第八話<熊谷寺>

文章・絵:SHIZUMU(OpenDesign) 制作:OpenDesign


 あの日も、うだるような暑さだった。
 鳴り止むことを知らない蝉の声が、より一層、暑さを強調する。頭上にはどこまでも広がる高い青空(そら)。大地を焦がす夏の陽射しは眩しすぎて――

 これは八年前の出来事。
 俺が小学校三年生だったときの夏休みの思い出だ。


回想:真夏の田んぼ

 目の前には、青々とした田んぼが広がっている。
 時折り吹く風が稲を大きくうねらせて、まるで海原の上を走っているみたいだ。
「お母さん、見て見て」
 バスの窓から見える風景にはしゃぎながら、隣の座席で眠る母の服を引っ張った。
「……何よ、恵」
 二、三度引っ張ったところで、母は面倒臭そうに顔を上げた。そして窓の外を一瞥すると、眩しそうに目を細めた。
「ほら、お日様でキラキラ光ってきれいだよ」
 朝露に光る田んぼを嬉しそうに指差す俺に、母はたいして感情のこもらない声で「本当、きれいね」とだけ答えて、またすぐに眠ってしまった。
 そんな母の態度に少しムッとしたが、母が最近眠れていないことを知っていた俺は、それ以上何も言わなかった。
 バスは青田の中をどこまでも走り続けた。
 やがて、数軒の民家が集まる村落が見えてきた。そして小さな停留所の前でバスは止まった。

「まぁまぁ、恵ちゃん。しばらく見んうちに、随分おせらしいなって」
 バスを降りると、肥えた中年の女が親しげに話しかけてきた。
 誰だか分からずに固まっている俺の背中を、母が指先で小突く。
「ほら、恵。ご挨拶は? 恵子おばさんよ、覚えてるでしょう?」
 促されるままお辞儀をしたところで、ようやく思い出すことができた。恵子おばさん、母の一番上の姉――確か、十歳ほど年が離れている――だ。
「姉さん、急な話でごめんね。本当はお父さんに頼むつもりだったのだけど、老人会の旅行とかで家を空けてるみたいで……」
「ええよええよ。恵ちゃん、大人しいけん手もかからんし。ただ、うちの息子がちょうど部活の合宿に行っとるんよ。旦那も仕事で夜にならんと戻ってこんし、おばちゃんと二人じゃ恵ちゃんにしたら退屈かもしれんねぇ」
 恵子おばさんは大きな体を揺らして笑いながら、俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「恵なら大丈夫よ。いつも一人でお留守番してくれてるから」
 母は「恵はお兄ちゃんだから、お母さんがいなくても平気だよね?」と俺の顔を覗き込む。俺は黙って小さく頷いた。
 その様子を見ていた恵子おばさんは「恵ちゃんは本当良い子やねぇ」と言いながら、再度俺の頭を撫でてくれた。
 程なくして、道の向こうからバスが近づいてくるのが見えた。
「帰りのバスが来たみたいね。それじゃ姉さん、恵をお願いします」
「あらぁ、家にも寄らんともう帰るん? 折角やのに、お茶でも飲んでゆっくりしていきさいや」
 恵子おばさんの誘いに、母は申し訳なさそうに首を横に振った。
「そうしたいのは山々だけど……次のバスだと二時間後でしょう? 今日はこれから結恵(ゆえ)を病院に連れて行かなきゃならないのよ」
 それから、母は俺のほうに向き直って、
「恵子おばさんの言うことをちゃんと聞いて、良い子にしてるのよ」と口早に告げた。そして、向かいの停留所に止まったバスに駆け寄ると、そのまま乗降口へと消えていった。


回想:真夏の田んぼ2

 母を乗せたバスを見送った後、俺は恵子おばさんに手を引かれながら畦道(あぜみち)を歩いた。
「……恵美(めぐみ)も大変やねぇ」
 歩きながら、恵子おばさんがぽつりと言った。恵美というのは母の名前だ。
「結恵ちゃんが生まれてから、ずっと病院に通い詰めなんてねぇ」
 もうじき二歳になる妹の結恵は、生まれたときから体が弱かった。母は仕事と妹の世話でいつも忙しそうだった。
『恵はお兄ちゃんだから我慢してね』
 いつしか、それが母の口癖になっていた。
 恵子おばさんは、我が妹を不憫がって「大変やねぇ」と繰り返していたが、すぐに押し黙った。そして取り繕うように笑顔を作った。
「ごめんごめん。恵ちゃんだって寂しいよねぇ」
「ううん。平気だよ」
 俺は首を振った。それは精一杯の強がりだったけれど。

 畦道を抜けて、川にかかる橋の前を横切ろうとしたとき、向こう岸に白ずくめの衣装の人を見かけた。
「あ。お遍路さんだ」
「おや、お遍路さんを知ってるのかい。恵ちゃんは物知りやねぇ」
 恵八(けいはち)じいちゃんが教えてくれたのだと答えると、恵子おばさんは納得がいったらしく、おかしそうに笑った。
「近くに札所があるけんね、ここを通るお遍路さんも多いんよ」
 そう言って、橋の向こう側を指差した。橋を渡って山を登ったところにお寺があるらしい。
「後で遊びに行ってもいい?」
「ええよ、お昼ご飯食べたら行っておいで。おばちゃんは用事があるけん一緒には行けんけど、昼間やったら遍路さんも多いけん、恵ちゃん一人でも安心やろ」
「うん!」
 恵子おばさんは「ただし、暗くなる前には戻ってくるんよ」と念を押した。


回想:あるお寺の参道

「こんにちは。一人でお参りなんてえらいねぇ」
「おう、坊主。本堂までもうちょいじゃけん、頑張りや!」
 お寺の本堂へと続く坂道。
 途中で何人ものお遍路さんとすれ違ったが、みんながみんな、声を掛けてくれたことが嬉しかった。

 木々の生い茂る参道。
 頭上では蝉の声が絶えることなく鳴り響いている。
 長くて急な坂道と石段を上り詰めると、漸く本堂の屋根が見えてきた。

「やっと着いた~」
 お堂の影に入って地べたに座り込む。そして、恵子おばさんが持たせてくれた水筒のお茶を飲んで喉を潤した。
 Tシャツの襟元をパタパタさせて服の中に風を送ると、次第に汗も引いて涼しくなってきた。
「――よし。帰りも頑張って歩こう!」
 十分に涼んでから、誰かに聞かせるわけでもなく気合いを入れて立ち上がった。
 そのとき、何かが頭の上に落ちてきた。
「何だろう?」
 頭に当たって、足元に転がったそれを拾い上げる。
 小さな黒い巾着袋だった。白いレースの飾りと、金色の糸で動物の模様――かろうじて耳と尻尾がついているのがわかる――が刺繍されている。
「お守り? 落し物かな……」
 辺りを見回したが誰もいない。
 ついさっきまで、お遍路さんがいっぱいいたのに。変なの。
「ま、いっか」
 後でお寺の人に渡そう。そう思って、黒い巾着袋をズボンのポケットに入れた。

 石段を下りる途中で足を止めた。
 少し離れた先の階段の真ん中に、見慣れない動物の姿を見つけたからだ。
 犬に似ているけれど、どこか違う。
 目の周りに黒い模様。体つきは小さくて弱々しい。まだ子どもなのだろう。
 手を伸ばせば触れられそうな距離で近づいても、それはこっちをじっと見たまま動こうとしなかった。
 向かい合ったまま、寸刻が過ぎた。
「――あ」
 ふと、祖父から聞いた昔話が思い浮かんだ。その物語に登場する動物にそっくりだ。
「タヌキさんだ」
 そう言うのと同時に、その動物――仔ダヌキは石段の手すりをくぐり抜け、茂みの奥へと姿を消した。


回想:あるお寺の境内

 違和感を覚えたのは、あの仔ダヌキと別れてしばらくしてのことだった。
 来た道を引き返していたはずなのに、いつの間にか見覚えのない場所を歩いていた。
「あれ? ここ、さっきも通った気がする……」
 どれくらい歩いたのだろう。
 気がつけば、辺りは薄暗くなっていた。あれほど五月蝿かった蝉の鳴き声が、今はまったく聞こえない。
「……迷子に、なったのかな」
 不安を振り払おうと発した言葉だったが、虚しく響いて余計に不安な気持ちになった。
「おーい!」
 耐え切れずに声を上げた。何度か叫んでみたが、それに答えてくれるものはいなかった。
 それでも、叫びながら歩いた。

 声がかれて、足取りが重くなった頃、いよいよ辺りは暗闇に包まれようとしていた。
 足の痛みと不安で、ついに動けなくなった。
 その場にしゃがみ込んで両膝を抱いた。歩いている途中、草木で引っ掻いたのだろう、足にはところどころ擦り傷ができていた。
「もし……このまま帰れなかったら、どうしよう……」
 涙が溢れて零れそうになった。それを必死に堪えようと、膝を抱く手に力を込めた。
「…………お母さん」
 そのとき、ガサッと草木の揺れる音がした。
 恐るおそる顔を上げる。目の前の茂みが大きく揺れて、黒い影が飛び出してきた。
「……あ、なんだ」
 石段で見かけた、さっきの仔ダヌキだった。その姿に、俺はほっと胸をなでおろした。
 さっきは気づかなかったが、よく見れば瞳の色が違う。片方は茶色なのに、もう片方は青色だ。
 不意にその口が動いた。
『――、――――セ』
「え? しゃべった?」
 よく聞こえなかったが、それは確かに言葉を発した。
『――ヲ、ヨコセ』
「何? 何をよこせって……痛っ!」
 それに近づこうとした瞬間、手の甲に痛みが走った。
 突然のことで何が起きたのか、すぐに理解できなかった。
 じわりと血が滲む。仔ダヌキの爪が、皮膚を切り裂いたのだ。
 呆然と立ち尽くす目前で、仔ダヌキの体が大きく膨れ上がった。
 もはや仔ダヌキと言える大きさではない。まるでヒグマのように、前足を大きく振りかざして襲い掛かってきた。
 タヌキってこんなに凶暴な動物だっけ――というか、そもそもタヌキなのか!?――なんてつっこむ余裕は、あの時の俺にはなくて。
「あ、あ……」
 恐怖に足がすくんで動けなかった。
 ――刹那、
「走って!」
 すぐ側で声が聞こえた。その瞬間、腕を掴まれ思いっきり引っ張られた。


回想:黒衣の少女

 反射的に顔を上げた。
 闇に溶け込むような漆黒の着物を着た少女。髪を結ぶリボンだけは真っ白で、それが微かに光を反射させ、幼さの残る少女の顔を浮かび上がらせていた。
「……君は?」
「黙って走って」
 ……ぴしゃりと叱られてしまった。
 取り敢えず、少女に手を引っ張られるまま黙って走った。
「しつこいな、まだ追ってきよる……!」
 後ろを振り返って、少女が忌々しげに呟く。
「ねえ、君。なんで追われてるん?」
 少女が聞いた。黙って走れって言ったのに。
「分かんない。ただ、何かを『よこせ』って言ってた――あっ! 前! 前見て!」
 突如現れる岩の壁――行き止まりだ。
「ここに隠れて」
 少女の指示通り、茂みの中に身を隠した。
 木と木の隙間から、タヌキ――と呼んでもいいのか、ますます疑問だが――の黒い影が近づいてくるのが見えた。その距離は見る見るうちに縮まっていく。
「ど、どうしよう……」
「しっ。君はここでじっとしてて――今の状態じゃ、まともに張り合えるか分からんけど、やるしかないか」
 少女はそう言うと、茂みから飛び出し、迫りくる影に向かって走り出した。
 突然出てきた少女の姿に、タヌキは一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐに牙を剥いて少女と対峙した。
「――はっ……!」
 短く息を吐いて、少女が飛ぶ。
 少女の手には数枚の紙切れが握られていた。
 それを黒い巨体の、ちょうど胸あたりに押し当てた瞬間、雷光が煌めいた。まるでアニメの世界だ。


回想:タヌキ(?)との戦い

 ぐらり、とタヌキがよろめく。その体からは白い煙が立ち上っていた。
「やった!」
 思わず叫んだ。化け物ダヌキをやっつけた!
 そう喜んだのは束の間で。
『ククク、痛クモ痒クモナイワ』
 タヌキは倒れることなく踏み止まり、口を歪めて醜く笑う。
「こ、の――」
 少女は攻撃を重ねようと構える。
 だが、タヌキのほうが早かった。
 タヌキの振り下ろした腕が、少女の小さい体を薙ぎ払う。少女はひとたまりもなく地面に叩きつけられた。
 倒れ込んだ少女のほうへ、鋭い爪を光らせてタヌキがにじり寄る。
 どうしよう、このままじゃあの子が――
「――っ、ばか! 何で出てくるんよ!」
 まともに体を起こせないままの状態で苛立ちをあらわに叫ぶ少女。
 少女とタヌキの間に割って入った俺に、タヌキ――間近で見れば見るほど、到底タヌキには見えないが――は探す手間が省けたと口元を歪めた。
『小僧、アレヲ渡セ。ソウスレバ見逃シテヤロウ』
「あれ、なんて知らない……!」
『ホホウ。コノ期ニ及ンデシラヲ切ルトイウノカ――ナラバ、力ズクデ奪ウマデヨ!』
 俺は、太刀打ちできるはずがないと分かりながら、拾った木の棒を構えた。
 タヌキが腕を振りかざす。
 だが、その腕が下ろされることはなかった。見れば、両腕を上げた格好の状態で、凍りついたように固まっていた。
『ナ、ナンダ、コノ光ハ』
 タヌキは戸惑いの声を上げる。
 よく見れば、タヌキの体を薄らと光が包んでいた。その光がタヌキの動きを止めているようだった。
『グッ、力ガ――』
 低く呻いたと思えば、しゅるんと小気味よい音をたててタヌキの体が縮む。
 そこには、頭に葉っぱをのせた仔ダヌキの姿があった。
『オ、オノレ……覚エテロヨォォ!』
 素敵な捨て台詞を吐いて、それは一目散に逃げていった。

「……行っちゃった」
 俺はその場にへたり込んだ。勿論、そのときいっぱいいっぱいだった俺は、仔ダヌキの最後に言葉に「素敵な捨て台詞」なんて感想は抱いていない。
 ただ、得体の知れない恐怖が去ってくれたことに安堵した。緊張の糸が切れたせいか、涙が溢れそうになるほどに。
「泣いてるん?」
 ひょいっと少女が覗き込む。タヌキに地面に叩きつけられたにも関わらず、何事もなかったかのようなに平然としている少女。
「な、泣いてなんかないよ!」
 俺は急いでシャツの袖で顔を拭った。同じ年頃の少女――後に、相手のほうが大分年上だということが分かったが――に泣いている姿を見られるのは恥ずかしかったのだ。
「そっか」
 少女は笑った。そして俺の隣に腰を下ろすと、一変して真面目な顔になった。
「……何?」
「落ち着いて聞いてね」
 前置きをする少女。ただならぬ様子に俺は黙った頷いた。
「あのね」
 彼女が言う。
「どうやら、道に迷ったみたい」
 あはは、と笑う少女。
 タヌキに追われて闇雲に走ったおかげで、完全に方角を見失ってしまったのだと言った。
「笑っている場合じゃないと思う……」
 少女があまりにも能天気に笑うので、少し前に迷子で泣きそうになっていた自分が意気地なしに思えてきた。それが少し悔しくて、俺はわざと捻くれた言い方をした。
「それはそうだけど――ん?」
 少女は何を思ったのか、俺の腰あたりを覗き込むように顔を近づけてきた。
「な、な、何!?」
 座った恰好のまま後ずさった。
「君のポケット、光ってない?」
「え? あ――」
 思い出したようにポケットに手を突っ込んで、それを取り出した。
 小さな黒い巾着袋。
 それが光を放っている。その光りは、さっき化け物ダヌキを包んでいたのと同じ淡い橙色を帯びていた。
「さっき、これが助けてくれたんやね」
 巾着袋の紐をつまんで持ち上げた。
 捻じれた紐がほどけてクルクルと回る。その動きに合わせて金色の動物も踊った。
 それを見た少女が叫ぶ。
「あー!」
「今度は何!?」
「そのお守り袋、あたしが失くした物だ! そのタヌキの模様は、おばあちゃんが刺繍してくれたんよ」
 そう言いながら、少女は手鏡を取り出した。鏡を入れている袋にも同じ模様が入っていた。……そうか、この不可思議な生物はタヌキだったんだ。
「君! これ、どこで拾ったん!?」
 少女は、俺の両肩をがっしりと掴む。ちょっと痛い。
「えっと……」
 少女の迫力に気圧されて、しどろもどろになりながら、ここに来る前にお堂の前で拾ったのだと説明した。
「突然、頭の上に落ちてきたん?」
「うん。そうだよ」
「ふうん……」
 一人で何やら考え込む少女。
「でも、本当に良かった……君が拾っててくれて。もしアイツの手に渡ってたら、面倒なことになるとこやったんよ」
 アイツとは、あのタヌキのことだろう。
 俺は橙色の光を放つ巾着袋を少女に手渡した。
 少女がそれに触れた瞬間、光は強さを増した。そして、少女に溶け込むように消えていった。
「あれ。目の色が、変わった……?」
「うん。こっちが本来の姿なんよ」
 少女の片方の瞳が、金色に染まっていた。

 それから俺たちは、座っていても仕方がないので帰り道を探すことにした。
 と、言っても。辺りは一メートル先すらまともに見えない真っ暗闇。
 何度もつまずいて転びそうになる。
 足元が覚束ない俺を見かねて、少女は手を差し伸べた。
「大丈夫? もしかして、暗いとこ怖いん?」
「こ、怖くないよ! 苦手なだけだよ!」
 またしても虚勢を張る俺。
 こんな暗闇を平然と歩ける少女のほうが特異だと思うのだ。
「そうだ、いいことを思いついた」
 少女は短冊形の和紙を取り出し、今度はそれを細かく千切り始めた。
「何してるん?」
「ふふふ。お楽しみだよ」
 少女は悪戯っぽく笑う。そうして、できあがった紙吹雪を両の手の平にのせると、ふっと息を吹きかけた。


回想:あるお寺の境内2

 ふわりと紙切れが舞い上がる。
「――わあ」
 思わず息をのんだ。
 切れ端の一枚一枚が光を放って浮遊する。
「すごい、きれい……!」
 それは、まるで蛍の群れのようだった。
「これなら怖くないやろ?」
「うん。……って、最初から怖くなんかないって!」
 ムキになる俺に、少女は肩を震わせている。もう、笑いたいなら笑えばいいじゃないか。

 温かい山吹色の光に照らされながら、二人で並んで歩いた。
 やがて視界が開けた。

 見覚えのある景色だった。
 銀色の手すりを挟んで、目の前には石段が続いている。少し遠くに目をやると、白衣を着たお遍路さんの姿があった。
「無事に抜け出せたみたいやね」
 隣でにっこりと微笑(わら)う少女。
 俺は目を細めた。それは、急に明るい場所に出たから目が眩んだのか、それとも少女の笑顔が眩しかったからかは分からない。
 俺たちは、近くにあった像――不動明王像だそうだ――にもたれかかって座った。
 木々の隙間からは陽射しがこぼれ、辺り一帯は蝉の熱唱。
 さっきの暗闇が嘘のようだ。
 後から思うに、あれこそ「タヌキに化かされた」というやつだったのだろう。

「あたしには五つ下の妹がいてね。あまり会えないけど、すっごい可愛くてね」
「ふーん。うちにも妹がいるけど……あんまり可愛いと思ったことないや」
「えー、なんで??」
 俺と少女はとりとめのない話をした。好きな食べ物や遊びのこと。友達のこと。そして家族のこと。
 普段は口にできないことも、少女の前では話すことができた。
「……そっか。君は妹さんにお母さんをとられた気がして寂しいんやね」
「でも、俺はお兄ちゃんだから……」
 ――いつも、母に言われてるから。
「だから『我慢しなきゃダメ』なの? でも、そうすることって本当にいいことなのかな?」
 無理な我慢は長くは続かないし、いずれ破綻しちゃうよ、と続けた。破綻だなんて、少女は難しい言葉を使う。
「うん。でも」
 どうすればいいか分からない。俺は、いつでも良い子でいなくちゃ駄目なんだ。

「恵ちゃーん」
 不意に、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「そんなところに登って何をしよるんー? 早う帰らな、暗くなってしまうがね」
 声のするほうを見ると、恵子おばさんが息を切らしながら石段を上ってくるのが見えた。
「君の家族?」
「うん、伯母さん。迎えに来てくれたんだ」
 もう帰らなきゃ。そう言いながら、本当は帰りたくなかった。
 なぜだか分からないけれど、ここで別れると二度と会えないような気がした。
「ちょっと待って」
 恵子おばさんのもとへ向かおうとした俺を、少女が呼び止めた。
 少女は、あの黒い巾着袋の口紐を解いて何かを取り出し、
「手を出して」と言った。
 差し出した手の上にのせられたのは、鈍い光を放つ小さな金属の輪っか。
 文字のような模様が刻まれた銀の指輪だった。
「くれるの?」
「ううん。あげないよ」
 さらりと否定をする少女。そして囁くように言った。
「それは、君に――――」

「あんなところで何しよったん?」
 参道に下りると、恵子おばさんが呆れたように訊ねてきた。
「道に迷ったところを、あそこにいる女の子が助けてくれたんよ」
 像のある小高い場所を見上げて言う。少女はこっちを見下ろして手を振ってくれていた。
「女の子? どこに居るん?」
「ほら。剣を持った像の横にいる、黒い着物を着た子だよ。今、手を振ってるよ」
「黒い着物? そんな子がどこに居るって――」
 いつもにこやかな恵子おばさんが、怪訝そうに顔を歪める。
 そこで、気がついた。いや、本当は出会ったときにはすでに気づいていたのかもしれないけれど。
「あ、もう居なくなってたみたい」
 慌てて誤魔化した。恵子おばさんは腑に落ちない感じで俺の顔をしばらく見ていたが、何も言ってこなかった。
 ――危ない危ない。
 俺は、心の中で呟いた。


回想:夕暮れ

 帰り道。恵子おばさんと手を繋いで歩いた。
 西に傾いた太陽が、二人の影を長く伸ばしている。
 俺は、繋いでいないもう片方の手をポケットの中に入れた。
 指先に感じるひんやりとした金属の手触り。

 別れ際、少女は何て言ったのだろう。
 そういえば。名前、聞いてなかったな……

 日没まであとわずか。
 もうじき本当の夕闇が訪れる。
 そして、幻のような今日を、思い出へと変えるのだろう。
 でも大丈夫。
 銀の指輪が少女の思い出を確かなものとして証明してくれるから。


「――ということがあったんよ」
 俺は一旦言葉を切った。
「それで、あのとき出会った不思議な少女は、きっと八八さんだと思う……って、え? ちょ、お前ら!?」
 てっきり自分の話を聞いているものだと思っていた八八姉妹たちの姿が、そこにはない。
 後ろを振り返ると、自由気ままにくつろいだり談笑したりしている。
「え? あれ? 俺の話聞いてた!?」
 よくよく見れば、若干人数が減っている――というか、半数以上いなくなってるじゃないか!
「お? おお、話が終わったのか」
 そう言ったのは、たいさんだ。
「やっぱり聞いてなかったのかよっ!」
 俺の声に反応して、たいさんの隣に立つ龍泉(たつみ)の体が揺れる。そして、寝惚け眼の龍泉がゆっくりと顔を上げた。
「……」
「……」
 しばらく微動だにしなかった龍泉だが、突如覚醒したように「あっ」と小さく声を漏らした。
「べ、別に眠っていたわけではないぞ。目を閉じて聞いておったのだ」
「小学生並みの言い訳だな、おい」
 思わず深いため息がこぼれる。
 そのとき、誰かが白衣の袖がクイクイと引っ張った。蔵杏羅(くあら)だった。
「とっても素敵なお話だったよ!」
 蔵杏羅はそう言いながら、眩いほどキラキラした笑顔を見せる。
 おお、この子なら真面目に聞いててくれそう――
「とくに、爆音の中を恵クンが女の子を抱きかかえて、ビルからビルに飛び移りながら逃げるシーンは感動したかなっ!」
「そんな話してねえぇぇぇ!!」
 何それ、どこのハリウッド映画ですか!?
 期待した自分が馬鹿だった。というか、かなり恥ずかしい気がしてきた。
 そこにパンパンッと手を叩く音がした。
「みんな、注目ぅ」
 口をはさんだのは羅紗(らーしゃ)だ。
「取り敢えずぅ、予想に反して語ってくれた彼にぃ、みんな拍手~」
 パチパチパチパチ。
 羅紗のゆるい口調を合図に拍手する一同。
「……まさか君がのってくるとは思ってもいなかったよぉ」
 拍手が止むのを待ってから、羅紗が口を開いた。
「本当は『君が恥ずかしがって顔を真っ赤にする様子を見て楽しもう』って企画だったのにぃ、君が本気で話し始めるもんだから期待外れだったというかぁ」
 さらりと酷いことを言われた。
「あ~、でもぉ。臆面もなく過去を語れる君は称賛に値するかも」
 君みたいな子は珍しいよぉ、と付言する。
 よく分からないが、褒めてくれたようだ。少し照れくさい。
「『誰も聞いてないのに、語っちゃってるよコイツ。ププッ』みたいな空気が流れてる中で、よくそんな照れもせず語れるなぁって。おねーちゃん、びっくりみたいな?」
「一言多いわ!」


キャベツ畑/あゆみ・たいさん・羅紗

「ねぇねぇ、あゆたん」
「え? あゆたんってあたしのこと?」
 キャベツ畑の広がる小道。
 歩いている後ろで、羅紗とあゆみの声が聞こえる。羅紗以外の八八さんは姿を消したようだ。
「そうだよぉ、あゆたんはあゆたんだよぉ」
「うわわ、あだ名なんてつけられたの初めてやけん。なんかくすぐったい気がするよ」
「ところでぇ、なんで恵たんは落ち込んでんのぉ?」
 いつの間にか俺まで「恵たん」になっていた。
「おい、赤いの。少し黙れ」
 俺は振り返って一言言うと、また前を向いて歩き始めた。
「……おお。恵がいつになく汚い言葉遣いを……!」
 あゆみの声。どことなく楽しそうなのは気のせいだろうか。
「そんなに怒らなくてもいいと思うの。ちょっとした茶目っ気だと思って、許してほしいかも」
 羅紗はわびれる様子もなく言う。ついでに「『赤いの』じゃなくて『羅紗』って呼んでほしいかも」と付け加えた。
 うるせー。お前なんか「赤いの」で十分だ!と、口にはせず黙って歩いた。
 後ろの会話は続いている。
「むぅ、やっぱり怒ってるよね」
「気持ちに余裕がない男子はモテないと思うの」
「でもでも。大切な思い出を蔑(ないがし)ろにされたら誰だって腹が立つと思うんよ」
「別に誰も蔑ろにしてないと思うの。私は最初っから視(み)えてたからぁ、彼の口から聞かなくてもよかったっていうかぁ……同じ話を二度聞くのは退屈だっただけでぇ」
 ごにょごにょと弁明する羅紗。
「あやつは怒っているわけではないぞ」
 今まで黙ってポヨンポヨンしていたたいさんが、話しに加わる。
「あやつはただ、気恥ずかしさを誤魔化そうと、わざとあんな態度に出ているだけだ。いわば照れ隠しというやつよ」
「そなの?」
「ふぅん。……って、あれあれ~? 足早に歩いていたはずの恵たんが、地面にへたり込んだよぉ」
「少年よ、どうかしたのか?」
 三人――正確には二人と一匹――の視線が集まる。
「……別に…………」
「別にって言うわりには全然平気そうじゃないしぃ」
「恵、そんなとこで体育座りしちゃ他の通行人の邪魔かもだよ」
「だからといって、道の脇に避ければよいというものでもないぞ。少年よ」
「……」
「……」
「……」
 沈黙の後、たいさんが近寄ってきて言った。
「そう落ち込むでない、少年よ。恥ずかしいことを乗り越えて大人になっていくのだぞ」
 俯いたままの俺。
 その肩を、たいさんがポンポンと叩く。
「ああもう、何だよ」
 うんざりしながら顔を上げると、たいさんが至極真面目な表情をして言った。
「おぬし、出会った頃に比べて、随分と情緒が豊かになったな」
「うるせー」
「おぬしに『キング・オブ・ツッコミ(King of Tsukkomi)』の称号を授けてやろう」
「いらねー!」

「そろそろ立ち直ってはどうかね」
「……もう放っておいてください……」
 なんとか歩みを再開したものの、その足取りは重い。そんな俺に、たいさんは話しかけてきた。
「いつまで傘をさしておる。雨はとっくに上がったぞ」
「ああ、本当だ……」
 傘をたたんで、緩慢に鞄へとしまう。
「いい加減、顔を上げるんだ!」
 鞄を肩に掛け、よろよろと歩き出そうとしたとき、たいさんが体当たりをくらわせた。
「何だよ、一体。……ぉお!?」
 突如、目の前にとてつもなく大きな木造の門が現れた。
「おぬしが語ったり落ち込んだりつっこんだりしている間に、八番札所に到着したのだ」


熊谷寺/山門

 普明山(ふみょうざん)真光院(しんこういん)熊谷寺(くまだにじ)。
 弘仁六年(815年)、弘法大師・空海がこの地の閼於ヶ谷(あかがたに)で修行をしていたときのこと、紀州熊野権現が現れて「永く衆生済度の礎とせよ」とのお告げとともに一寸八分(約5.5センチメートル)の金の観音像を授けた。そこで空海は堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。
 草創以来、元禄(1688~1704年)のころまでに幾度か火災にあった説もあるが、消長変遷等については不明である。ただ、昭和二年(1927年)の火災では本堂とともに空海作と伝えられる本尊も焼失している。その後、本堂は昭和十五年(1940年)に再建が開始されたが戦争により中断、昭和四十六年(1971年)に全容が完成、新造された本尊の開眼法要が営まれた。

「えらい立派な門だな」  貞享四年(1687年)、長意和尚(ちょういわじょう)によって建立されたこの門は、和様と唐様(禅宗様)の折衷様式の高さ十三.二メートルの二重門で、木造の山門としては四国霊場最大であり、徳島県指定有形文化財に指定されている。
 安政六年(1859年)に大修理が施され、明治四十年にも屋根の吹き替えを中心とする修理が行われた。そして昭和五十一年から五十二年にかけて地盤から固め直す解体大修理が行われた。現存する大看板『普明山』の額は安政の大修理の時に寄贈されたもので、裏側には『蔓延元年(安政七年)七月二十日 再興願主 矢部惣左ェ門』等の墨書が残っている。
 また、二層目の天井・柱等には極彩色の天女等が描かれている。この天女の天井絵は直接見ることはできないが、お寺の駐車場前に縮尺約七分の一の大きさの写真が掲げられている。
 俺が門を見上げていると、向こう側からあゆみが走ってきた。
 姿を見ないと思ったら、ずっと先を行っていたようだ。
 あゆみは俺のもとまで来ると、乱れた呼吸を整えながら「はい」と手を差し出した。
「……?」
 その手には赤い風船が握られている。
「あそこの熊さんにもらったんよ」
 来た道を振り返ってあゆみが言う。
 あゆみの視線を追って目をやると、なるほど、確かに熊さんがいた。
 門から十数メートル離れた道端。色とりどりの風船と「納経所はこちら」のプラカードを持ってそれは立っていた。
 他の参拝者にお辞儀をしたり手を振ったり、はたまた写真撮影にも快く応じているようだった。なんともサービス精神な旺盛な熊さんである。
 それで、この風船をどうしろというのだろう。
「これあげるけん、元気出してね!」
 満面の笑みを向けるあゆみ。
「いらんし!」
「ふええ!?」
 間髪を容れず、つっこむ俺。
 それに驚いたあゆみは、風船の紐を握っていた手を放してしまった。
「ああっ、風船が」
「悪ぃ!」
 慌てて紐を掴もうと腕を伸ばしたが、指の間をすり抜けてしまった。ふわりふわりと昇っていく赤い風船。あっという間に山門の高さまで達してしまった。
 これはもう、諦めるしかない。そう思ったときだった。
「ボクに任せて!」
 俺とあゆみの間を、ビュンと何かが駆け抜けた。
 そして、「とおっ!」という掛け声とともに、地面を弾ける影。


熊谷寺/山門/熊さん

「く、熊さんが、跳んどる!」
「ナ、ナンダッテー!!」
 まるで翼が生えているのかと思うくらい軽やかに舞う体(ボディ)――逆光に浮かぶ姿は、無駄に格好がいい。無駄に。
 ――っていやいやいや。その跳躍力は流石におかしいだろう。山門の高さって十三.二メートルって言ってなかったか!?
 熊さんは風船の紐を掴むと、天女が舞い降りるように着地した。
「あ、ありがとう」
 風船を受け取りながら、お礼を述べるあゆみ。声がどもってるぞ。
 熊さんは何てことないように、いえいえと答える。
「どういたしまして。今度から気をつけるのにゃ!」
 そう言うと、熊さんは颯爽と立ち去った。
「……すごかったね」
 あゆみがポツリと呟いた。
「……ああ。すごいの一言で片づけていいものなのかは疑問だけどな」
 そういや、あいつ。
 最後に「にゃ」とか言わなかったっけ――熊なのに!


熊谷寺/多宝塔

 山門をくぐって五十メートルほど歩き公道を渡ると、熊谷寺の建物が見えてくる。
 一番最初に目にとまったのは弁天宮。安産の祈願所だそうだ。
 その向かいが駐車場になっていて、その敷地内に納経所がある。
 駐車場を先へ進むと、左側に多宝塔が建っている。山門も壮観だったが、この塔もまた威容を誇る。
 安永三年(1774年)、剛意和尚(ごういわじょう)の建立で、三間多宝塔で高さは二十.七メートル。内部は胎蔵界大日如来像を中心に、東に阿しゅく如来、南に宝生如来、西に無量寿如来、北に不空成就如来を祀っている。
 塔の上部、九輪(相輪)の先端に真鍮製の角棒が打ち込まれており、それには『奉建立多宝塔一基熊谷寺現住剛意安永三年申牛十二月二十三日 大工棟梁 美馬官左ェ門藤原安英 大阪南区瓦屋町 鋳物師 大谷兵助』の銘文が刻まれている。
 多宝塔としては四国地方最古にして最大であり、徳島県指定有形文化財だ。
「何か聞こえてきたよ」
「本当だ。お経……いや、歌みたいだな」
 仏歌らしいその声は、多宝塔の横に設置されているスピーカーから流れている。
 スピーカーからは黒いコードが延びていて、多宝塔の裏へと続いていた。俺はコードの先が気になって――なぜ気になったのか、我ながら不思議でしかたがないのだが、半ば引き寄せられるように塔の裏側を覗いた。
 そして、見てしまったのである。
 例の熊さんが、マイクを持って熱唱している姿を。そう、スピーカーから流れている歌声は、熊さんの生歌だったのだ!

 多宝塔の前を通り、石敷きの参道を奥へと進む。
 そして、石段を上がると中門が見えた。
 中門の建立年は慶安二年(1649年)で、これまた徳島県指定有形文化財だ。この門は二天門になっており、貞享四年(1687年)作の持国天と多聞天(毘沙門天)の二像が安置されている。


熊谷寺/本堂

 中門からさらに石段を上ると、ようやく本堂にたどり着いた。
 ここの本堂と本尊は、昭和二年(1927年)に火災に遭い全焼している。昭和十五年に本尊を安置する宮殿と拝殿が完成し、開眼供養が行われた。その後、戦争により工事が中断され、昭和四十五年に入ってやっと供養殿と本尊が完成した。
 ところで、熊谷寺の本尊は千手観世音菩薩である。
 千手観世音菩薩は、子年生まれの俺の「守り本尊」だ。八十八箇所の各お寺に本尊があるように、俺たちを個々に守護してくれる仏、すなわち「守り本尊」がいるのだとか。
 それは「八仏」「八尊」「守護仏」と呼ばれることもあり、次のように干支で決まっている。

   子     千手観音菩薩
   丑・寅   虚空蔵菩薩
   卯     文珠菩薩
   辰・巳   普賢菩薩
   午     勢至菩薩
   未・申   大日如来
   酉     不動明王
   戌・亥   阿弥陀如来

 全部、祖父の受け売りだけどね!

 本堂の少し手前に鐘楼堂。
 これも徳島県指定有形文化財で、寛文二年(1662年)長意和尚三十二歳の時の建立。当時の鐘楼堂は、四本柱に一般的な屋根という形だったが、文化六年(1809年)快塹和尚(かいざんわじょう)が長意和尚百回忌の記念事業として改築を行い、現在の立派な二層の鐘楼堂が完成した。
 当初の梵鐘は太平洋戦争末期に、武器弾薬等の材料として供出させられたため現存しない。現在の梵鐘は、昭和二十四年に新たに鋳造されたものである。
 近年、高速道路建設に伴い寺の麓一帯の発掘調査があり、偶然にも旧梵鐘の鋳型が発見されたそうだ。

 鐘楼堂正面の木の扉に、思わず覗きたくなるような隙間。それを気にしながら、すぐ横の三十六段の石階段を上ると大師堂がある。
 宝永四年(1707年)龍意和尚(りゅういわじょう)の代の建立で、平成十九年から二十年に解体修理が行われた。この時、弘法大師十大弟子の墨絵が発見され全国的に貴重な作品である事が判明した。
 安置されている弘法大師像――またまた徳島県有形文化財だ――は寄木造りの座像で、永享三年(1431年)の作である。

「あっ。こんなところに、熊さん発見」
 大師堂を拝んで、鐘楼堂まで戻ったところであゆみが言った。
 熊さん、今度は何をやらかしてくれるのだろう。少し期待しながら辺りを見回したが、どこにも熊さんらしい影はなかった。
「違う違う。小さい熊さんが居るんよ」 「小さい?」
 あゆみは手の平におさまるくらいの、ちりめんで作られた熊の人形を俺に見せた。
 確かに小さい熊さんだ。
「これ、どうしよっか?」
「納経のときに、お寺の人に渡せばいいんじゃね?」
「そうやね」
 俺たちは石段を下り、駐車場のところにある納経所へ向かった。


熊谷寺/参道/熊さん

 途中で大きい熊さんに出会った。
 熊さんは俺たちに手を振って、本堂のほうへ歩いていった。相変わらずのサービス精神である。
「――あの熊、怪しいわね」
「うわぁ、びっくりした」
 急に真後ろで声がした。そこに居たのは、難しい顔をした淡桜。
「怪しい?」
 あゆみが聞き返す。熊さん……跳ぶわ歌うわ、確かに怪しさ満載なのは否定できないけれど。
「あんたたち、あの熊の正体を暴きなさい」
 正体と言うのは、着ぐるみの中の人のことだろうか。
 納経所に行ったときに、ついでに聞いてみよう。


熊谷寺/クマ守り

「この熊の人形、本堂の前で拾ったんですけど」
 納経帳に印をもらったあと、納経所の人に拾った熊の人形を見せた。
 納経所の人――可愛らしいおばあさんだ――は、「どれどれ」と言ってそれを手に取る。
「あぁ、これはこのお寺のお守りやねぇ」
「この人形、お守りやったんや!」
 あゆみが驚いたように声をもらす。
「ほれ、そこに置いてあるよ」
 おばあさんはお守りが並べられた棚の中央を指差す。『クマ守り』と札のついた籠の中に、色とりどりの小さい熊さん。
「わあ、いっぱいおる」
 熊谷寺の熊にちなんだお守り。一体一体使われている布が違うので、それぞれ別の色と模様をしている。サイズは大小の二種類。
「あたしも一個買おうっと」
 あゆみはかがんで、籠の中に熊さんと睨めっこを始めた。

「それで、その拾った熊はこちらに預けたんでいいんですか?」
 俺はあゆみを横目に、おばあさんに声をかけた。
「お兄ちゃんが持ってきたこれ、随分と汚れているだろう?」
 言われてみれば、かなり黒く汚れている。ところどころ糸がほつれているのも分かる。
「きっと誰かの厄をうけて、お寺に戻ってきたんだろうねぇ」
 熊の形をしたお守り――クマ守り。身につけていると何か悪いことが起こるときに、身代わりになってくれる。そして、身代わりになってくれた時にはひもが切れ、どこかへ去っていくのだとか。
「これはお寺で供養しておくよ」と、おばあさん。
 その側らで、あゆみが勢いよく立ち上がった。
「よし、君に決めた!」
 どっかで聞いたことのある台詞だ。その手にはピンク色のクマ守りが握られていた。
「名前、何にしようかな」
 クマ守りを小銭入れに付けてご機嫌のあゆみ。腕を組んで真剣に名前を考えている。
「熊のお守りだから……くままもり、くまもり……」
 しばらくして、何か思いついたようだ。
「そうだ! 『くまモン』にしよう!」
 うーん。それは某県の人気ご当地キャラだなぁ。

 おっと、あゆみに気をとられて淡桜の指令を忘れるところだった。
 俺はおばあさんに、例の熊さんについて訊ねた。
「あぁ、お寺案内のバイトの……住職の知り合いだとか言っていたけど、そういや、素顔を見たことがないねぇ」
 おばあさんは通りかかった作務衣姿の青年を呼び止めて、熊さんについて聞いた。青年も、中の人は見たことがないと言う。
 他のお寺の人にも聞いてみたが、答えはみな同じだった。
「気にしたことなかったけど、そういえば見たことがないね」
「住職の知人だって聞いたから、別に不審に思わなかったし」
 誰も気にしたことがなかったらしい。言われて初めて気がついた、という感じだ。
 果たして。あの熊さんの素性を、誰一人として気にしないということが在り得るのだろうか。あんなにも変なヤツなのに。


熊谷寺/納経所前/淡桜・蔵杏羅・黒鐘

「ますます怪しいわね」
 お寺の人が去った後、淡桜が再び姿を現した。
「妹たち、出てきなさい」
 淡桜の招集に、ぞろぞろと姿を現す八八姉妹。
「あら、癒安と羅紗が居ないようだけど?」
「癒安ちゃんは、自分のお寺の宿坊でお客さんの呼び込みをしてるみたいだよっ」
「羅紗はヒト相手に恋占いの最中だって」
 蔵杏羅と黒鐘がそれぞれ答える。
「あ、そう」
 淡桜のこめかみと握った拳に青筋が浮かぶ。
「その二人は後でお仕置きをするとして……、あんたたちは風船を持った熊を探しなさい」
「ほう、熊狩りとな」
 龍泉が物騒なことを言う。狩っちゃ駄目だろう……。
「見つけたら、皮を剥いて中身を縛り上げて連れてきなさい」
 さらに物騒なことを口にする長女。
 かくして、八八さん長女・淡桜率いる熊さん捕縛隊が結成された。……大日寺でもあったな、こんな展開。

 八八姉妹が熊さんを探して飛び回っている間、俺は淡桜とともに多宝塔の礎に腰かけて休んでいた。
 不意に聞こえる電子音。
 淡桜は無線機を取り出すと、
「こちら<熊さん捕縛本部>、首尾はいかがかしら? どうぞ」と言った。
 その無線機はどっから調達したんだ!?
『こちら蔵杏羅だよっ』
 それに応答する蔵杏羅の声。
『二葉ちゃんが捜索を放棄して木と戯れてるよ。どうぞ』
「――そう。埋めといて」
 ブツリと無線を切る淡桜。
 しばらくして、また呼び出し音が鳴った。
『こちら龍泉。本堂前で目標を確認。追尾を開始する』
「了解」
 ブツリ。切れたかと思うと、またすぐに音が鳴った。
『目標、鐘楼堂内へ移動した模様。捕縛のため、応援を要請する。どうぞ』
「了解。――こちら<熊さん捕縛本部>。全隊員に告ぐ。直ちに鐘楼堂へ向かい、熊さんを捕獲せよ」
 みんな、ノリノリだな……。
 姉妹たちのやり取りを、部外者面で眺めていた俺に淡桜が言う。
「何、ぼけっとしてるのよ。あんたも行きなさい」


熊谷寺/鐘楼堂前/淡桜

 鐘楼堂を中心にして、八八姉妹が周りを取り囲む。なんとも不思議な光景だ。
「……お堂から出てくる気配がないわね」
 淡桜は呟くと、振り返って俺の顔を見た。
「恵。あんた、中の様子を見てきなさい」
「そう言われるとは思ったけど、何で俺なのさ」
「なによ。危険かもしれないのに、か弱い女の子に行かせるわけ?」
 ……俺より、あなたたちのほうが確実に強いと思うが。そう思いながらも、お堂に向かう俺。

 木の扉の隙間から、中の様子を覗う。

 お堂の中は殺風景で、上部に向かう階段だけがあった。
 そんな薄暗い部屋の真ん中に、熊さんはいた。
 のぞきをしているようで何とも居た堪れない気分だが、淡桜から帰還許可が下りるまでは黙って熊さんの観察を続けることにした。
 熊さんは寝そべったり起き上がったりを繰り返している。どうやら、ここは熊さんの休憩所のようだ。
 しばらくくつろいでいる様子の熊さんだったが、急に立ち上がると、顔に手を当てて上に引っ張った。
 スポン、と抜ける被り物。
 顔を出したのは、妙にキラキラした女の子。蔵杏羅とはまたタイプが違う。
 そして。
 お約束のごとく、その女の子と目が合った。


熊谷寺/鐘楼堂/熊さんの中の人

つづく


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