第六話<安楽寺>

文章・絵:SHIZUMU(OpenDesign) 制作:OpenDesign


地蔵寺奥之院五百羅漢堂(黒鐘・蔵杏羅)

「何しけた話してるの、歌蔵(うたぞう)」
 第五番札所地蔵寺、奥之院・五百羅漢堂の片隅。
 『色(しき)』と『空(くう)』を語りながら、しんみりする俺と蔵杏羅(くあら)に、不意に誰かの声が聞こえた。
「えっ、その声は――もしかして、リンちゃん?」
 蔵杏羅の表情がぱっと明るくなる。
 声がした方を振り返ると、そこには簡素な墨染の着物を身にまとった褐色肌の少女、黒鐘(くろかね)の姿があった。
「わーい。やっぱりリンちゃんだ! すっごい久しぶりだねっ! 元気だった?」
 蔵杏羅は嬉しそうに黒鐘の方へと駆けていく。
「元気元気。まあ、歌蔵には負けるけどね」
「あはは。変わりなさそうで何よりだよっ。ところでリンちゃん。いつになったら『歌蔵』って呼ぶの、やめてくれるのかな?」
 蔵杏羅は「なんか男っぽくてイヤだよぅ」と唇を尖らせる。
 まさかとは思ったが、「歌蔵」というのは蔵杏羅のあだ名らしい。一体どんな経緯で、そんな微妙なあだ名がついたのか……。
「だったら、私のことを『リンちゃん』って呼ぶのもやめてよね」
 蔵杏羅の言葉を受けて、黒鐘は交換条件を出す。
 そういえば、黒鐘は姉たちに「コクリン」と呼ばれていたっけ。それがさらに進化して「リンちゃん」というわけだ。「歌蔵」に比べれば随分マシな呼び名だと思うが、黒鐘本人はひどく嫌がっている様子だった。
「えっ? なんでなんで? 『リンちゃん』って可愛くない? 可愛いでしょ?」
 蔵杏羅は心底驚いたように、黒鐘に詰め寄る。
 最初のうちはだんまりを決め込んでいた黒鐘も、蔵杏羅があまりにもしつこいので耐えかねて声を上げた。
「だから! 可愛いって言われるのが嫌なんだって!」
 そう言った後、しまったというような表情を浮かべて口をつぐむ黒鐘。
「えっと……?」
 蔵杏羅は意味が分かんないよと首を傾げる。
「ああもう! 私は歌蔵みたいに可愛くないし、『リン』なんて呼び名は似合わないって言ってるの!」
 黒鐘は早口でそう言うと、拗ねたようにそっぽを向いた。
 ぱちくりと、蔵杏羅は大きい目を瞬かせる。
「えーっ! そんなことないよ。リンちゃんは可愛いもん! ね、あなた――恵クンっていうんだっけ? 恵クンもそう思うでしょ?」
「え? あ、俺? ……うん、まあ、はい」
 完全に蚊帳の外だと思っていた俺は、出し抜けの蔵杏羅の言葉に反応が遅れた。慌てて頷いて見せたが、遅すぎたようだ。
「……別に、気を遣ってくれなくてもいいよ」
「もう、こーゆーのは即答しなきゃダメでしょ!」
 ああ、二人の視線が痛い。


地蔵寺奥之院五百羅漢堂(淡桜・黒鐘・蔵杏羅)

「……まあ、そもそもの原因は、淡桜(あわざくら)姉さんが勝手に変なあだ名をつけたせいだし」
「だよねだよね。全部、淡桜ちゃんが悪いんだよ」
「人が嫌がることしかしないというか……」
「うんうん。まったく困ったお姉ちゃんだよね」
「――ふぅん。わざわざつけてあげたのに」
 溜め息交じりに愚痴をこぼす黒鐘と、それに同意して頷く蔵杏羅。その背後から不意に聞き覚えのある声がした。
「何やらいろいろ不満があるみたいね、あんたたち」
 そこには仁王立ちの淡桜が。その後ろには二葉と龍泉(たつみ)、そして大分いつもの調子を取り戻したあゆみの姿もあった。
「うわわ。淡桜ちゃん、ご機嫌よう……」
「姉さんたち……いつからそこへ?」
 淡桜は動揺しまくりの妹二人に、にっこりと笑って言った。
「コクリン、あんたは本っっっ当に可愛げがないんだから、せめて名前ぐらい女の子らしくなさい。そして歌蔵、『蔵杏羅』なんてややこしい名前してんのが悪いのよ。地蔵寺に棲む歌好きだから『歌蔵』。ほら、こっちのほうが分かりやすくていいでしょ?」
 ……ひでぇ。
 淡桜の暴言っぷりに絶句する妹二人。そして、半泣き状態で龍泉にすがりつく。
「うわぁん。淡桜ちゃん、相変わらず酷いよう」
「龍泉姉さんだけだよ。変なあだ名で呼ばないでいてくれるのは」
 妹に抱きつかれて困惑する龍泉。
「あらあら。人気者ね、龍泉」
 龍泉の隣では、二葉がくすくす笑っていた。
 その様子を見ながら、淡桜は面白くなさそうに眉をひそめる。
「あんたたち、そんなこと言ってるけどさ。龍泉が一番、私たち姉妹に対して酷い呼び方をしてると思うけど?」
「淡桜ちゃんは、やめてって言っても面白がって呼ぶでしょ。龍泉ちゃんはそんなことしないもん」
「龍泉姉さんと違って、淡桜姉さんには悪意が感じられるの」
 淡桜に蔵杏羅・黒鐘が反論する。
 その言葉に淡桜は目を細めて言った。
「ふぅん。じゃ、今からあんたたちは『四番』と『五番』ね」
「ええーっ!」
「龍泉みたいな呼び方がいいんでしょ。龍泉は私を『一番上の姉』って呼ぶわ」
「私は『二番目の姉』ですね。くすくす」と、二葉が乗ずる。
 どうやら、龍泉は姉妹の名前を呼んだことがないらしい。
 姉を呼ぶときは『何番目の姉』、妹のときは『何番目の妹』が基本なんだとか。もしくは『あれ』とか『これ』とか。
「あーあ。私が愛情込めて考えた呼び名より、番号の方がいいって言うなら仕方がないわね」
 淡桜は大袈裟に肩を落として見せた。
「うわぁん。淡桜ちゃんの意地悪ー!」
 本気で泣き出す蔵杏羅。
「あらあら。姉さま、あまり苛めては可哀そうですよ。この子たちはただ、愛のある呼び方をしてほしいと言っているだけなのに」
 二葉の助け舟に、蔵杏羅と黒鐘は激しく首肯する。
「まあ、歪んだ愛情しか抱けない姉さまには難しいことかもしれませんけど。くすくす」
「誰が歪んでるですって!」
 相変わらず一言多い二葉である。
「――ったく。いいわ、他にいいあだ名が浮かんだらそっちにしてあげる。それでいいでしょ」
 結局、淡桜のこの言葉で話の片はついた。とはいっても、「他にいいあだ名が浮かんだら」と言っているので、浮かばない限りは現状のまま。つまるところ、何も変わりはしないということだ。
「ところで、龍泉」と、淡桜は龍泉に向かって言った。
「番号で呼ばれるの嫌みたいよ?」
「ぐっ。名前の話はもう済んだはずでは……。何故に蒸し返す真似を……」
「くすくす。いい機会ですし、龍泉にも私たちの名前をちゃんと呼んでほしいということですよ」
 確かに、今まで一度も姉妹の名前を呼んだことがないというのは問題な気がする。何か深い事情でもあるのだろうか。
「龍泉さんは、なんで淡桜さんたちを名前で呼ばないの?」
 あゆみが訊ねると、龍泉は至極真面目に、この上なく昂然とした態度で答えた。
「其(そ)れは恥ずかしいからに決まっておろう」
 ……いや、そんな自信満々に答えられても困るのだけど。一同、無言。流石の淡桜も返す言葉が見当たらなかったようだ。


地蔵寺奥之院五百羅漢堂/大師堂

「――ん? 誰かヒトが近づいてくる」
 呟いたのは黒鐘だった。羅漢堂の出口扉へ視線をやる。
「おや。君たち、まだ居たんだね」
 ひょいと顔を出したのは、羅漢堂の入口で拝観料を徴収していた中年の男だった。男は気さくに話しかけてくる。
「今日はここで打ち止めかい?」
 遍路では、札所を参拝することを「打つ」という。男が言った「打ち止め」とは、その日の参拝を終わりにするという意味だ。
 ちなみに札所を一番から順番に巡ることを「順打ち」、八八番から反対回りに巡ることを「逆打ち」という。
一般的には「順打ち」が基本とされているが、「逆打ち」の方が功徳が大きいと言われている。なぜなら、今でも順打ちで四国を巡っているお大師さんに、逆打ちで巡る方が出会える可能性が高くなるからだそうだ。
 そして、逆打ちは四年に一度の閏年に巡るのが特に功徳があると言われている。今年が丁度その年にあたる。しかし、四年に一度なんて、なんかオリンピックみたいだな。
「あ、いえ。次のお寺まで行こうかなって思ってます」
 男にあゆみが答える。
「それなら少し急いだ方がいいよ。納経所が閉まってしまう」
「まだ四時前やけど、納経所って何時に閉まるん?」
 俺は携帯の時刻を確認しながら、小声であゆみに聞いた。
「夕方の五時だよ。次のお寺までは、ええっと……五キロ程あるみたい。ほんとだ、急がんと間に合わんね」
 地図で次に向かうお寺の位置を確認する。五キロか、歩きだと一時間強はかかる。急がなければ。
 俺とあゆみは「声をかけてくれてありがとうございます」と男に会釈する。
「いえいえ。それじゃあ、気をつけて。――ああ、そうだ」
 男は軽く手を振ってその場を離れようとしたが、何かを思い出して足を止めた。
「夕方から雨の予報になってるからね。歩きなら本当に急いだ方がいいよ」
 そう言って、男は去っていった。

「えー。雨降るんだ。私、雨嫌いなんだよね」
 男の姿が見えなくなると、淡桜は口を開いた。
「濡れるの嫌だし、また戻って寝てるわ」そう言って、淡桜は姿を消す。
「ならば吾(われ)も戻るとしよう」
「わたしも。恵クン、あゆみちゃん、またねーっ!」
 各々一言ずつ残して、姿を消す八八さんたち。
 一緒のタイミングで出てきたり消えたり。なんだかんだ言い合ってはいるが、根本の部分では仲睦まじい姉妹だということだ。
 そんなことを考えていたせいで、大事なことを忘れるところだった。
「あっ、蔵杏羅さん待ってー!」
 あゆみは慌てて蔵杏羅を引き止める。
「うん? 何かなっ?」
「あのね。結界の力を取り戻すために協力してほしいんやけど――」
 俺とあゆみは簡単に結界と古文書の説明をして、蔵杏羅からお札を貰った。
「ふう。これでこのお寺とも縁が繋がったよ。――さあ、次のお寺まで急がなきゃ」
「だな」
 古文書を胸元に仕舞いながら言うあゆみに、俺は頷く。
 次の目的地は第六番札所「安楽寺」だ。
「あ、待って」
 地蔵寺の門を出たところで、急にあゆみが足を止めた。
「たいさん忘れとった!」
 おお、そういえば。羅漢堂前に転がしっぱなしだ。あやうく置き去りにするところだった。

「雨降ってきたよぅ。安楽寺ってまだ遠いんやろか?」
「お、門が見えた」
 羅漢堂の男が言った通り、地蔵寺を出てからすぐ空は雨模様に変わっていった。暫くは持ち堪えていたのだが、安楽寺に到着する一歩手前のところで、とうとう雨が降り始めた。
 ……しかし、何もここまで激しく降らんでもいいのに。
 雨は雨でも、滝のような大雨だった。
「うわーん。門が見えてからが微妙に遠いよー!」
「少年よ、早く走らんか! 儂の体が濡れてしまうではないか!」
「うるせー!!」
 叫びながら豪雨の中を突っ切る。
 安楽寺の山門に入ったときには、全員濡れ鼠だった。


安楽寺/山門&山門屋根・山門下・標識

 温泉山(おんせんざん)瑠璃光院(るりこういん)安楽寺(あんらくじ)。
 『四國禮霊場記』によると、その昔は阿讃の山麓から現在地まで寺域が点在していたが、戦国時代の兵火や明治維新の神仏分離令を経て現在に至る。
 ここ引野村には古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師・空海によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡である。山号は温泉山であり、現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。
 桃山時代に阿波藩祖・蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め、四国遍路や旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置いた。宿坊は以来四百年の歴史を有する。なお「駅路寺」とは、行き来するお遍路に慈悲を施し旅宿を提供する藩指定の寺であり、旅人への親切を旨としていたが山賊や盗賊を見つけると通報する義務も負っていた。
 御本尊は弘法大師・空海が刻んだ薬師如来だが、現在の薬師如来像は、難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた女性が、1956年、病気平癒の報恩のために奉納したものである。そして古来の本尊は胎内仏として、その中に納められている。
 また、安楽寺には弘法大師・空海の身代わりとなって災厄を防いだという「さか松」があり、厄除けの寺としても知られている。

「到着~。疲れたよぅ」
 竜宮門型の山門の下に滑り込んで、俺たちは漸く一息ついた。
「ひどい雨やね」
 あゆみがスカートの裾の雫を払いながら呟く。
 俺はそうやねと一言返しながら、抱えていたたいさんを地面に下ろした。たいさんはブルルッと体を震わせて水滴を飛ばす。こんな姿を見るとちゃんとした動物に見えなくもない。決して可愛いとは思わないけれど。態度でかいし。
「あらー? 君たち、びっしゃんこじゃない。傘は持ってなかったの?」
 門の下で服を乾かしていると、ふくよかで優しそうな女の人が声をかけてきた。たすきを掛けた作務衣姿、お寺の人だろう。
「すぐに着くと思って、傘をささずに走ってきたらこの有様に……」
「ふふ、若いわね。でも、夏だからって体を濡らしたままにするのはよくないわよ」
 女の人は微笑んで、腕に抱えた桶から手拭いを二枚出して渡してくれた。
「あ。どうも……」
「体を拭いたら、先に納経所へ行ったほうがいいわ。そろそろ五時じゃないかな」
「もうそんな時間なん。恵、急ごう」
「ああ。でも、先に納経帳に印貰っても大丈夫なん?」
「うーん。本当はちゃんとお参りしてからだけど、納経所の人に迷惑かけちゃ駄目だからね。それに焦ってお経をあげても意味ないやろ」
 成程ね。そんなわけで、俺たちは納経所へと向かうことにした。


安楽寺/本堂&大師堂・境内・納経帳

 お寺では、本堂と大師堂にお参りしたあと、納経所に立ち寄って「納経」をする。本来「納経」とは、写経を納めてその「受け取り証」として納経帳や持参の白衣・掛け軸などに朱印を頂くことだが、現在では、写経を納める代わりに納札を納める方が多い。
 納経帳には、「奉納」の文字に加えて、本尊を表す梵字と本尊の名前、寺院の名前を墨書してもらい、札所の番号などの朱印をいただく。
 この納経には四国八十八カ所霊場会が定めた協定料金がかかるわけだが、納経帳の場合には三百円、白衣には二百円、掛け軸には五百円と決まっている。
 そして納経所の受付時間は、原則として年中無休で、午前七時から午後五時までとなっている。
「納経帳に朱印をいただくことは納経をしたという証だからな。お参りの前に納経所に行くのは、本当はルール違反だということを肝に銘じてだな――」
 納経所に向かう間、たいさんは口酸っぱくそんなことを言った。
 たいさんの言っていることは正しい。お参りをせずに朱印を貰っていては、それはただのスタンプラリーと変わらない。
 それを分かった上で、俺は「はいはい」と二度返事で答える。そして返事は一度でいいと叱られるのだった。

 なんとか五時になる前に納経所を出ることができた。それから、本堂と大師堂を順に参拝する。
 大師堂前で、さっきの女の人を見つけた。女の人も俺たちに気がついたようで、手を振りながら近づいてきた。
「無事にお参りはできた?」
「ええ、おかげさまで。それで、これ。手拭いありがとうございました。」
 俺は忘れる前に借りっぱなしの手拭いを手渡した。女の人は、どういたしましてとそれを受け取る。
「ところで君たち、今から何か予定はある? よかったら、おねーさんが境内を案内するよ?」
 折角のお誘いなので、ありがたく受けることにする。


安楽寺/拝殿&拝殿2・多宝塔(お砂踏み)・修行大師像

 まず連れて行かれたのは本堂前の拝殿だ。
「この拝殿はね去年完成したの。おかげで今日みたいな雨の日や、真夏の陽射強いときでも快適にお参りができるようになったのよ」
 なるなる。さっき本堂にお参りに来たときに、えらい新しい建物だと思ったが、本当にできたばかりだったようだ。
 拝殿の正面の欄間にはお四国から見た弘法大師御一代記の彫刻が、内側の欄間にはご本尊薬師如来の十二神将にちなんだ干支の彫刻が列(なら)ぶ。干支の周りには季節の花も添えられ、拝殿全体で方位と季節を表しているらしい。
 そしてこの拝殿には松本明慶師作の青銅製香炉堂、燭台、童観音が列んでいる。松本明慶師は日本を代表する京都大仏師であり、ここ安楽寺には松本師が無名時代から彫り続けた仏像三十五体が各御堂に祀られている。
「池の向こうの多宝塔は、八十八箇所のお砂踏みができるの。いってみよっか」
「おー」
 回遊式日本庭園の池の石橋を渡った先に、極彩色の多宝塔が建っている。平成五年に建てられたもので、これまた新しい。多宝塔の外周、基壇(きだん)上には四国八十八箇所のお砂が埋められており、塔の周りを一周することで八十八箇所のお砂踏みができるようになっている。
「よーし。塔を一周したら、次は『願い棒修行』にいこっか」
「おー」
 塔をぐるりと一周して、来た道を引き返す。そして大師堂前の修行大師像までやってきた。
 大師像前には木の棒が入った入れ物が置かれている。
「まずは、その箱の中の棒を自分の年齢の十の位と一の位を足した数だけ持ってね」
 えーっと、俺は十六歳だから、『一』足す『六』で『七』か。七本の棒切れを手に取る。
「次に、願い事と年齢と名前を唱えて」
「願い事は特になし、一六歳、幸野恵」
「唱えたかな? 今度は般若心経を唱えながら、お大師さまの周りを右回りに歩くの」
 念仏を唱えながら像の周りを歩く。
「それで、正面にきたときに棒を一本、宝前に置いてってね」
 棒を全部置き終わるまで続けるだという。七周回り終えたところで足を止めた。
「箱に棒を戻して、正面で『南無大師遍照金剛』を七回唱えて終わりよ」
 お疲れさまでした、と女の人が手を叩く。
「ふふ、君ってノリがいいね。こんな雨なのに、真面目に修行に励むなんて。おねーさん嬉しいわ」
 いや、真面目にするつもりは別になかったのだが、いつの間にかペースに乗せられていたというか何というか。
「さ、暗くなってきたし、お腹空いたんじゃない? 今日は雨にも濡れたし、さっき歩き回ったから汗もかいたでしょう。お風呂に入りたいんじゃないかな?」
 女の人はにこやかな微笑みで、俺たちをある建物へと誘導していく。
 建物の入り口には『宿坊』の文字。
「えっと、『安楽寺の宿坊は四百年の歴史を持ち、お大師さまゆかりの温泉である<弘法の湯>の湯脈は今に続き、宿泊者の旅の疲れを癒しております。客室数八十室、一泊二食付のコースと、素泊まり用のコースをご用意しており、お客様のニーズに合わせてお選びいただけます』……って感じかしら?」
「うおぉい! いきなり口調が営業臭くなっとるし!」
 俺は思わずツッコミを入れる。流石はお寺で働いている(と思われる)おねーさん、抜かりがなかった。
「ふふ。それは半分冗談として置いておいて」
 と、女の人はころころ笑う。成程、半分は本気なんだ。
「君たち、今夜はどこに泊まるか決めてるの? もし困ってるなら、私から宿坊の人に掛け合ってみるわ」
 どうやら、ここの宿坊に泊まる場合は、宿泊予定の三日以上前に予約が必要らしい。
「ありがとうございます。でもあたしたちの巡礼は修行を兼ねてやけん、宿泊施設には極力頼らんようにって――」
「まじかっ!」
 あゆみが話している途中だったが、俺はつい口をはさんでしまった。
「施設に頼らんって……まさか、野宿……じゃないよね?」
「野宿だよ」
 あゆみはあっさりと答える。
「何それ! 聞いてないし!」と、俺は柄にもなく声を張り上げた。
 そんな俺に、あゆみは「うん。だって、今初めて言ったんやもん」とあっけらかんと言う。なんてこった。
「そっか。だったら、おねーさんが邪魔しちゃダメだよね」
 いや、そこは引き下がらないで。もう少し押してくれたら、あゆみの気持ちも変わるかもだから!
 俺の心の声が通じたのかどうかは分からないが、女の人は「でもねぇ」と言葉を続ける。
「今日は雨も強いし、ちゃんと室内で休んだほうがいいと思うよ」
 うんうん、その通り。
「あ、そうだ。それならいい場所があるよ」
 女の人は、ぽんと手を打った。


安楽寺/山門(内部)

「わあ、ここなら十分休めるね」
 山門の二階、鐘楼になっているその場所は、宿泊施設ではないが、お遍路さんが寝泊まりしてもいいようにと解放されている。部屋の隅には、親切にも布団が一式用意されていた。
 あゆみは、さっさと荷物を降ろして並べると、あっという間に寝床を完成させた。
 一方、俺はというと、部屋の入口で固まったまま動けないでいた。
 だって、同年代の女の子と同じ部屋で寝泊まりするなんて、何か気恥ずかしいじゃないか。
「あれ、どうかしたん?」
 あゆみは、俺がつっ立ったままでいるのに気付いて、不思議そうに首を傾げる。
「まだ休まんの?」
「いや、まぁ……」
 曖昧な返事で誤魔化していたところに、たいさんが口をはさむ。
「この初心な少年は、年頃の女子(おなご)と同じ部屋で寝ることに照れておるのよ」
「ほぇ?」
「べ、別に照れてなんかないわっ」
 反射的に叫んでしまったが、頬が熱くなっているのが自分でも分かった。くそう、恥ずかしすぎる……。
「こんなことでいちいち動揺するなんて、ばっかみたい」
「くすくす。恵さんだって健全な男の子。女の子に興味があって当然ですよね」
「然(そ)うは言っても、今後の巡礼に支障が出ては困るのでな」
 更なる面倒な人たちのご登場。言うまでもなく、淡桜・二葉・龍泉の三人組だ。
「仕方がないから、私たちが見張っててあげるわ。感謝しなさい」
 相変わらずの淡桜節。何がどう仕方がないのかは分からない。
「よく出てきますよね、お三方……」
 率直な意見を、うっかりこぼしてしまった俺に、淡桜の朱い瞳孔が光る。
「ふぅん、何か出てきたらまずい理由でもあるのかしら?」
「あらあら。姉さま、またそんな言い方をして。恵さんが萎縮してしまってるではありませんか」
 二葉は淡桜をたしなめる。しかしその表情はどことなく楽しそうだった。口では庇うフリをして、実際は淡桜と一緒に俺を弄って遊んでるのだ。この、いじめっこどもめ。
 そんな中で、誠実に接してくれる龍泉は救いの存在だ。口調の硬さが少々気になるが、文句を言っては罰が当たるってもんだ。
「吾らは自己の陣地――則ち己が棲む寺からは離れられぬ身なのだが、貴殿が縁を繋いでくれたおかげで、陣地の外を行き来できるようになったのだ。其れが嬉しくてな」
 外の世界見たさに、ついつい出てきてしまうのだと、龍泉は照れながら言った。
「それならどんどん出てきてよ。大人数で旅をするのって楽しそう」
「是非とも」
 あゆみの提案に、龍泉は嬉しそうに頷く。
「ところで、黒鐘さんと蔵杏羅さんは?」
 四女・五女の現れる気配がないのが気になって、俺は淡桜に聞いた。
「あの子たちは留守番よ。こんな狭い部屋に五人も来たら身動きが取れなくなっちゃうじゃない」
「成程、長女の特権というヤツですね」
「そーゆーこと!」
 皮肉だったのだが、淡桜は胸を張って答えた。
 そんなこんなで、夜は更けていくのだった――。


安楽寺/境内

「やば、じいちゃんに電話するの忘れとった」
 ふと思い出して、俺は体を起こした。
 梵鐘のつり下がった小さな部屋。降りしきる雨の音に混じって、規則正しい寝息が聞こえてくる。
 携帯の時計を確認する。時刻は九時をまわったところだった。
 この時間なら祖父はまだ起きているだろう。
 皆を起こさないように気をつけながら、俺は部屋を抜け出した。

 門の外に出る。雨は夕方に比べると随分弱くなっていた。
 境内を歩きながら祖父に電話をかける。
「もしも――」
『恵~~~~~~~~~~~~!』
「うわっ、びっくりした」
 電話が繋がるやいなや、受話口から祖父の泣きそうな声が聞こえてきた。
「どしたん? なんかあったん?」
『たいさんが……たいさんが、また居らんなってしもたんよ~~~~~~~!』
 およよと、すすり泣く祖父。
「え? たいさんならこっちにおるよ」
『なんと』
「松山駅で見かけたけん、そのまま連れてきたんやけど」
 連絡しておいたほうがよかっただろうか。ドキドキしながら続ける。
『なーんじゃ。恵と一緒なら心配いらんの』
 よかったよかったと、祖父はけろりとして言った。
 たいさんを袋詰めにして危うく蒸し焼きにするところだったとは言えなかった。
『それで、巡礼の方はどうかね。順調に進んどるかね』
「まだ一日目やしね。なんとも言えんよ」
 俺は笑って答えたが、実際のところどう答えたらいいか分からない。
 八八さんと会うことは出来たが、何というか、その、個性が強すぎて。八八さんに一種の理想を抱いている祖父には、ありのままを報告するのは憚られた。こんなことを、淡桜あたりが聞いたら絶対怒るだろうな。だけど事実だから仕方がない。
 とりあえず、また明日連絡することを伝えて電話を切った。
 電話で話しているうちに、すっかり目が覚めてしまった。
 寝床には戻らず、しばらく散歩に興じることにしよう。


安楽寺/境内(癒安)

「あら。雨の中のお散歩なんて、素敵な趣味をお持ちなのね」
 日本庭園をぼんやりと歩いていると、目の前に白い人影が浮かび上がった。夕方、お寺を案内してくれて寝床までお世話してくれたあの女の人だ。
「あ。今日はいろいろお世話に――」
 なりました、と言いかけて俺は声を失った。
 目前の人影が、ヒトではないことに気がついたからだ。
 この雨の中、傘をさしていないにも関わらず、その体はまったく濡れた形跡がなかった。
 そして何より、それが立っている場所――そこは、池の上だったのだ。
「……ああ。八八さんでしたか」
 俺は何ということもなく、それを口にした。
「あれ? あれれ? もう少し驚いたり、怖がったりしてくれてもいいじゃない」
 相手の方が狼狽している。俺は少し申し訳ない気分になった。
「ま、いっか」
 暫くして立ち直ってくれたようだ。
「ウチは癒安(ゆあん)、安楽寺の守り人をしてるの。よろしくね」
 そして、何とも緩い自己紹介を始めた。好きな食べ物とか一通り喋った後、俺に名前を聞いてきたので、とりあえず短く答える。
「幸野恵」
「恵ちゃんか、いい名前ね」
 なぜか、ちゃん付けにされてしまった。
「あら? あれは何かしら」
 ふと癒安は参道を指さして言った。
 ぽよんぽよんと、弾力のある球体が跳躍しながら近づいてくる。
「たいさんやん」
「たいさん?」
 癒安は訝しげに球体を見つめている。
「一応、タヌキ?」
 いつの間にか一緒に旅をすることになった仲間みたいなものだと、俺は適当に答えた。
「少年よ。おぬしがいつまでも戻ってこんのでな、探しに来てやったぞ」
 お互いの顔が見える距離まで来て、たいさんは歩みを止めた。歩みというか、弾みというか。
 たいさんは俺の横の人影に気付いて、
「なんじゃ、そこに居るのは癒安ではないか」と、八八さんの名前を口にした。

 その刹那、
 ビシッと木が割れた音がした。
「うぉあっ」同時に、たいさんの悲鳴が上がる。

 一瞬のことで俺には何が起こったのか分からなかった。
 気がつけば、隣に立つ癒安の腕にたいさんが抱えられ、たいさんが居たはずの場所には一本の矢を受けた桶が転がっていた。
「何者!」
 癒安は矢が飛んできた方向、庭園の奥の木々が茂る場所を見据えて叫んだ。
 癒安の声に応えるように木の枝が揺れる。
 その枝と枝の間、俺は小さな人影を見つけた。


安楽寺/庭園の奥

つづく


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