第十一話<藤井寺>

文章・絵:SHIZUMU(OpenDesign) 制作:OpenDesign


 俺は後悔していた。
『ふーん。あんたは「遍路ころがし」って呼ばれるくらい険しくて人里離れた山道を、女の子一人に歩かせるんだ』
 そんな挑発ともとれる淡桜(あわざくら)の口車に乗せられて、つい勢いで十二番札所まで付き合うと言ってしまったことを。


遍路ころがし(焼山寺みち)

 遍路ころがし。
 第十一番札所・藤井寺(ふじいでら)から第十二番札所・焼山寺(しょうさんじ)までの遍路道は「お遍路さんが転げ落ちるくらい厳しい道」であることから、そのような呼び名がついている。
 もっとも、遍路ころがしと称される場所は他にもいくつかあって、順打ちのお遍路さんが最初に体験する難所が焼山寺までの道のりというわけだ。
 そういえば、三番札所の金泉寺(こんせんじ)で出会ったお寺マスターも言っていたじゃないか。
『藤井寺と焼山寺の間は約十三キロメートル。歩きだと七時間程かかるからな、時間に余裕をもって準備を万全にしてから出発しろよ。雨が降ったときは日程を変えるほうが無難だからな』
 お寺マスター……考えてみれば、マスターと話をしたのって二日前のことなんだよな。ああ、そもそも巡礼を始めたのが二日前だっけ。
 随分と長い時間が過ぎたように感じるけれど、そうか、たったの二日なんだ。
 短期間にいろいろなことがありすぎて、時間の感覚がおかしくなってる――っと、いかんいかん。思考が脱線するところだった。
 とにかく、だ。
 藤井寺から焼山寺までの道のりは厳しい。
 そのことは十分理解した。実際に歩くときはそれなりの心構えで挑もうと思っている。
 だけど。
 その手前、十番札所の切幡寺(きりはたじ)に辿り着くまでが、こんなにも大変だなんて聞いてないぞ……!


切幡寺/333段の石段

 山の麓(ふもと)から切幡寺の本堂まで約八百メートル。三百三十三段の石段と、さらに女厄坂・男厄坂を上らないといけないとか。
 山門をくぐったときに、たいさんが何やらいろいろ言っていた気もするが、ぶっちゃけ何だって構わない。
 それより何より、足が痛くて仕方がなかった。
 実は法輪寺を出発した時点で、すでに足に違和感を感じていた。
 平坦な道を歩いている間は問題なかったのだが、階段という上下運動になった途端、その違和感は明らかな痛みとなって襲いかかってきたのだ。
 運動をすることで生じる疲労物質『乳酸』が筋肉中の毛細血管に残存し、これが筋肉への酸素供給を阻害して鈍痛を引き起こす遅発性筋肉痛。英名Delayed Onset Muscle Soreness、略してDOMS。
 ……とか、無駄に格好よく言ってみたが、つまるところ運動不足が原因の筋肉痛である。
 日頃の自分の生活――週に二、三日のバイトの日以外は、授業終了の合図と同時に寮の自室へと直行し、終日、小説を読んで過ごしていた――を思い返すと、当然と言えば当然の報いなのかもしれない。
 ただ、幼い頃から恵八じいちゃんのみかん山で遊んでいたし、高校に入ってからも長期休暇中は畑の手伝いをしていた。だから体力にはそこそこ自信があったのだが。
 そうか、あの程度の運動量じゃ全然足りないということか。
「どうした少年よ。歩くペースが落ちているぞ」
 凹んでいる俺に追い打ちをかけるたいさん。
 やつは丸い体を伸縮させて弾むように石段を上っていく。「ぽよんぽよん」と効果音が聞こえてきそうなその動きは、哺乳動物では考えられない歩行形態だ。身体の構造は、一体どうなっているというのだ。
「ほれほれ、急がないと納経所が閉まってしまうぞ」
 たいさんは先行しては振り返り、俺との距離を計りながら前進する。そんな余裕ぶった態度、表情、声の全てがいちいち癇に障った。
「うむ。おぬしは体調が悪いと機嫌も悪くなるようだな」
「うっせ」
 そして何より。
 人の心を読んでいるかのような台詞が不愉快だった。


切幡寺/境内&納経所・はたきり観音・織刃

 陽が西に傾いてきた。時計はもうじき十七時を告げようとしている。
 そんなギリギリの時間に、俺とたいさんは納経所へ滑り込んだ。
 納経所の人はすでに片付けを始めていたが、俺たちの姿を見つけると労いの言葉で迎えてくれた。そして、連れが後から来るのでもう暫く閉めるのを待ってほしいという頼みも快く了承してくれた。
「頭に大きなリボンをつけた女の子やね。わかったわかった。その子が来るまで、兄ちゃんは大塔を見てきなよ」
「大塔……ですか?」
 納経所のおじさんに俺は聞き返す。
「重要文化財に指定されている立派な塔で……まあ、説明するより実際に見た方が早いわな。本堂の横に階段があって、そこを上ったらすぐに分かるさ」
「はあ……」
 正直、もう一歩も動きたくなかった。
 でも折角勧めてくれたのだし、一応見ておくことにしよう。
 あ。その前に本堂と大師堂を参拝しなければ。俺はおじさんにお礼を言って、納経所から外に出た。

 本堂と大師堂を順にまわって、それぞれローソク、線香、お賽銭、そしてお経をあげる。
 いつもあゆみに任せていたので、一連の手順を一人でしたのは今回が初めてだった。
 参拝を終えて時計を見ると、時刻は十八時。あゆみはまだ来ない。
 もう一度納経所に戻って謝ると、おじさんは笑って「気にするな」と言ってくれた。良い人だ。
 それにしても、あゆみは大丈夫だろうか。迎えに行ったほうがいいかもしれない。でも、取り込み中だったら気まずいよな……。
 考えながら境内をぐるぐる回る。
 そこでふと、俺は何かに引きつけられるように、境内の奥へと視線をやった。

 本堂と大師堂の間を少し入った場所、そこに女性の姿をした像が立っていた。
 はたきり観音。
 右手に鋏(はさみ)を、左手に布を持ったこの像は、ここに来る途中、たいさんが紙芝居で話してくれた『機織の乙女が即身成仏した伝説』の観音像だ。
 像の側らには、平成九年の宮中歌会始に寄せた歌碑が建てられている。
『この寺の 由来におわす 御仏は はたきり観音 姿うるわし  当山主・智叡』
 ちなみに、このときの御題は「姿」だったそうだ。
「……ん?」
 観音像の足元に、ちらっと人影が見えたような?
 もう一度よく目を凝らすと、気のせいではなく確かに誰か居る。
 陽が落ちてきたのではっきりとは見えないが、着物姿の女の子だというのは分かった。そして、その手には大きな鋏が握られている。……大きな鋏、だと?
 君子危うきに近寄らず。あの女の子が八八さんだったとしても、はたまた普通の人間だったとしても、どちらにしてもあんな馬鹿でかい刃物を抱えた不審人物に、わざわざ近づくこともないだろう。
「あー、うん。ここは見ていないフリをしよう」
 俺は誰かに聞かせるわけでもなく呟いて、その場から離れることにした。
 立ち去る背中を、女の子がじっと見ていたことに気付かずに。

「おお、少年。どこに消えたのかと思ったぞ。早く大塔を見に行こうではないか」
 本堂の前まで戻ると、たいさんが声をかけてきた。
 あゆみはまだ来ていない。
 仕方がない、時間潰しに見に行くか。
 俺はたいさんの後をついて行くことにした。


切幡寺/大塔

 本堂脇にある階段を数段上ると不動堂があり、その前を通り過ぎて上へと向かう。
 すると、目の前に想像以上に立派な二重塔が姿を現した。
 この大塔は、慶長十二年(1607年)に徳川家康の勧めで豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うために大坂住吉大社の神宮寺に建立したものである。
 明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)により廃寺となったため、明治六年(1874年)に移築された。初層も二層も方形という形式で現存している二重塔は、国内において当塔のみであり、国指定重要文化財に指定されている。
 納経所のおじさんが勧めるのも肯(うなず)けるほど、壮麗な塔だった。
 そして、大塔の前からは麓の町が見渡せた。
「……綺麗だ」
 茜色から夕闇へと染め変えられていく街並みを見下ろして、俺はぽつりと呟いた。その隣でたいさんが「うむ」と頷く。
 暫く眺めた後、たいさんが白衣の裾を引いてきた。
「陽が落ちきる前に上に向かうぞ。この先に奥之院の八祖大師堂があるのだ」
「うへ。まだ上があるんか」
 もう勘弁してくれと、俺はその場に座り込む。流石に限界だ。
「若い者が情けない」
「なんとでも言ってくれ。これ以上は一歩も動けんぞ」
 呆れ声のたいさんにそう答えながら、俺はそのまま体を倒した。
「ちぇ。おぬしに八祖大師を紹介してやろうと思ったのに」
 たいさんにしては珍しく、拗ねたように舌を打った。
「あのさ。その『はっそだいし』って、そもそも何なん?」
 俺は倒した上半身をもう一度起こして聞いてみた。
 たいさんの目が「よくぞ聞いてくれた!」と言わんばかりに輝く。
「八祖大師は、真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった八人の祖師のことで、伝持の八祖といわれるぞ」
「はあ」
 気の利いた相づちは打てなかったが、たいさんは気にした様子もなく説明を続ける。
 密教がインドで起こり、中国を経て、日本で独立した宗派として真言宗が誕生するまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承がある。
 大塔から八十メートルほど上ったところにある奥之院・八祖大師堂にはこの八人の祖師が祀られているのだそうだ。
「八祖大師の八人目が、言わずもがな弘法大師・空海というわけだ」
「ふーん」
「おぬし、空海という人物についてどれくらい知っておるのだ? いや、何、あまり知らんと言っても恥じることはないぞ。後世に残した業績と伝説があまりにも数多くて、且つ偉大すぎて、それゆえ人物像が霞んでしまうことは、歴史上の大物においてはよくあることだ。ま、それが空海のミステリアスでナイスガイな雰囲気を醸し出しているわけなのだが」
 たいさんは得意げにフフンと鼻を鳴らす。
 言ってる意味はよく分からんが、ベタベタに誉めちぎっていることだけは伝わった。思えば、たいさんの紙芝居で登場するお大師さんは噴き出すぐらい美青年チックに描かれている。どんだけお大師さんが好きなんだよ。
「謎が多く神秘的な空海も魅力ではあるが、少しぐらいは知りたいと思うのが人の情。どれどれ、儂が空海について少し教えてやろう」
「いや、いいよ……」
「空海の俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)と言ってな、讃岐国多度郡屏風浦で生まれて――」
「あれ? 俺、いいって言ったよね!?」
 もしかして「話をしても良い」と解釈したのか、このタヌキ。
 いや、俺がなんて答えようと、たいさんは最初から説明を続けるつもりだったのだろう。声の調子を乱すことなく淡々と話し続けている。
 空海は宝亀五年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦――現在の香川県善通寺市――で生まれ、幼名は真魚という。真言宗の伝承では空海の誕生日を六月十五日としているが、これは中国密教の大成者である不空三蔵の入滅の日であり、空海が不空の生まれ変わりとする伝承によるもので、正確な誕生日は分かっていない。  そして延暦八年(789年)、十五歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について、論語、孝経、史伝、文章などを学んだ――……  ……
 …………
 …………………………、……はっ!
 いかんいかん。危うく意識が飛ぶところだった。
 俺は頭を思いっきり振った。けれど、この眠気はどうにも抑えきれそうにない。
 座ったことで筋肉の緊張が解け、さらにたいさんの声が子守唄のように上手く作用し、意識がぐるぐるふわふわ……ああ、駄目だ……このまま眠ってし、まって……は…………ぐぅ。
 睡魔に誘われるまま、身を委ねようとした、そのとき。

――ひやり

 喉元に伝わる金属の感触。
「な、ななな?」
 それが刃物だと気付いた瞬間、眠気は一気に吹っ飛んだ。そして、それと一緒に血の気も引いた。
 目の前に立っていたのは、はたきり観音像のところで見かけた例の女の子。
 俺に大鋏を突きつけたままその子が笑う。
「アナタ……空サマノ話題ノ途中デ居眠リダナンテ、イイ度胸シテルジャナイデスカ……!」
 心なしか台詞がカタコトに聞こえるのだが……。
 視線は鋭く冷たいのだが、口元が笑みを浮かべて歪んでいる。
 そのアンバランスさが、一層恐怖心を駆り立てた。やっぱりこの子はヤバかった……!
「これこれ、織刃(おるは)よ。八八たるもの、物騒な物を他人に向けてはいかんぞ。少年が怯えて縮こまってしまっているではないか」
 たいさんが仲裁に入る。
「……」
 女の子は俺とたいさんの顔を交互に見比べて、少し考えてから鋏を下ろした。
「うん。空さまを蔑ろにするヒトは許せないけど、空さまを称えるタヌキさんは好き。だから、タヌキさんに免じて今回だけは許してあげる」
 そう言ってにっこりと笑う女の子。その笑顔は純粋に可愛らしい。
 と思ったが、女の子の顔がふっと真顔に変わる。
「あー! 違う!! あなたには、もう一つ許せないことがあったんだ!」
「はいぃ!?」
 ビシッと今度は鋏ではなく人差し指を俺に突き付けた。
 再び俺ピンチ。しかし意味が分からない。一体俺の何に不満があるのだというのだ。
「さっき私に気づいたのに、無視して行っちゃったでしょ」
「えっと? ――ああ、うん」
 さっき……はたきり観音像でのことだろうか。
 成程、俺が女の子を見かけたときに、逆に相手にも見られていたというわけだ。でも、それが何だっていうのだろう。
「私の姿が視えてるようだったから、今度こそ空さまのお使いだと思って期待したのに、あなたはさっさと行っちゃうから」
 女の子はそこで一旦言葉を区切った。
「また期待を裏切られたんだって分かって、とっっっっっても悲しかったんだからね!!」
「知らんがな!」
 思わず突っ込んでしまった。


切幡寺/大塔(織刃&たいさん)

「――ところで、さっきタヌキさんが私のこと織刃って呼んだけど、なんで名前を知ってるの? しかも、私の正体まで知ってるみたいだし」
 落ち着いた頃、女の子がそんな疑問を口にした。
 そういえばそうだ。たいさんはごく自然に女の子の名前を呼んだ。こんな場面、以前にもなかったっけ。
 たいさんは些か不満そうに顔を曇らせる。
「なんだ、織刃ですら気付かんというのか。この儂のしょ――」
「恵ー! たいさーん!!」
 たいさんの声は、突然の呼び声にかき消された。
 あゆみだ。
「よ。スカートはもう大丈夫なのか?」
「うん! 縫うのに時間がかかったけど、ほら、すっかり元通りだよ」
 あゆみはスカートの裾を持ち上げて見せた。
「あと、納経もすませたけん。納経所の人に頼んでくれてて助かったよ、ありがとうね」
 そこまで言ったところで、鋏少女・織刃に気がついたようだ。
「あっ、さっきの!」
 あゆみは織刃の手をとると、上下にぶんぶん振った。
「さっきは本当にありがとう。えっと、織刃さんって言うんやね。あ、やっぱり八八さんやったんや! あたしはあゆみって言うけん、よろしくね!」
「あゆみちゃんね。よろしくー」
 どうやら俺たちよりも先に、二人は出会っていたようだ。
 自己紹介を交わすあゆみを見ながら、俺は改めて考えていた。あゆみは本当に、一人でも大丈夫なのだと。
 あ。そういえば、たいさんの話が途切れたままだ。何の話をしていたっけ。
 ……ま、いっか。

「さてと、今夜はどこで休む?」
 あゆみが言った。
 織刃からお札を貰って、古文書に十個目の光が宿った頃には、辺りは薄暗くなっていた。
 時刻は十九時を少しまわったところ。
「ここで休むのと、次のお寺の近くまで行って休むの、恵はどっちがいいかな?」
「できればここで休みたいけど」
 足が痛いし。
「了解。んじゃ、今夜は大塔の縁の下にお邪魔しよっか」
「……はい?」
 今、なんて?
「縁の下って、屋外だよね?」
「うん。もちろん」
「虫とかどうするん?」
「どうするんって、別にどうもせんけど」
 手で追い払えばいいやんと、あっさり答えるあゆみ。どんだけ逞しいんだよ。
「あれ? 恵ってお部屋じゃないと眠れん人なん?」
「……」
「むぅ。困ったねー……」
 無言を肯定と受け取って、あゆみが考えあぐねる。
「はい。はーい」
 俺とあゆみのやり取りを見ていた織刃が、すっと手を挙げる。
「私にいい考えがあるから、二人は長くて丈夫な木の枝を拾ってきて」
「木の枝?」
 織刃が何を考えているか見当もつかないが、取り敢えず言われた通り枝を探してくることにしよう。

 切幡寺が山の中に建っているおかげで、枝は簡単に集まった。
 枝を抱えて戻ると、織刃は黒い布を持って待っていた。
「おかえりー。じゃ、みんなで組み立てよう」 「組み立てる?」  やはり意味の分からないまま、織刃の指示通り動くあゆみと俺。

 程なくして、二つ小さなテントが完成した。
 テントを作るとか、そんな発想はなかった。この子、天才じゃね!?
 木の枝を骨組みにして、それを布で覆うという簡素なものだが、縁の下に潜り込むことを思えば、数十倍、いや数百倍マシだ。
「この布は防音と遮光はもちろん、虫を寄せ付けない植物を編み込んだ防虫機能も備えている特別製だよ」
 織刃はえっへんと胸を張る。
「でも、たいさん。境内に勝手にテントを張るってどうなん?」
「アウトだと思うぞ」
「ですよねー」
 境内にテントを張ることを禁ずる、なんて注意書きは見たことないけれど。まあ、普通は駄目だろうよ。
「ふっふっふっ。それについては心配無用やけん」
 今度はあゆみが名乗りを上げた。
「テントに『不可視』のお札を貼ると……ほら、誰の目にも触れんやろ」
 どうだ、とあゆみ。
 見つからなければ大丈夫って考えは賛同できかねるけれど、今回は許してもらおう。
 こうして。
 俺は少し窮屈だけど安心できる寝床を入れたのだった。

 真っ暗な空間。
 布の遮光性が想像以上に優秀で、テントの中には一片の光すら届かない。
 そんな闇の中で、俺は一人呟いた。
「明日、終わるのか」
 明日の早朝、第十一番札所・藤井寺に立ち寄ってから、いよいよ「遍路ころがし」を通って第十二番札所・焼山寺へと向かう。
 そして焼山寺に到着した時点で、俺の短い巡礼の旅は幕を閉じる。
 感慨なんてない。
 そもそも俺が始めたくて始めた旅でもないし。
 手伝ってと言われて、断り切れなくて、流されるままついてきただけなのだから。
 だけど、その理由がなくなった。
 理由を持たない俺が、このまま旅を続けてもいいのだろうか。
 果たして、意味はあるのだろうか。

――ズキン。身体に鈍い痛みが走った。

 法輪寺で出会った孝之の姿が浮かんだ。
 金泉寺で出会ったお寺マスターの姿が浮かんだ。
 大日寺で出会った気難しいけれど可愛らしいお婆さんの姿が浮かんだ。
 挨拶を交わしたり、すれ違ったりしたお遍路さんたちの姿が浮かんで、消えた。

――ズキン。それは足の痛みなのか、どこか別の痛みなのか。

 あの人たちには巡礼をする理由がある。目的がある。
 だけど、俺にはそれがない。
 だから終わりにする。それだけのこと。

――ズキン、ズキン。足ではない、どこかが軋んだ。

「明日、終わる……」
 俺はもう一度呟いた。
 そして目蓋を閉じる。
 疲れ切った身体は、その暗闇を簡単に受け入れてくれた。

「恵、おっはよー!」
 あゆみの声とともに、眩しい光が視界に広がる。
「……………………おはよう。相変わらず元気やな」
 のそのそと起き上がってテントを出た。
「少年よ、やっと起きたか」
「手水場で顔を洗ってくるといいよ。目が覚めるけん」
 あゆみとたいさんは、すでに出発準備を終えているようだ。
 急いでテントを片付ける。
 この手作りテント、思いつきで作ったにしては本当に高性能だった。外の音も気にならなかったし、蚊に起こされることもなかった。これならどこででも野宿ができそうだ。
 まあ、俺が使うことはないだろうけど。


川島潜水橋

 七月二十四日。
 巡礼三日目にして、俺が旅を終える日だ。

 藤井寺に向けて歩いた。
 歩いている途中、何を考えていたのかは思い出せない。
 あゆみやたいさん、入れ替わり姿を現す八八さんたちと交わした言葉も、何一つ覚えていない。
 何かを一生懸命考えていたのかもしれないし、何も考えていなかったのかもしれない。
 そんなぼんやりとした意識で、ただひたすら歩いた。
 そこで一つ気付いたことは、昨日あれほど痛かった足が、寝て起きると案外平気に動くということ。不思議やね、人の身体って。

 徳島の北部を貫流している四国最大の吉野川。
 川島潜水橋を渡る。
 潜水橋とは、大雨などで川が増水したとき、その水が橋の上を越えて流れるように作られた橋のことだ。水の抵抗を受けないように欄干がないか、あってもかなり低くなっている。沈下橋と言ったほうが馴染みが深いかもしれない。
 そして、橋を渡った先にはお遍路さん用の休憩所があり、そこには『藤井寺』の標識もあった。
 休憩所を通り過ぎ暫く歩いた先、山の麓にお寺の門を見つけた。


藤井寺/山門

 金剛山(こんごうざん)一条院(いちじょういん)藤井寺(ふじいでら)。
 弘仁六年(815年)に弘法大師・空海がこの地で自らと衆生の厄を祓い、薬師如来像を刻んで堂宇を建立した。そして山へ二町(約218メートル)入ったところの八畳岩に「金剛不壊」といわれる護摩壇を築き、七日間の修法を行ったのが開創であると伝えられている。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから「藤井寺」と号したという。
 中世以降、真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展したが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。延宝二年(1674年)に臨済宗の南山国師が再興したことから臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍である。
 本尊は「厄除け薬師」として親しまれており、国の重要文化財に指定されている。

「藤井寺に関する豆知識を一つ教えてやろう」
 たいさんが言った。
「四国八十八箇所霊場の中で、寺号の『寺』を『じ』ではなく『てら』と読むのは、ここ藤井寺だけだぞ」
「え? そうなん?」
 あゆみは懐からガイド本を取り出してページをめくる。
「本当だ! すごーい」
「たいさん、このお寺だけ『てら』って読むの、何か理由があるん?」
 俺の質問に、たいさんは一言で答える。
「そんなもんは知らん」
 しかも即答だった。

「あれ……?」
 門をくぐった瞬間、ぞくりと悪寒を感じた。
 テントで寝たせいで、夏風邪をひいてしまったのかもしれない。俺は気にしないことにして境内へと足を運んだ。


藤井寺/本堂&本堂天井画「雲龍」・大師堂・境内

 そしていつものように、まずは本堂へと向かう。
 本堂の天井には「雲龍」が描かれており、訪れたお遍路さんたちを圧倒する。
 この天井画は、本堂を全面改修した昭和五十二年に描かれたもので、地元出身の林雲渓(はやしうんけい)――徳島県麻植郡鴨島町(現吉野川市)出身の南画家であり日本画家。本名は林勇。昭和五十九年に南画に優れた功績を挙げた第一人者として徳島県文化賞を受賞した――の作だ。
 三十畳ほどの大きさがあり、繊細な線と睨みをきかせた迫力のある顔は、まるで本尊の薬師如来を守っているかのように見える。
 本堂の次は大師堂へ。その後、納経所で印をいただき参拝は完了した。

 そして恒例の境内探索開始。
 まずは少し奥に位置する白龍弁財天堂を見に行くことにした。
 白龍弁財天は八本の手を持つ弁財天で、その手には蔵の鍵や弓矢など様々なものを持っている。
「白龍弁財天さまは金運や武術の上達、芸事の上達などの願いごとを叶えてくれるんやっ――クシュン!」
 弁財天の説明をしているところで、あゆみがくしゃみを始めた。五回繰り返したところで、ようやく治まったようだ。
「ふえぇ、やっと止まった……」
「大丈夫か?」
「うん。でも、なんか寒くない? あたしだけなんかな」
「いや、相当寒いと思うぞ。風景も心なしか灰色に見えるし」
 門をくぐったときから寒気を感じていたが、あゆみたちが普通にしているので黙っていただけだ。
 そういえば、たいさんと八八さん姉妹の姿が見当たらない。どこに行ったのだろう。
「淡桜さん、居る?」
 あゆみが八八さん長女の名前を呼ぶ。
 何度か呼びかけたところで、ようやく声だけ返ってきた。
『…………何よ?』
 不機嫌そうな淡桜の声。眠っていたところを起こしてしまったのかもしれない。
『出てこいって言われてもお断りだからね。私、寒いの嫌いなの。じゃあね』
 淡桜は、こっちの用件なんかお構いなしに一方的に言い放った。そして、それきりいくら呼びかけても返事が戻ってくることはなかった。
「あー……まあ、取り敢えず。確かめたかったことは聞けたし、よしとするか」
「……うん、そうやね」
 相変わらずの淡桜節に圧倒されながらも、俺たちは顔を見合わせて頷く。
「このお寺が異様に寒いってことに間違いはないようだな」
「うん。でも、ちょっとおかしいよ。ほら、周りのお遍路さんたちを見てみて」
 俺たち以外の参拝者は四組。
 その全員が半袖姿だったが、寒そうな素振りを見せる人は誰もいない。
 タオルで汗を拭う人もいれば、服の裾をパタパタさせている人もいる。それは夏の陽射しの中でよく見る行動。
「えっと……どういうことだ?」
 この異常な寒さを感じているのは俺たちだけで、本当は何も変わっていないというのか。
「何も変わっていないわけじゃないぞ。異常を異常として認識できるのが、儂らだけだということだ」
「あー! たいさん! もう、どこに行っとったんよ」
 ひょっこりと出てきたたいさんを、あゆみは掴んで境内の隅へと連れて行った。
「――ら、この――はたいさん――――じゃないの?」
「儂――てっきり、おぬしが――――」
 距離が離れていて、話の内容を全部聞き取ることはできないが、たいさんのせいだとか、あゆみがどうだとか、お互いがお互いを責めているようで、少し心配だったりする。
 しばらく言い合った後、あゆみとたいさんは一緒に戻ってきた。
「お前ら、喧嘩してたわけじゃないんだよな?」
 戻ってきた早々俺がたずねると、二人はきょとんとした表情を浮かべた。
「なぜ喧嘩をするのだ。儂らが話していたのはこの異常のことだ。それで、話し合った結果だが――」
 心して聞けよ、と言葉を溜(た)める。
「儂らにしか視えない異常、これは結界やその守り人に関すること以外考えられない」
「そりゃそうだろ」
 たいさんの思わせぶりな発言を俺はさらりと受け流す。
「な、なんだと! おぬしにはこの原因が分かっているというのか!」
「いや、原因までは分からんけど」
「なんで恵はそんなに平然としてられるん!?」
「別に平然とはしてないけど」
 ものっすごく寒くて死にそうやし。
「でもこれってさ、じいちゃんの畑で起きたやつと同じ現象やろ? 呻り声みたいなのは聞こえんけど」
 そう言った瞬間、あゆみとたいさんが固まった。
 そして、見ているこっちが不安になるほど動揺しはじめた。
「あ、ああ……そんなことも、あった……な」
「う、うん。あ、でも、あれなんよ。あれよりちょっとだけ、今のほうがマズイかな、みたいな」
「ま、まあ、そうゆうことだ。分かったかね、少年よ」
 結局どういうことなんだ、と俺が突っ込む前に、あゆみたちは「作戦タイム!」とか言いながら境内の隅へと走っていった。
 作戦って何さ。


藤井寺/白龍弁財天堂(あゆみ&たいさん&二葉)

 またコソコソ話しをしている。さっきより声を抑えているようで何を話しているのかは全く聞こえなかった。
 そして、作戦タイムとやらを終えて走って戻ってくるあゆみとたいさん。
「取り敢えず、少年」
 たいさんが言う。落ち着きを取り戻したようだ。
「今はまだ儂らにしか視えないが、この状態がずっと続けば必ず他にも影響が出るはずなのだ」
 たいさんの言葉に、あゆみが頷く。
「この現象が“藤井寺だけ”の問題なんか、それとも“結界全体の異変の顕れ”なんかが気がかりやけど……どっちにしても、放っておくわけにはいかんと思うんよ」
 あゆみがそう言ったとき、懐にしまってある古文書が瞬いた。
「姉さまから伝言を言付かって参りましたよ。くすくす」
 ふわり、と二葉が姿を現した。
「どうやらこれは“藤井寺だけ”に起きている異常のようですね」
「二葉さん、それ本当なん?」
「ええ。姉さまが妹たち一人一人に確認していましたから、間違いはないと思いますわ」
 妹たちと言っても、確認できたのは縁を結んでいるお寺に限りますけど、と二葉は補足した。
 八八さん同士が連絡を取り合うにも制限があるらしく、いつでもどこでも会話ができるというわけではないそうなのだが、それについては今度ゆっくり聞くことにする。
 なるほど、さっき淡桜が不機嫌だったのは、ちょうど妹たちから情報を集めていた最中だったからか。眠っていたなんて思って悪かったな。
「このお寺だけってことは、藤井寺の八八さんに何かが起きているってことなんよね」
 あゆみが確認するように言う。
「そうですね。原因は“エネルギー不足”、尊心(とうね)が活動を停止したことで、お寺全体が“凍りついた”ということでしょう――あ、尊心とはここに棲む妹の名ですわ」
「活動停止って、そんなあっさり……」
「尊心は寝汚(いぎたな)く――いえ、たまに倒れては私(わたくし)たちに心配かける困った妹なのです」
 二葉は溜め息をつく。
「ああ、無駄話が過ぎましたね。とりあえず、私から言えることはこれだけですわ」
 八八さんは自分の領域以外――すなわち、他のお寺へ影響を与えることはできない。たとえ姉妹が弱っていたとしても、直接助けることは不可能なのだ。
「そういうことですので、一刻も早く尊心を見つけて目を覚まさせてくださいな。このままでは、来年の春に藤の花が見られなくなってしまいますわ。くすくす」

「まずは、八八さんを探すのが先決かな」
「うん。それで恵に相談なんやけど」
 二葉が姿を消した後、俺たちは話し合いを始めた。
「おじいさんのみかん畑で異変が起きたあのとき、恵は“原因となる一本の木”を特定したやろ。そんなポイントみたいな場所、このお寺の中にもあるんかな?」
「あるんかなって聞かれても……」
 とりあえず、じいちゃんの畑のことを思い出してみる。
 確かあのときは物凄い呻き声が聞こえていて、その声をたどっていったんだっけ。
「今回は何も聞こえないしな」
「少年よ、音ではなく温度ならどうだ。一番寒く感じる場所とか」
「寒い場所ねえ……」
 てか、二人して俺を探知機扱いしやがって。別に構わないけどさ。
「そうだな……ここより、門を入ったすぐのほうが寒かった気がするかな」


藤井寺/藤棚&池の氷・藤棚2・巳空と白ヘビちゃん(仮名)

 門に戻る手前。俺たちは足を止めた。
「ここ、絶対おかしいよね」
 早速、異彩を放つ一角を発見。見つけたのは俺ではなくあゆみだ。
 その場所は『藤棚』。
 お大師さんが悪疫退散の祈願のあとに植えたとされる藤の古木。四月下旬から五月上旬にかけ五色の藤が咲きほこる。
「何て言うか……ここだけ完全に“冬”だな……」
 今は七月。本来であれば、藤の木には葉が茂っているはずなのだが。
「恵、こっち来て」
 あゆみが藤棚のすぐ側にある池の前で呼んでいる。
「これって、氷だよね」
「おおぅ……」
「それで、あれ何かな? 池の真ん中に紫色のものが見えるんやけど」
 あゆみが指差した先に確かに紫色の何かが見える。
 なんだろう。
 葡萄……いや、藤の花に見えなくもないが、池の中にあるのは不自然だ。
「あれは、妹の……尊心ちゃんの仮の姿……です」
 ぽつりと、誰かが言った。
 声はすぐ真横から聞こえてきた……?
「うわわ、巳空さん! いつからそこに居たん!?――って、たいさんんんん!?」
 俺とあゆみの間を割り込むように、ちょこんと座る巳空。その肩にはツチノコ……もとい、白ヘビちゃん(仮名)。
「ああ、もう! たいさんも! 白ヘビのあんたも! ほんっと学習力ないなっ!!」
 俺はキレながら、巳空の肩から引き離した白ヘビを、上下逆さまにして振り回す。
 でろり。白ヘビの口からたいさんが吐き出された。
 あゆみはというと、数メートル離れた場所まで逃げていた。

「ちょっとびっくりしたけど、そんなに謝らんでいいよ」
 つかつかと戻ってきたあゆみ。
 お。だいぶヘビに慣れてきたのだろうか。
 と思ったら、あゆみはおもむろにお札を取り出すと、何も言わずに白ヘビちゃん(仮名)の額に貼りつけた。
「あのう、この紙は何でしょうか?」
 白ヘビの問いかけに、あゆみは「気にせんといて」と言いながらにっこり笑う。
 あゆみが貼った紙、それは『不可視』のお札だ。
 つまり「見るのも嫌なので消えてください」と言っているのと同じ。
 白ヘビちゃん(仮名)、結構かわいいと思うのだけどな。
「――で、さっきの話に戻るけどさ」
 間合いを見計らって俺は声をかけた。
「えっと、まず確認。池の中の紫色の花みたいなのが尊心さん――つまり、このお寺の八八さんで間違いないん?」
 俺の問いかけに、巳空がこくんと首を縦に振る。
 続けてあゆみが質問する。
「なんで尊心さんが池の中で氷漬けになっとん?」
「それはですね――」
 巳空は説明を始めた。
 八八さんが結界を守るには、ある一定量の「力」が必要だ。それ以前に「力」がなければ、八八さんは八八さんとして姿を保つことができない。
 その「力」は八八さんの体力みたいなもので、消費した「力」は時間の経過とともに回復するが、八八さんが自給できる量には限りがある。だからこそ、外部からの供給は不可欠だった。
 しかし、半年前からその供給が止まってしまった。
 当然、八八さんの「力」は不足する。万が一にも残量がゼロになってしまうと、八八さんは存在できなくなる。そうなる前に、八八さんは消費量を調節しなければならない。
 消費量を抑える一番の方法、それは活動しないこと――
 巳空の話をまとめるとこんな感じだろう。
「つまり、尊心さんは力の消費を抑えるために姿を変えて眠っているってことか」
「そういうことです。池の中で眠るのは、彼女のスタイルといいますか……」
「まあ、周りの温度が低いほうが代謝エネルギー低くてすみそうだもんな」
 俺の言葉に巳空が頷く。
 だからって、周囲全体を冬に変えるのはやりすぎだと思うけど。
「んーと、尊心さんは冬眠してるってこと?」
 少し遅れて理解できたのか、あゆみが言った。
 その言葉に、俺は成程と思う。  どうりで二葉が『目を覚まさせて』という表現を使ったわけだ。
 そして、この説明をするために巳空が出てきたのも納得できる。だって「冬眠のプロ」っぽいじゃん。
「問題は冬眠中の尊心さんをどうやって起こすか、だな」
 あゆみが手を挙げる。何か良い案があるらしい。
「火を焚いて周りの温度を上げたら氷が溶けるんじゃないかな」
「池の氷を解かすために、どんだけ燃やす気だよ」
「む」
「てか、火を点けた時点でお寺の人に止められると思うぞ。下手したら逮捕だ」
「むぅ」
「そもそも、氷っていっても“本物”かどうか怪しいしな」
「むむぅ……」
 俺の反論にあゆみが消沈する。
「いい考えだと思ったのにな」
 あゆみが口を尖らせる。
「火を使うのはありだと思うぞ」
 今まで黙っていたたいさんが、ようやく口を開いた。
「実在しない氷は、実在しない炎で溶かせばよいぞ」
「???」
 突拍子もないナゾナゾを出された気分だ。
「恵、どういう意味かわかる?」
「いや。――って、あのタヌキ、またどっか消えたし」
 それ以上は自分で考えろということらしい。
 ……ふう。気が乗らないが、とりあえず頭を働かせてみる。
「えっと、今のこの状況は八八さんが寝ているから起こったのであって」
 ここ一帯を「冬」に変えたのは八八さん。池を凍りつかせたのも八八さん。
 八八さんの氷は、八八さんの炎で溶かせばよいという意味だろうか。八八さんの炎って何だ。
「あ。今度こそわかったかも」
 あゆみが自信満々に手を挙げた。


藤井寺/藤棚(あゆみ&黒鐘&蔵杏羅&織刃)

「――というわけで、蔵杏羅さんと織刃さんに来てもらったよ」
「うひゃー! 寒いねっ! で、用事って何かなっ?」
「……」
 どんなに寒くても蔵杏羅は元気だった。
 一方、織刃は無言で非難する。よくもこんな寒いところに呼び出しやがって、と。
「えっと……この通り寒いんで、盛大に焚き火でもしようかなって思ってさ」
 織刃とは目を合わせないように、俺はそう告げた。それに補足するようにあゆみが言う。
「池を取り囲むように布を敷いて、そこに蔵杏羅さんの火を点けるんよ」
「一つ、横から口をはさんでもいいかな?」
 誰かと思えば黒鐘だ。蔵杏羅に連れてこられたのだろうか。
「布だけだと効率悪いよ。ちょっと待ってて」
 そう言うと、黒鐘は姿を消した。
 しばらくして戻ってきた黒鐘の手には、大量の枯れ枝が抱えられていた。どれも幹が太くて立派な枝だ。薪として使えばよく燃えるだろう。
「流石、『生活の知恵袋リンちゃん』だねっ」
「……歌蔵、変なあだ名をつけないで」
「黒鐘さん、ありがとう。でもこの枝ってどこから持ってきたの? こんなに沢山……」
「ん? 二葉姉さんの秘蔵庫」
 なるほど……二葉の巨木フェチは、枯れ枝のコレクションにまでおよんでいたのか。
「二葉さんの大事なものじゃないん? 燃やしても構わんの?」
 心配するあゆみ。
「別に。まだいっぱい残ってたし」
「平気平気。二葉ちゃんのことだから、またすぐに拾ってくるよ。そんなことより、早く始めよう!」
 蔵杏羅の掛け声を合図に、一斉が布や枝を抱えて散らばった。


炎

 程なくして、池の周囲には大量の布と枯れ枝が積み上げられた。
「準備はいいかなー? 点火するよっ!」
「おー!」
 点火。
 その瞬間、一気に燃え盛る炎。
「おお、燃える燃える」
 ガソリンとかは一切使っていないのに、凄まじい速度で燃え広がっていく。それでいて、布と黒鐘が持ってきた枝以外に飛び火することがない。なんとも不思議な炎である。
「ちょっと、あんたたち! なんでこんな面白そうなことに私を誘わないのよ」
 気がつけば淡桜の姿があった。
 淡桜だけではない。他の八八さんたちも出てきている。
「きゃああああ!」
 突然悲鳴が上がった。
「な、なななんてことを! 私(わたくし)の秘蔵コレクションが減ってると思ったら!」
 炎の原料に気づいた二葉がその場に崩れる。
「ああ、コール=ネリーが! あっちはシェイヴァー=グレン四世……!」
 恐るべき二葉さん。枯れ枝の一つ一つに名前をつけていたようだ。しかし、なんというネーミングセンス。
「あはははは、どんどん燃やしなさい」
 妹の嫌がることは率先して行うというのが信条だと告げられても、万人が納得してしまうであろう、妹いじりに余念がない長女・淡桜。とても嬉しそうだ。
「――っ! 姉さま、何てことを! はっ、姉さまが手に持っているのはフランチェスカ=クリヴェッリ!!!」
 長女と二女のやり取りを見ながら、妹たちが笑う。
 いつにも増して賑やかだ。

――ピシッ

「あ、池の氷が!」
 あゆみが声を上げる。
 炎の力か、それとも俺たちの熱気のせいか。
 ついに池の氷に亀裂が走った。

――ピシ、ピシピシッ

 次々にひびが入っていく。
 そして、次の瞬間。

――ジュワワワワワ

「じょ、蒸発した!!!!!?」
 一瞬にして視界は真っ白。

「び、びっくりしたー」
「調子に乗って燃やしすぎたな……まさか、池の水が全部蒸発するとは」
 しばらくして、一面を覆っていた湯気は消えた。
 目の前には、干からびた池。
 俺はあゆみと一緒にその中へ入った。
「遠くから見えてた紫色の塊は、藤の花やったんやね」
 花は地面から生えているのではなく、宙に浮かんでいた。
 あゆみは一枚のお札を取り出して、それにそっと触れさせた。

『 南無大師遍照金剛 』


藤井寺/藤棚(尊心)

 お札が閃(ひらめ)き、花は女の子の姿へとかたちを変えた。
「……う、ん」
 女の子の目蓋が揺れる。
 そしてゆっくりと目を覚ました。
「おはよう、尊心」
 淡桜は横たわる尊心に手を差し伸べる。
「……淡桜お姉さん?」
 尊心は手をとりながら不思議そうに辺りを見回す。
「他のお姉さんたちも……って、もしかして私、また眠っていたのかしら……?」
 顔を赤らめておずおずと尋ねる尊心に、淡桜はため息をつきながら言った。
「そうよ。ったく、眠るのはいいけど、本気で寝入るのはやめなさい。あんたを起こすのは大変なのよ」
「そうですよ。寝起きの悪いあなたを起こすために、私(わたくし)の大切な秘蔵コレクションが……」
「秘蔵ってただの枯れ木じゃん。まあ、二葉のことなんてどうでもいいわ。でも、本当に気をつけなさい、尊心。今回はたまたま協力者がいたからよかったものの、あんたが長時間眠ってしまえば、お寺そのものにも影響が出るんだから」
「はい……。あ、ということは、こちらの方々が?」
「そそ。あんたを起こしてくれたヒトたちよ」
「えっと、はじめまして。あたしはあゆみ、こっちが恵。それと、タヌキのたいさん」
 あゆみが代表して、順番に名前を言っていく。
 そして、結界が弱まっていること、それを元に戻すために八八さんたちに協力してもらっていることを簡単に話した。
「それでお姉さんたちが同行しているのですね。私たちは自分のお寺から出られないものだと思っていましたから、少し驚きました」
 そう言いながら、尊心はあゆみにお札を渡した。
「もちろん、私も協力いたします」
「ありがとう!」
 あゆみはお札を受け取ると、いつものように古文書へかざした。

 これで古文書に宿った光は十一個。
 次の光が灯るとき、俺は――

つづく


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