていてかなり異彩を放っていたのだが、それに勝るとも劣らない目立ち様だった。
 最近は若い女性のお遍路さんも増えたとじいちゃんは言っていた。それでも十代の女子となると珍しいのだろう。
 もっとも、一番の要因は言うまでもなくその服装にあるわけだが。
「どうかしたん?」
 当の本人は周囲の視線などまったく気にする風でもなく、レースのついたリボンや短いスカートの裾をひらひらと風に遊ばせていた。
「いや……、本当にその格好で八十八箇所を巡るんかなって思って」
「? そのつもりやけど?」
 何か変かな? と、首を傾げる。
「そんなことより早くお参りして、早く八八さんを探そう!」
 あゆみはそう言うと、門の前で一礼してさっさと中へ入ってしまった――俺もそれに倣(なら)って頭を下げてから、彼女の後を追いかけた。
 入ってすぐ左手に手水場(ちょうずば)があり、あゆみはその前で待っていた。
「恵って参拝の手順とか作法とか、ちゃんと理解しとる?」
「あー……、じいちゃんに何度か教わった覚えはあるけど。多分、忘れてることのほうが多いと思う」
「そっか。なら、今から教えるけん覚えてやね」
 彼女は言って、柄杓を手に取った。
「山門で一礼してお寺に入って、まず最初にすることは『お手水』。手と口をお水で清めるんよ」
 その手順は次の通り。

   一、右手で柄杓を持ち、左手を清める。
   二、柄杓を持ち替えて、右手を清める。
   三、再度、柄杓を持ち替えて、左手に水を溜める。
   四、左手に溜めた水で口をすすぎ、すすいだ後の水は水の落とし場に流す。
   五、柄杓を両手で持って立てながら、残り水で柄を洗い清める。

「口をすすぐとき柄杓に直接口をつけたらいかんよ。口をすすいだ水と柄杓に残った水は水の落とし場に流して、水溜めに戻さんようにね。終わったら柄杓の柄を洗って元の場所に返すんよ」
 あゆみは説明しながら実際にして見せてくれたが、使い終わった柄杓は戻さずに、俺に「はい」と手渡した。
 それを受け取って教わった手順で手と口をすすぐ。そして柄杓を片付けて振り返ると、さっきまでそこにいたはずのあゆみの姿が消えていた。
 おいおい……、早速はぐれるってどういうことだよ。
 と若干焦ったが、探すまでもなく見つかった――彼女は門の側にある観音像に手を合わせていた。
 一時して顔を上げたあゆみが俺に気づいて手招きする。
「恵も拝んでいかん? この観音さま、縁結び観音さまって言うんやって」
「縁結び?」
「うん。いろんな縁を結んでくれるんよ」
 男女の縁はもちろん、健康や仕事などいろいろな縁にご利益があるらしい。ちなみに、あゆみは「八十八人の八八さん全員と縁を結べますように」とお願いしたそうだ。
「それじゃあ、お参りの続きやね」
 観音像から離れて、次に向かった場所は「本堂」だった。
 遍路で寺を訪れた際、必ず参拝する堂が二つある――「本堂」と「大師堂」がそれだ。
 本堂はその寺の本尊が、一方の大師堂はお大師さんが祀られている。
 本尊というのは、その寺の最も重要な尊像のことで、その御姿は常に拝むことのできるところもあれば、「秘仏」として特定の日にしか拝めないところもある。完全に非公開のところだってある。
 秘仏とは厨子(ずし、仏像や経典を安置する仏具の一つ)の扉を閉じたまま祀られている仏像のことで、真言宗系や天台宗系の寺に比較的多い。そのため、密教との関連も指摘されるが実際どうなのかは知らない。
 ただ、お大師さんこと弘法大師・空海は真言宗の開祖であり、四国八十八箇所はそのお大師さんにゆかりのある八十八の寺の総称なので、当然ながら真言宗系の寺が多くを占めている。
 と言うことは、その中には秘仏を有する寺がこれまた当然ながらあるわけで、つまり何が言いたいかと言うと、密教とか秘仏って響きいいよね! 中二心がくすぐられるよね! ということだ。
 ……さて。
 話を戻そう。
 本堂では、灯明(とうみょう、神仏に供える灯火のこと)と線香をあげ、賽銭を投じ、納札(おさめふだ)を納札箱に納める。
「灯明のロウソクは一本、灯明台の奥から立てるんよ。お線香は三宝の意味で三本、お線香立ての真ん中から立てていくんよ」
「三宝って?」
「仏・法・僧の三つ。仏はお釈迦さまとか如来さまとか菩薩さまとかのこと。法は仏さまの説いた教えのこと。僧は法を学ぶお弟子さんたちのこと。仏教における宝物やね。この三宝に帰依(きえ)することが仏道に生きるってことなんよ。帰依って言うのは、拠り所にするって意味ね」
「ふうん。よく知ってるな」
「うん。小さい頃からこういうことばっか教えられてきたけん」
 あゆみは照れたように笑った。
「小さい頃からってことは、家が寺とか?」
「ううん。そういうわけじゃあないんやけどね」
 それじゃあどういうわけなんだろう、と疑問に思わなかったわけではないが、あれこれ詮索するのは性に合わず(と言うか、さほど興味があるわけでもなく)、俺は適当に聞き流した。
「ロウソクとか線香を立てる位置にも意味ってあるん? 奥からとか、真ん中からとか」
「意味はちゃんとあるんよ。でも、それは決まりって言うより作法なんよ。後から来た人が立てやすいように配慮しましょうってことやけん」
「なるほど」
 ロウソクと線香の次は賽銭。
 賽銭は供物料として納めるもので、その金額に決まりはない。
 俺は十五円を賽銭箱へ入れた(このとき、「投げられんよ」と注意された)。
 ところで、なぜ十五円なのかと言うと、これはもう習慣みたいなもので幼い頃からじいちゃんに「賽銭は十五円やけんのう!」と刷り込まれた結果だった。
 じいちゃん曰く、「十分ご縁がありますように」との意味らしい。
 ちなみに五円なら「ご縁がありますように」で、五十五円なら「ご十分ご縁がございますように」と丁寧語(?)に進化するとか。
 賽銭の次は納札(おさめふだ)だ。
 納札は参拝に訪れた証に納める札で、住所、名前、参拝日、そして願い事を書いて専用の箱に納める。
 札を納める場所という意味で、参拝する寺は「札所」と呼ばれるようになったそうだ。また昔の札は木製で、釘で堂に打ちつけていたらしく、札所を巡ることを「打つ」と言うのはそれに由来するらしい。
「そしたら、次はお経をあげるんよ」
 あゆみはそう言うと、何も見ずにお経を唱え始めたので俺は慌ててストップをかけた。
「あれ? お経、覚えてないん?」
「いや、そんな不思議そうな顔で訊(たず)ねられても。すらすら読める高校生は稀だと思うぞ」
「え。そうなん?」
「そうなの」
 あゆみは「そうなんや……」と呟いて、少し考えたあと、「あ、そっか」と何かを納得したように一人で頷いた。
「あたしは字が読めるようになる前に読み方を教わったけん、おかげであんまり経本を目にすることがなかったんやけど……」
「すごいな」
 英才教育じゃん。
 あゆみは「でもね」と言って、
「お経ってね、経本なしに唱えるのが作法って言われるものと、仮に暗記しとっても経本を開いて読むのが作法って言われるものの二種類あるんよ。この場合ってどっちのほうがいいんかな?」
 と訊いてきた。
 そんなことを訊かれても知っているわけがないので、
「お前が知らんことを、俺が知っていると思うか?」
 と逆に訊いてみた。
 あゆみは素直に「それもそうやね」と頷いた。「ごめんね」とも言われてそれはそれで些かもの悲しい返答だった。
 じいちゃんなら知っているかな? 今度訊いてみよう。
 ところで、経を納める方法は二通りある。
 一つは「読経」で、もう一つは「写経」だ。
 読経の場合、一般的に遍路用の経本に従って読むわけだが、そこにもやはり手順と作法がある。
 手順通りに読めば、正直、それなりに時間がかかる。なにせ次の偈文(げもん)や真言(しんごん)をすべて読むのだ。

   一、開経偈(かいきょうげ、読経にはいる前に読む偈文)
   二、懺悔文(ざんげもん、大乗仏教の経典の一つ「華厳経」から採った偈文)
   三、三帰(さんき、三宝に帰依(拠り所にするという意)することを誓う)
   四、三竟(さんきょう、三宝に帰依して終わるという意、三帰の念押し)
   五、十善戒(じゅうぜんかい、守るべき戒律)
   六、発菩提心真言(ほつぼだいしんごん、菩提を求める心を起こすことを表意)
   七、三摩耶戒真言(さんまやかいしんごん、悟りの境地に住することを表意)
   八、般若心経(はんにゃしんぎょう、空・般若思想を説いた経典の一つ)
   九、本尊真言(ほんぞんしんごん、本尊ごとに決められた真言)
   十、光明真言(こうみょうしんごん、光明となる真言)
   十一、大師宝号(だいしほうごう、お大師さんにすがる意)
   十二、廻向(えこう、勤行の終わりに読む偈文)

 偈文とは仏の教えを述べたもの。真言とは真実の言葉、転じて仏の言葉という意味だ。
 それぞれの偈文や真言は一回または三回読む(場合によっては七回、二十一回繰り返すこともある)。
「最初は形式的に読むだけで一生懸命やと思うけど、ちゃんと意味がわかってきたら自然と一言一言大切に読めるようになるけん」
 と、あゆみ。
 読経のときに気をつけることは、先に経をあげている人の声に自分の声を被せないように、せめて「般若心経」を読み始めるまでは待つということ。
 さらに経をあげる場所も、後から来る参拝者の邪魔にならないように納札箱や賽銭箱の前は空けておくのがマナーだ。
 もう一つの納経方法――写経の場合は、「般若心経」を書き写し、その紙を本堂または大師堂にある写経箱に納めるのだが、詳しい手順についてはまたの機会に。
「本堂の次は大師堂に行って同じようにロウソク、お線香、お賽銭を納めて、納札を箱に入れて、お経をあげるんよ。ただ、大師堂はお大師さんが祀られとるお堂やけん、『本尊真言』は読まんでいいけんね」
「了解」
 本堂の後、大師堂に行き経をあげて一通りの参拝が終わった。
「最後に納経所に行って、納経帳にご朱印をいただくんよ」
 参拝の証に参拝者が残していくものが納札であれば、納経帳の朱印は寺からもらう証明書みたいなものだ。
「その前に、一つ訊いていい?」
 俺は納経所に向かうあゆみを引き止めた。

つづく


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