第四話<大日寺>

文章・絵:SHIZUMU(OpenDesign) 制作:OpenDesign


たいさんのお腹

「どぉりゃあああぁぁあぁ」
 突然の雄叫(おたけ)びに空を見上げた。
ひゅるると風切り音を響かせて、橙色の丸い物体が迫ってくる。それには縞模様の見覚えのある尻尾が――
「ぶほっ」
 俺は情けない声を上げて、顔面でそれを受け止めた。
 みかんの親玉のような風貌をしたそいつは、人の顔を緩衝材がわりに踏みつけると空中三回転をきめて着地した。後にあゆみは語る。オリンピックに出ればメダルが狙えるほど華麗な身のこなしだったと。
「いたた……。たいさん、いきなり何するん?」
「それは儂(わし)の台詞だ、このたわけが。おぬしこそ儂を袋詰めにしよって。危うく蒸し焼きになるところだったわい」
 別に返事を期待して話しかけたわけではなかったのだが、たいさんは流暢な日本語でまくしたてた。
「うわ、たいさんがしゃべって――ぐはぁ」
 吃驚(びっくり)する俺の無防備なお腹に、たいさんの体が深く沈む。ゴムボールのように弾むその体当たり攻撃は想像以上の破壊力だった。
「げほ、ごほっ」
 咳き込んでうずくまる俺に、身を低く構えるたいさん。二撃目を繰り出して、止めを刺そうという気満々の体勢である。ちょっ、待て待て。タヌキってこんなに凶暴な動物だったか?
「わぁ、たいさん。すっかり元気になったんやね」
 そこに現れる救世主。あゆみはたいさんを抱き上げると、くるくる踊り始めた。
「でも駄目だよ。仲良くせないかんやろ」
「な、なにを。離さんか」
 あゆみの様子からは、たいさんが言葉を話すことへの驚きは感じられない。俺には見える八八さんの姿があゆみには見えないように、たいさんの声も聞こえていないのかもしれない。
「たいさん、しゃべりよる……?」
 俺は呼吸を整えると、確かめるように呟いた。
「え?」
 あゆみはきょとんとした表情で動きを止める。
 しまった、やはり聞こえていなかったのか。余計なことを口走ったのかと後悔し始めたとき、あゆみはさも当然のことのように笑って言った。
「たいさんは言葉を話せるタヌキさんやもん、しゃべって当然だよ。ねー、たいさん」
 あゆみはたいさんを掴んだ手を高く伸ばした。ちょうど赤ん坊を「高い高い」とあやすような格好だ。
「無礼者が、いい加減に降ろさんか。儂を一体誰だと思っている。儂は――」
 たいさんが声を上げる。
 しかし、その抗議の声は最後まで言い終わることなく途切れた。
 どこから飛んできたのか、突如現れた大きな鳥――一瞬のことだったのでよく見えなかったが、珍しい色をした鳥だった――に驚いたあゆみが、たいさんを掴む手を離してしまったからだ。
「あわわ、ごめんなさい!」
 地面には目を回すたいさんの姿。


岡の宮の大楠

「まったく、無礼にもほどがある。おぬしらは人をなんだと思っているんだ」
 いや、人違うし。タヌキやし。
 突っ込みたかったが、とても言える雰囲気ではなかったので、俺は黙ってたいさんの説教を聞いた。
 そして小一時間が経過。
 第四番札所「大日寺」に到着するまでの間、俺たちは延々たいさんの小言を聞いていたわけだが、その話し方が思いのほか上手かったせいか、そんなに嫌な気分ではなかった。つい聞き入ってしまうような説諭だった。タヌキのくせに。

 道中の記憶のほとんどは、たいさんの説教がしめていたが一つだけ印象に残っていることがあった。
 岡の宮の大楠。
 樹齢約七百年と推定される徳島県指定天然記念物で、悠々とそびえる様はとても立派だった。
 その前を通り過ぎようとしたとき、ふと何かの視線を感じた。
 大楠を仰ぎ見る。
 せり合うように並立する幹の間に一羽の鳥を見つけた。極楽寺であゆみに飛びかかってきたやつだ。なぜだか分からないが、間違いなくあの鳥だと確信した。
 それはしばらくの間、俺たちの様子をうかがうように目を光らせていたが、やがて大きな声で一鳴きすると翼を広げて飛び立った。
 ふわりと足元に何かが落ちた。それは、大きくて美しい緑色の羽根だった。


大日寺/小楼門+大日如来像・三十三観音像・賓頭廬尊者像

 黒巌山(こくがんざん)遍照院(へんじょういん)大日寺(だいにちじ)。
 寺伝によると、弘法大師・空海がこの地で修行中に大日如来を感得し、一刀三礼して一寸八分(約五.五センチ)の大日如来像を刻み、これを本尊として創建したと伝えられる。
 山号「黒厳山」は、この地が三方を山に囲まれ「黒谷」と呼ばれていたことに由来し、地元では「黒谷寺」とも呼ばれていた。
 寺号「大日寺」は言うまでもなく本尊に因(ちな)んだものであるが、大日如来を本尊とするお寺は少なく、四国八十八箇所でも六ヵ所しかない。
「なんで少ないんやろうね。何か理由でもあるんかな」
「さあ。お大師さんに聞いたら分かるんじゃない?」
「そっかー。うん、そうやね」
 俺は冗談交じりに答えたのだが、あゆみはそれに納得して頷いた。本気でお大師さんを探し出して質問する気なのだろうか。
 大日如来は真言宗において中心となる仏である。
 「宇宙そのもの」「すべては大日如来から出現する」とされるほどの尊格をもち、「あまねく世界を照らし、万物へ慈悲をもたらす仏」とされている。
 しかし、大日如来をすべての仏の頂点に君臨する仏であるとはせず、諸仏諸菩薩は大日如来の化身だとしている。――俺は、いつかの授業で聞いた話を思い出していた。
 四国八十八箇所において、大日如来を本尊とするお寺が少ないことに、この思想も関係しているのではないだろうか。そんな推測をするのは案外面白い。だけど、授業の内容はうろ覚えで、これ以上の推理には発展しなかったことが残念だった。
 いつも退屈だと思っていた授業、今後の人生で役に立つかどうか疑問だったその内容も、いつどのようなカタチで繋がるか分からない。それは自分でも意外な発見だった。今度から(極力)居眠りしないようにしよう、うん。
「おぬし、何か悟ったようだな」
 突然、背後から声をかけられて心臓が飛び出そうになる。
 振り返るとたいさんが不敵な笑みを浮かべていた。その見透かしたような顔に、なんとなく腹が立つ。タヌキのくせに。

 人里離れた渓流にのぞみ、森の木々に囲まれた幽玄な雰囲気の漂う境内の入り口には、上部が鐘楼になっている朱塗りの山門がそびえている。この鐘楼門は一階部分が角柱、二階部分が丸柱という珍しい造りで、徳島県下最古の那東の板碑があり、その裏側には五梵字が浅く刻まれている。
 山門をくぐって中に入ると、石鉢が並べられていて、そこに咲く一輪の蓮の花が物静かな境内に色を添えていた。
 まっすぐ進んだ先に本堂がある。本堂と大師堂はL字の回廊によってつながれており、そこには西国三十三観音像が安置されている。これは江戸時代の明和年間(1764~1771年)に大阪の信者が奉納したものだそうだ。
 そして大師堂には、赤い体が目を引く賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)。
 境内説明文には次のように書かれていた。
『十六羅漢の第一尊者で、江戸時代から除病の撫で仏として有名。右手と左手で三回づつやさしく頭をなでると無病が約束されるという。赤身(あかいからだ)は、酒を飲みすぎて一時お釈迦さんから破門されたが、後に修行を重ねて一番弟子になった。しかしこれは俗説。赤身の本当の意味は、生命が充満して生気の血がみなぎっているさまをいい、それは修行が再興に高まった状態をいう。その時の強い力をいただいて、病気にかからないという』
 あゆみに勧められて俺も撫で仏へと手を伸ばす。
 なんとも滑らかで撫でやすい頭だった。つるりつるり。


大日寺/境内(本堂前)

「八八さん、居らんね」
 境内を一通り見てまわった後、俺は口を開いた。
「見つからんの? あ。そういえば、恵ってどうやって八八さんを見つけよるん? 八八さんの気配とかって感じられるん?」
「いや、全然」
 まったくそんなものは感じない。あっさり否定する俺に、あゆみは怪訝そうな表情で首をかしげた。
「そんな人並み外れた能力、俺にあるわけないやろ。変わった服装とか髪の色をしていたら八八さんかなって思うだけで」
 俺は単に人が隠れられそうな場所を、そのお寺を象徴する建物や像のまわりを中心に捜しているだけなのだ。何かを感じ取って居場所をつきとめるというわけではない。
「じゃあ、八八さんが現代(いま)っぽい格好をしとったら見つけるの大変やね」
 その通りやね、と俺は苦笑で返した。
 逆を言えば、普通のヒトが見慣れない格好で立っていると、八八さんだと思ってしまうかもしれない。
 注意深く見れば、薄ら光を纏(まと)っていたり、地面から少し浮いたりしているので、ヒトではないモノだと判るが、ぱっと見た限り判別するのは難しい。
 俺は、ヒトもヒトではないモノも同様に見えてしまう。
 幼い頃はそれらに区別があることも知らずに、また好奇心も少なからずあったので、誰彼構わず話しかけていた。そんな俺に周囲の大人たちは距離を置くようになり、そこで漸く、普通ではないということに気付かされたのだ――
「恵? どうしたん、ぼーっとして」
「え? ああ、ごめん。えっと、何の話しよったっけ」
 あゆみが心配そうに覗き込む。不意に視界に入った顔の近さにドギマギしながら、俺は慌てて視線をそらせた。
 そらせた視線の先にはたいさんが、ニヤニヤと含んだ笑みを浮かべてこちらを見ていた。いちいちムカつくヤツだ。タヌキのくせにっ!


大日寺/境内

 境内をさらに二周ほど捜し歩いたが、八八さんらしい姿は見つけられなかった。
「さて、こんだけ捜して見つからないわけだが」
 お寺には一般参拝者の立入りを禁じている場所も多くある。もしそこに居るとなると見つけるのは容易ではない。
 三人目まではすぐに会えたのに。俺は心の中で悪態をついた。
「バッカじゃないの。すぐに見つからないのは当然じゃない」
 俺の心の声に呼応するように、少女の声が聞こえてきた。反射的に声のする方向を見ると、あゆみと目が合った。
「え、あたしが言ったんじゃないけんね」
 あゆみは慌てて首を振る。だが、その声は明らかにあゆみの方から聞こえてくる。
「ちょっと、何ぼさっと突っ立ってるのよ。私が折角話しかけてあげてるのに、早くここから出しなさい」
 この口調にこの暴言。思い当たるのは一人しかいない。
「もしかして、淡桜(あわざくら)さん?」
 あゆみは胸元から古文書を取り出した。
 古文書の表紙がめくれるとともに、金色の帯を翻して淡桜が姿を現した。
「わーい、淡桜さんだ。でも、どうしてここに?」
 淡桜の手をとって再会を喜ぶあゆみ。再会と言っても別れてから半日も経っていないが。
「ほら、その本に『縁』を写したじゃない。それを通じて意思の疎通――分身を送って対話ができるようになったのよ」
「じゃあ『縁』を結んだ八八さんとは、いつでも会話ができるんやね!」
「そういうこと。ところで、これは何かしら?」
 淡桜は、みかん型不思議生命体をつまみ上げて言った。
「たいさん言うんよ。一緒に旅しよる仲間やけん」
 かわいいやろ、とあゆみは付言する。
「えー、全然可愛くないし。というか、何? これ、タヌキなの?」
 たいさんを指でつつく淡桜。
「これ、淡桜よ。やめんか」
「あはは、こいつしゃべってるしー」
 淡桜は「超きもーい」とけらけら笑う。そしてたいさんの丸い体を押したり伸ばしたりして遊び始めた。どうやらとても気に入ったらしい。

「八八さんが見つからなくて当然って、どういう意味なんだ?」
 淡桜がたいさんで遊ぶのに飽きるのを待って、俺は淡桜を問いただした。
「ああ、そんなこと」
 聞いてどうするのと言いたげな表情で、淡桜はつまらなそうに説明を始めた。
「私たちは本来、ヒトと触れ合ってはならない存在なの。ヒトに私たちの姿は見えないし、――まあ、あんたみたいな変なのが、極稀に現れることはあるけどね」
 淡桜は弄られてぐったりしているたいさんを地面に転がすと、俺のほうを一瞥した。その視線には「ただのヒトの分際で、私たちの姿が見えるなんて信じられない」という苛立ちが滲んでいる。そんな目で睨まれても困るのだが。
 俺の心境はお構いなしで、淡桜は続ける。
「同時に、私たちはヒトに近付くことを禁じられている。どうしてだが分かる?」
 俺とあゆみは首を横に振った。
「いいこと? 私たちは結界を守護するという大事な役目を担っているの。この私たちがヒトと触れることで穢されて、力を失えば大変でしょ?」
 淡桜は、それぐらい想像力を働かせなさいよと言わんばかりの視線を送る。
「穢される……」
「そうよ。何? 言いたいことがあれば、はっきり言えば?」
 思わず反芻してしまった俺の呟きを、淡桜は聞き逃さなかった。
「くすくす」
 ふわりと艶やかな着物が宙になびく。
「『朱に交われば赤くなる』――だけど、姉さまみたいに真っ黒な人が、一体何とどう交われば赤く染まるというのかしら。そう仰りたいのですよね、恵さん。くすくすくす」
 黒は赤には染まらないと、柔らかな物言いでさらりと腹黒いことを言う二葉登場。名指しで話を振るのはやめてください。
「ちょっとぉ、二葉。なんであんたが出てくんのよ」
「なぜって姉さまのまかり出る様がつい目に余って」
「なんですって!」
「だめー! 喧嘩したらいかんよ!」
 険悪な雰囲気になりそうな淡桜と二葉の間に、あゆみが慌てて割って入る。
「ねえねえ、八八さんはヒトと触れ合ったらいかんの? 二人はすぐに出てきてくれたけどよかったん?」
 話題をそらすように、あゆみは二人に聞いた。その疑問はごもっともだ。淡桜は人混みを普通に歩いていたし、二葉に関しては彼女のほうから接触してきたようなものだ。
「「私は特別だからいいの」」
 二人の声が重なる。丁寧語かどうかの違いはあったものの見事な音律調和だった。


大日寺/境内(あゆみ・淡桜・二葉)

「まったく、二葉のせいで貴重な時間を無駄にしてしまったわ。ほら、あんたたちも四女を捜すんでしょ? 私も手伝ってあげるから感謝しなさい」
 ひと騒動のあと淡桜が言った。元凶は誰だとか、突っ込みたいことは山ほどあったが、そんなことを言っていたらいつまでたっても動けないので、ここは誰もが黙って頷いた。
 そんなこんなで、八八さん長女・淡桜率いる四女捜索隊が結成された。

「こんなに捜しているのに、なんで見つからないのよ!」
 境内を一体何周しただろう。ついに隊長がキレた。
 捜索隊の健闘むなしく四女の発見にはいたらなかったのだ。姉の面目丸つぶれである。
「四女は我ら姉妹の中でも特に規律を重んじる。そう容易くヒトの目に触れる場所には出て来ぬであろう」
 いつの間にか隊員に加えられていた龍泉が、ため息交じりに言う。
「それに、あれは『かくれんぼ』が得意であった」
「そんなの関係ないわ。姉が捜してるんだから顔ぐらい出すのが常識ってもんでしょ。もう、頭にきた!」
 そう言うやいなや、淡桜は境内の真ん中に仁王立ちになる。そして大きく息を吸って、一気に吐き出した。
「コクリン! 出てきなさい! こんな狭いお寺にいつまで隠れているのよー!」
「狭いとか言うな! それに私の名前は『くろかね』だって言ってるでしょ!」
 境内に響き渡る淡桜の叫び声に、応えるようにこだまする少女の声。
「コクリン、見ーつけた!」
「はっ、しまった!」
 鐘楼門の二階部分を淡桜が指差す。その円い柱の影から、墨染めの着物姿の少女が顔を出した。


大日寺/境内(黒鐘)

「私の名前は黒鐘(くろかね)です。コクリンではありません」
 少女は小楼門の二階から身軽に飛び降りるとそう名乗った。その隣で「コクリン」のほうが可愛いのにと茶化す姉連中。
 そんな姉たちを横目に、黒鐘は強い口調で言った。
「なぜ姉さんたちがここにいるの? それもヒトなんか引き連れて」
「仕方がないでしょ、結界の異常事態なんだから。あんただって結界の力が弱まっていることぐらい気付いてるでしょうが」
「恵さんたちは力の供給が止まって結界を維持できない私(わたくし)たちに力を貸してくれているのです。そう邪険にしてはいけませんよ」
「ふん、結界の異常……ね」
 黒鐘は鼻で笑う。表情はあまり変わらないが、声色から感情がうかがえる。
「それは後からの口実でしょ。どうせ淡桜姉さんは空腹に負けてフラフラしているところを見つけられて、二葉姉さんは好奇心の赴くままヒトの前に出ていって、龍泉姉さんは……うわ、なんか情けない姿が思い浮かんじゃった。――とまあ、大方そんな感じでしょ」
 言外には「こんな人たちが姉を名乗るなんて片腹痛いわ」という蔑みが含まれていそうだ。
「う、うるさい。とにかく、あんたも結界のために協力しなさいよ! あのハゲがどっか行った以上、長女である私の言葉は絶対なんだからね!」
「淡桜姉さん、あの方をそんな呼び方――」
 言葉で勝てないと思ったのか、淡桜は黒鐘の咎める言葉を聞かずに消えてしまった。便乗するように、二葉と龍泉も姿を消す。
「まったく、姉が揃いも揃って規律を破るなんて」
 一人残されて黒鐘がぼやく。
 そこにあゆみがおずおずと手を挙げた。
「あの~黒鐘さん、質問があるんやけどいいかな? お姉さんとの会話でも度々出て来とるけど、あの方って誰なん?」
 黒鐘は「あ」と短く声を漏らすと、俺たちのほうに顔を向けた。姉との会話の途中から眼中になかったのだろう。
「あの方というのは、これも規律で正体を明かすことは禁じられているのだけど」
 黒鐘の話によると、八八さん姉妹が「あの方」や「ハゲ」と呼んでいる人物は八八さんの生みの親であり、八八さんの守護力が消えないように定期的に力を与えてくれるのだという。
 だが、その定期供給が半年前を最後に止まってしまったのだ。「あの方」がいまどこに居るかもわかっていない。
「あの方の力は、私たちにとってご飯みたいなもの。そっか、半年もご飯抜きだったんだ。姉さんたちがお腹を空かせるのも当たり前だね」
「黒鐘さんは平気なの?」
 まるで他人事のような黒鐘に、あゆみが聞いた。
「私は常日頃から体を飢餓に慣らしているの。それに、ほら、非常食はいつも確保しているし」
 黒鐘は「姉たちとは違うのさ」と気取ったふうに腕に抱えた石鉢を差し出した。中を見ろということらしい。俺とあゆみは促されるまま覗きこむ。
 そこには一輪の蓮の花と、水中に数匹の丸く肥えた金魚が。はっ。非常食!
『……流石、コクリンね』
『相変わらず逞しいこと。くすくす』
『いや、生きることに貪欲なのは素晴らしいことだ』
 姉三人の声が聞こえてくる。だけど姿は見えなかった。
 とりあえず、結界と八八さんの関係について、また少し明らかになった……のか?

「姉さんにも言われたし、結界のことは協力させてもらうよ。これ、お札」
「黒鐘さん、ありがとう!」
「だけど、その前に」
 黒鐘が名前を書いた札をあゆみに差し出したかと思うと、あゆみが手を伸ばすタイミングを見計らってヒョイと上へ掲げた。
 あゆみは、目前で餌を取り上げられた小動物のように寂しそうな視線を送る。
「等価交換って言葉は知ってるよね? タダでは渡せないよ」
『……なんて器の小さい妹かしら』
「姉さんは黙ってて。そもそも働かざる者食うべからず! 何かを得るためには相応の代価は必要なの!」
「えっと、具体的に何をすればいいんかな?」
「誰かさんと違って物わかりがよくて助かるよ。本堂前に納経所があるんだけど、そこでお婆さんが揉めているみたいなんだよね。ぱぱっと解決してきてよ」
 お札の対価として適正かは置いておいて、俺たちは納経所へ向かった。


大日寺/境内(あゆみ・お婆さん)

「わたしゃ蛤水(はまぐりみず)の湧いている場所を教えろと言うとるんじゃ」
「いえ、ですから……」
 納経所へ行くと、お婆さんが気弱そうなお寺の人に何やら食ってかかっていた。偏屈そうな面持ちの、眼光の鋭いお婆さんだった。
「こんにちは。お婆ちゃんはお水を探しとるん? 私が探すお手伝いをするよ」
「おお、そうかい。……まったく、寺の者は薄情じゃけんのう」
 お婆さんは吐き捨てるように言うと、差し出されたあゆみの手をとる。
「あ、あの。ですから――」
 あゆみは納経所へ入ると早々、お婆さんを連れて出ていってしまった。お寺の人が何かを言いたそうにしていたが、俺はたいさんを掴んであゆみの後を追った。

「蛤水と言ってな、この寺のどこかで白く濁った水が湧いているはずなんじゃ。飲むと胃腸にいいらしくての」
「白く濁ったお水やね、任せて。お婆ちゃんはここで待っててね」
 お婆さんには納経所の前に置いてあるベンチで休んでいてもらうことにする。
「それじゃ、恵。汲みに行こっか」
「汲みにって、もう場所分かっとるん?」
「うん、お寺に入る前に見つけとったけん」
 考えなしに引き受けたと思っていたのに、あゆみもやるときはやるらしい。素直に感心してしまった。

「ほら、ここのお水、白く濁っとるやろ」
 あゆみはその水を柄杓でコップに注ぐ。
 ここはお寺の横を流れる川の岸辺。確かに目の前の川の水は白濁しているが……これはどうなんだろう。ビニールゴミとか気になるのですけど。
 だけど俺は、あまりにもあゆみが自信満々だったので黙って様子を見ていた。

「お婆ちゃん、はい、どうぞ」
 あゆみが満面の笑みでコップを手渡す。
 お婆さんはコップを受け取ると、それに口をつけようとして手を止めた。
「これは、どこの水だい?」
「お寺の横を流れている川だよ」
 そのあゆみの答えを聞いた瞬間、お婆さんの仏頂面がますます歪む。
「こんなもん飲めるかい。余計に胃腸が悪くなるわい」
 そう言うと、コップを地面に叩きつけた。

「ふええ、怒られたよう」
 あゆみがしょんぼりと境内を歩く。
 でも、すぐに顔を上げた。そして僧堂の前を指差して言う。
「お寺の人が、白い飲み物を子どもにふるまってるよ」
 あゆみは子どもの列に並んで白い液体の入ったコップを受け取ると、お婆さんの待つ納経所へと戻った。
「今度はちゃんと飲めるもんかね」
 お婆さんは、ギョロリとくぼんだ瞳で見据える。
「うん、大丈夫だよ。お寺の人がふるまってくれたもんやけん」
 今度こそ間違いないと、笑顔で答えるあゆみ。お婆さんはそれ以上は何も言わず、コップに口をつけた。
「……これは」
「どう? 胃腸によさそうな味なん?」
「馬鹿もんが。これはただのカルピチュじゃ」
 そう言うと、またしてもコップを地面に叩きつけた。
 『カルピス』と言えずに『カルピチュ』と言うお婆さん、萌え。腸にいい飲み物には違いないが、蛤水と呼ばれる霊水ではなかった。

「ううーん、他に白く濁ったお水なんてあるのかな」
 あゆみが頭を抱えて境内を歩く。その足取りはだいぶ重そうだ。
「おぬしら、困っているようだな」
 いつの間にか姿を消していたたいさんが、手にコップを持って戻ってきた。
「ほれ、蛤水を持ってきてやったぞ」
「え? これが?」
 俺とあゆみは半信半疑のまま、たいさんの持ってきたコップを持ってお婆さんのところへ戻った。
「手水場で汲んだ水? これが、蛤水だと言うのか?」
 お婆さんにコップを渡すと、お婆さんもまた同じ反応をした。
「これのどこが蛤水なんじゃ。年寄りだと思って馬鹿にしよって」
 お婆さんは立ち上がって声を荒立てる。その気持ちも分からなくはない。手渡したコップの中身は透明な液体だったのだから。


大日寺/手水場

「それは……間違いなく蛤水と呼ばれる水……です」
 背後からか細い声が聞こえてきた。納経所でお婆さんと言い争いをしていたお寺の人だ。
「このお寺の手水場に湧く水は、以前は確かに白く濁ったものでした」
 お寺の人が緊張した声で説明を始めた。
「それが、水の出が悪くなったのでポンプで吸い上げるようにしたらしいのですが……、それ以来、白濁の水が透明に変わってしまったらしいのです。それから胃腸に効くという説も薄れつつあるようで……」
「なんじゃい、そういうことならもっと早くに言わんかい」
 お婆さんは気の抜けたようにベンチに腰を掛け直した。それを見て、俺とあゆみも一気に力が抜けるのだった。
「これも時代かのう」
 少しの沈黙の後、お婆さんがぽつりと言った。
「納経帳にいただくしるしも、木版からいつの間にやら墨書に変わってしもうとるし」
 お婆さんは自分の納経帳を開くと、それを少し寂しそうに眺めた。
「版は有難味がないとか、墨書のほうが手間がかかって値打ちがあるとか、そんな言葉を聞いたこともあったが、わたしゃこの木版が好きでねえ。『手書きをすると、人間のことだから奉納経の「経」を抜いたり簡略化してしまう。それがいやでね』という先の住職の言葉を聞いてから、ますます愛着がわいたもんじゃよ」
 この四番札所大日寺は、八十八箇所の中で唯一、納経帳に墨書するかわりに昔ながらの木版を使っていたそうだ。
 だが、十年ほど前にその木版は姿を消した。
「墨書がええとか版がええとか、そんなもんは誰にもわからん。ただ、他と同じ墨書になってから、昔の版を惜しむ声を聞くようになった。古い慣習を大事にすれば不満を漏らし、いざ新しいものを取り入れようとすればまた不平を唱える。人間とは身勝手なもんじゃのう。――じゃけど」
 そう呟きながら、お婆さんは納経帳を閉じて顔をあげた。
「人間はそうやって前を向いて進んでいくんじゃな」
 昔ながらの木版を頑なまでに守り続けていた人がいて――そこには強い信念と誇りがあったのだろう。
 長く使い続けた木版を封印しようと決心した人がいた――そこには葛藤と踏み切る勇気がいったはずだ。
 人は揺るがない何かを望みながら、変わらないものなど無いことを思い知らされる。
 だけどそこにあるのは悲観ではない。
 どう変わりたいのか、人はそこに理想をえがき、希望に向かって進むことができるのだ。
「――おやおや、つまらん話をしてしもうた。どうも歳をとるとぼやきが多くていかんのう」
「ううん。そんなことないよ」
「いい話を聞かせていただきました、ありがとうございます」
 二人でお礼を述べると、お婆さんはくすぐったそうに笑った。最初に出会ったときは怖そうだと思ったけれど、今はとてもあたたかい雰囲気に包まれている。
 さてと、そろそろ行かんとな、そう呟いてお婆さんはベンチから腰を上げた。
「二人が話を聞いてくれたおかげで、また前を向いて歩くことができそうじゃわい。それで、親切な二人にもう一つお願いがあるのじゃが、聞いてくれまいか? なに、無理そうなら断ってくれても構わんが」
 俺たちは快諾した。
「わしの妹も、今どこかの札所をまわっているはずじゃ。もし会うことがあったらこれを渡してほしい」
 お婆さんは、妹の顔は自分に瓜二つだから間違うことはないと冗談めかして言った。
 そして小さくて細長い化粧箱を取り出し、あゆみがそれを受け取った。
「わかりました。妹さんに会ったら必ず渡します」
 あゆみが答えたときには、お婆さんの姿はもうなかった。
「せっかちなお婆ちゃんやね」
 あゆみが笑いながら、預かった箱を袖の中に収納した。

「どうだった?」
 黒鐘のところに戻ると、彼女は待ちきれないと言わんばかりに身を乗り出してきた。
 俺は一部始終を報告する。
 黒鐘はその報告に満足して何度も頷いたかと思うと、ふと遠くのほうを見つめて言った。
「あのお婆さんも、きっと心安らかなはずだよ」
 その仕草に何か含むところがあるように感じて、怪訝そうに顔を見合す俺とあゆみ。
「いやいや、何でもないよ。でもまあ、いずれわかると思うから、そのときのお楽しみってことで」
 そして、黒鐘はやはり含みのある台詞をはいて、ククッと小さく笑った。
「あ、忘れる前に。はい、今度こそお札」
「ありがとー」
 あゆみは黒鐘からお札を受け取ると、古文書へとかざした。
 俺はその様子を見ながら、大きく伸びをする。
「それにしても、今回はえらい疲れたな」
 たいさんに顔を踏まれることから始まって、八八さん姉妹の一騒動、そしてお婆さんの依頼……。
「そうやね、いっぱい人と話したもんね」
 あゆみも同意して頷いた。
 そんな俺たちに、黒鐘はさらりととんでもないことを口にする。
「へたり込むには早いと思うよ。君たちはまだ八十四ヵ所のお寺をまわらないといけないのだけど」
 黒鐘は今までの無表情が嘘のように、晴れやかな笑みを浮かべて言った。
「これから会う妹たちは、姉以上に曲者揃いだから覚悟してね」

黒鐘

つづく


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