第十二話<焼山寺(前編)>

文章・絵:SHIZUMU(OpenDesign) 制作:OpenDesign


藤井寺/焼山寺道入り口

 第十一番札所・藤井寺の本堂横。
 山奥へと続く細道。その入り口に『焼山寺みち』と書かれた石碑が建っている。
「いよいよ、巡礼最初の難関『遍路ころがし』やね」
 石碑の前で、あゆみは気を引き締めるように金剛杖を握り直した。
 俺はそれをぼんやりと眺めながら、法輪寺で会った元クラスメイトのことを思い出していた。

***

「よう。幸野じゃねえか」
 第九番札所・法輪寺の境内で俺は突然の呼び声に足を止めた。
 振り返った先で白い歯を覗かせて笑っていたのは渡部孝之(わたなべたかゆき)、中学時代のクラスメイトだった。
 野球部に所属していた彼は万年坊主頭がトレードマークだったが、およそ二年ぶりに見るその顔は垢抜けて、まるで別人のように感じた。
 中学卒業後は関西にある野球の名門校に進学したと聞いていたので、今も変わらず坊主頭で部活動に励んでいるのだと思っていたのだが。進学先が自由な校風の学校だったのか、はたまた「野球部イコール坊主」に反発した結果なのか。そこに至った経緯は皆目見当もつかないが、冗談抜きで「あんた、誰?」な変貌を遂げていた。
 風が吹く度にサラサラと流れる長めの髪は明るい茶色に染められて、耳にはピアスが光っている。そして、地元松山市の南久米(のごく限られた区域)で密かなブームを巻き起こしている『ミックーメウス』という名のキャラクターが描かれた、一般人には到底着こなすことはできないハイセンスなTシャツ。何やら素敵な高校デビューを果たしたようだ。と言うと、悪口に聞こえてしまいそうなので黙っておくことにする。
「ん? どうかしたか? 人の顔をまじまじ見て、変なヤツ。……それにしても、幸野。お前は全然変わってないのな。相変わらず眠そうつーか、退屈そうな顔しやがって」
 わざわざ言葉を選んでいた俺の気も知らないで、歯に衣着せぬ元野球部主将。だが、不思議と相手に不快感を与えないのがコイツの優れたところで、それが渡部孝之という人柄なのだろう。
 とまあ、いかにも久しぶりに再会した友人同士のように言葉を交わす俺たちだが、実際それほど親しい仲というわけではなかった。
 元クラスメイトの一人で、それ以上でもそれ以下でもない。
 一度でも言葉を交わした相手は忘れないという社交的な孝之とは違い、非社交的な――小学校以来の腐れ縁であり、現クラス委員長の鈴本陽子(すずもとようこ)の言葉を借りるなら「他人に対しての興味が破滅的に乏しい」――俺は、挨拶を交わす程度の、さして関わりのなかったクラスメイトについてはほとんど記憶していないのだが、その中で唯一この男だけは例外的に覚えていた。
 なぜなら、有名人だったからだ。


野球場

 渡部孝之の名前は中学校入学当初から話題になっていた。
 なんでも学童野球で活躍していたらしく、天才だとか神童だとか、将来プロ野球選手になるのは確実だとか、その持てはやされっぷりは凄まじいものだった。
 野球人気の低迷と言われて久しい時代で、いや、こんな時代だからこそ、その界隈ではかなり注目され有望視されていたようだ。
 早くから寵児となった野球少年だったが、決して慢心することはなかった。
 結果、その才能は中学に入学してから一層向上した。天性の関節の柔らかさにくわえて、安定した下半身、全身のバネを使って繰り出される長打力、そして、陸上選手顔負けの俊足が彼の武器だった。
 いつだったか、全校生徒総出で試合の応援に行く機会があったのだが、そこで見た孝之のプレイは、他の選手に比べて明らかにレベルが違った。野球ド素人の俺の目から見ても分かるくらい、明確すぎる差だった。
 そして、挫折も屈折もするなく、順風満帆に成長した孝之が主将に抜擢された年、部は四国大会優勝、全国大会出場という功績を残した。流石に突出した個人技だけで全国制覇できるほど野球は甘いスポーツではなかったが、地区予選敗退が常だった弱小部が全国の舞台に立てたことだけでもかなりの偉業と言えた。
 翌年も全国大会に進出し、結果は二回戦敗退。成績はそれほど輝かしいものではなかったものの、渡部孝之という存在を世間に知らしめるには十分だった。三年の夏が終わる頃には、各方面の高校からのオファーが殺到していた。
 その後、学費全額免除の特別スポーツ推薦とやらで関西の野球名門校へ進学したことを、俺は中学を卒業してしばらくしたころに噂で聞いた。
 高校進学以降は、俺の進学先がスポーツより完全学業優先の学校だったこともあり、孝之の噂を耳にすることはなかったが、再会した姿を見る限りそれなりに面白おかしく過ごしていたのではないだろうか。……とりあえず、イメチェンしすぎ。


法輪寺/境内(渡部孝之)

「いつから歩き始めたん?」
 納経を終えて俺は孝之に話かけた。
「六月末かな。今日で四十三日目、結構歩いたなー」
「逆打ちか……って、あと残り八箇所かよ!?」
「おう。明後日には結願(けちがん)だぜ」
「うはっ、マジか。すごいな、よく歩いてこれたな。流石、日頃から身体を鍛えてるヤツは違うってことか」
 思いがけない場所での再会がそうさせたのか、それとも存外に中学時代のクラスメイトを懐かしく感じていたからなのか。
 孝之の話しやすさも手伝って、俺は柄にもなく饒舌になっていた。
「そういや、相変わらず野球ばっかの生活なん? 今日みたいなクソ暑い日もグラウンドで筋トレとかするんやろ。ほんと、ようやるわ……」
 想像してクラクラする俺。
「あ、そだ。今年の甲子園って八月八日からだよな。当然、お前の学校は出場する――」
 頭上に広がる高い高い青空を仰ぎながら、はたと口をつぐんだ。
 容赦なく降り注ぐ陽光。それに負けじと声を張り上げる蝉たち。
 夏、真っ只中。
 高校野球男児にとって、もっとも暑く、熱い、季節――
 そんな時期に、
 なぜ期待のスラッガーが寺巡りなんかしてるんだ?
「あ、あのさ、野球の話は置いといて。ところで、ミックーメウスって」
 失敗した。出会った時点で察するべきだった。咄嗟に取り繕おうと、違う話題を探したが気の利いた言葉は出てこなかった。
 そんな俺の様子を見て、孝之が苦笑する。
「幸野、フォロー下手すぎ」
 片方の眉だけを下げるその笑い方は中学のときから変わらない。
「はは、ちょっと意外だったわ。頭の回転が速いお前のことだから、てっきり何もかも気づいたうえで、あえて触れずにいてくれてんだって、そう思ってたのによ。案外、天然っぽいところもあるんだな、お前って」
「……悪い。少し、無神経だった」
 驚きと感心が混ざったような口調の孝之に、俺は謝るしかできなかった。
「気にすんなって。お察しの通りさ。野球はやめたし、学校にも行ってない。まあ、学校のほうはまだ休学扱いだけどな。それでさ――」
「――悪い」
 もう一度謝った。それには「これ以上は話さないでくれ」という拒絶の意図を含んでいた。
 何ということもない素振りで「野球はやめた」と口にした孝之。今ではもう昇華しきっているということだろうか。
 だけど、本当の気持ちなんて分からない。
 それに。
 何を告げられたところで、俺にはもっともらしい慰めの言葉など思い浮かばない。
 孝之はまた小さく笑った。
 野球部の主将としてたくさんの部員を束ねていただけのことはあって、孝之は他人の気持ちを汲むのが上手かった。そしてそいつを動かすには、どうアプローチをかけるのが最も有効かを心得ていた。
「お前の他人に深入りしない姿勢は嫌いじゃないけどさ、もう少し相手に関心を持ってやれよ。無神経な言葉以上に、無関心な態度が人を傷つけるってこともあるんだぜ?」
 その台詞を笑顔で言うのはズルい。
「心配すんな。別に、慰めてもらおうなんか考えてねえよ。ただ、こんな場所で会ったのも何かの縁ってヤツだろうよ。だからさ、まあ、聞けって」


夏の空

 孝之の話は、至ってシンプルだった。
 去年の夏、事故に遭った。
 部活を終えて寮へ帰る途中、歩道を歩いていたところに暴走車が突っ込んできたのだという。
 幸い命に別状はなく、生活に支障が出るほどの後遺症もなかったが、全てが元通りに回復することは難しいと医者に告げられた。
 すなわち、俊足とうたわれた走りはもうできない。脚が武器だった孝之にとってそれは致命傷だった。
 そうして、実にあっけなく、渡部孝之は選手生命を絶たれた。
 新人戦が終わって、順当にレギュラー入りが決まった矢先のことだった。

「特別推薦で入った手前、そのまま居座るんも気が引けるしよ。潔く、すぱっと退学届を出すつもりだったんだが、なんだかんだで決心がつかなくてさ。で、無断欠席を繰り返した挙句、学校から呼び出されて――そのときは担任の温情で休学扱いにしてもらったんだけどよ――結局、復学することなく地元に戻ってきちまった」
 笑みを崩すことなく淡々と話す孝之。
 その冷めた口調からは感情が読み取れない。
 ただ静かに、事実を述べているだけだった。
「何で……」
 俺は、なぜか無性に腹が立った。
「何で、そんなに平気でいられるんだよ……!」
 熱のこもった俺の問いに返ってきたのは、一層温度を失った孝之の言葉だった。
「全然平気じゃねえよ」
 孝之の顔からは笑みが消えていた。
「……平気なわけがあるか」

 幼い頃から期待されて育った。
 その期待に応えたかったし、自分にはそれができるという自信もあった。
 だから人一倍努力した。
 結果も出した。
 だけど、もう頑張らなくてもいいと宣告された。
 どう頑張ったところで、以前のような成果は望めない。だったら、頑張ること自体が無意味だろう? ……そう、言われた気がした。
 自分の中の大事な何かが欠けたような喪失感。
 地元に戻ってもぽっかりと空いた心の穴を埋めることはできなかった。
 街を徘徊して、いろいろな遊びに手を出したが、野球以上に面白い何かは見つからなかった。

「自暴自棄になってた俺を見かねてか、うちのねーちゃんが急に遍路に行ってこいって五十万円投げてきてよ」
「ご、五十万円……?」
 最初は気乗りしなかったが、他にすることもなかったし、リハビリにもなるだろうと歩き遍路をすることに決めたのだと孝之は続けた。その声にはいつもの温度が戻っていた。
「ま、遍路を始めた決定打は、ねーちゃんが俺を家から追い出したからだけどな。ちなみに、あの悪魔。玄関先で人の背中を蹴り上げて外に放り出した後、何て言ったかわかるか? 『自分を見つめ直して、これからどうするか答えを見つけるまで帰ってくんな!』……だぜ。マジで勘弁してほしいわ」
 大袈裟に肩をすくめる孝之。
「でも、まあ、結論だけ言うと歩いて良かったと思うぜ。いろんな人に出会って、その中には俺とは比べもんにならんぐらい、壮絶な経験をした人もいてさ。それでも、なんだかんだで生きてんだわ。そんな人らを見てたら、いろいろ考えさせられてよ」
 その言葉を聞いて、俺は孝之の笑顔の意味を少しだけ理解できた気がした。
 五十万円については依然謎として残っているけれど。何だ、その大金。
「それで、家には帰れそうなのか?」
「うん?」
「だから、答えとやらは見つかったのか……って、やっぱいいわ。この質問はなし」
 俺は一方的に質問を打ち切ると、孝之に少し待つように言ってその場を離れた。


法輪寺/境内(わらG)

 向かった先は納経所。
 中に入るやいなや、カウンターに座る老人に声をかけた。
「あの、すみません。このお寺って足の御守りを売っているんですよね?」
「健脚祈願の草鞋守りですかな。はいはい、置いてありますぞ」
 差し出された草鞋の形をしたお守りを受け取りながら、自然な流れで老人の顔に視線を移す。そして俺は固まった。
「いかがなされた、お若いの」
「あ、いえ。どこかでお会いしたかな、って……」
「おやおやおや! それはナンパというものではないですかな! いやはや、照れますな!」
「そんなわけがあるか!」
 素でツッコんでしまった。
「フォッフォッフォ。冗談ですじゃ、お若いの。ワシはこの寺で草鞋守りを売って六十年。『草鞋守り売りのじいさん』略して『わらG(ジー)』と呼ばれておりますじゃ」
 以後、お見知りおきを。そう言ってウインクするわらGさん。一体何のアピールだ。
 変な老人の相手をゆっくりしている時間もないので、お守りの代金を支払うと早々に立ち去ることにした。
 そして、納経所を出たところで思い出した。
 わらGさん、どっかで見たと思ったら。たいさんが描いた紙芝居――安楽寺の逆松の話だ――に出てきた老人にそっくりだ。

「おう、おかえり。……ん? 何だ、この紙袋」
 孝之のところに戻った俺は、さっき買った草鞋の御守りを渡した。
「法輪寺は足の御守りが有名なんだと」
「うわ、わざわざ買ってきたんか! なんか照れるな。サンキュー」
「……ったく。本当は聞きたくなんかなかったけど、聞いてしまった以上、何もしないってわけにはいかんやろ」
「はは、悪かったな――てか、何か機嫌悪くね?」
 受取った草鞋守りを早速バッグに結わえる孝之。その様子を見下ろしながら、俺はわざとらしく溜め息をついた。
「そりゃ、悪くもなるわ! さほど親しくもないヤツから、いきなりものっっっっっすごい重い過去を打ち明けられてみろ。反応に困るやろーが! 確かに、もとはと言えば俺の配慮不足が招いたことかもしれんけどさ、それでも――」
 言いたいことはまだ半分も言えていなかったが、俺は途中で言葉を切った。いや、切らされた。孝之の爆笑によって。
「……何がおかしかったんだよ」
 一通り笑わせるだけ笑わせて、落ち着いた頃を見計らって問いかけた。
「悪い悪い。いやー、幸野も怒るんだなーって思ってよ」
「……」
「なかなか切れのあるナイスツッコミだったぜ」
「うるせー!」
 親指立てて白い歯キラーンとかしてんじゃねーよ。
「……幸野、ありがとな。話を聞いてくれてよ」
 ふっと真面目な顔になったと思えば、孝之はポツリとそんなことを言った。
 どうやら事故の話を身内以外にしたのは俺が初めてだったらしい。よりによって何で俺だったのか、ツッコみたかったが黙って受け止めた。
「さてと、そろそろ行くわ」
 孝之は荷物を担ぎ直して言った。
「ああ。それじゃ、残り八箇所、頑張れよ」
「おう。お前も残り七十九箇所、頑張れよな」
 山門へ向かう孝之の背中を見送る。
 境内と外とを隔てる境界線に差し掛かったとき、孝之が俺のほうを振り返った。
「絶対、最後まで歩き切れよ!」
 孝之は腕を振り上げて、大声で叫んだ。
「そうすれば、お前も『何かが変わった』って気づくはずだぜ!」
 遠目からでも分かるほどの眩しい笑顔を残して、山門の先へと消えていった。

***

野球少年

 いつも誰かに期待され、その期待に応えようと躍進し続けた一人の野球少年がいた。
 だけど、事故がそいつの運命を変えてしまった。
 突として突き付けられた宣告。
『もう頑張らなくてもいい』
 大切なモノを失ったそいつの心には、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
 だけど。
 その穴を遍路が埋めた。
 正確には、遍路を通じて出会ったたくさんの人たちが、
 その隙間を少しずつ塞いでいったのだ。

「歩いて良かったと思うぜ」
 孝之は笑いながらそう言い切った。
 あいつは初めから自分の苦境を「誰か」に晒したかったわけではなかった。遍路を始めたばかりの「俺」だったから話したのだ。
 そして、最後にこう言った。「お前も『何かが変わった』って気づくはずだ」と。
 何かが変わる。
 その何かって、何なんだろうな。
 あのさ、孝之。
 俺は、お前と会って遍路を続けるのが“怖く”なった。
 もちろん、体力的に歩けるかどうかの不安は巡礼を始めた当初からずっとあった。
 でも、お前の話を聞いて、お前が出会った誰かの話を聞いて、それとは違う不安がでかくなった。

 “俺なんかが遍路を続けてもいいのか”

 だって、そうだろ?
 孝之だけではない。遍路をする人は、それぞれが理由を抱え、そして何らかの目的を持って巡っている。
 なのに、俺にはそれがない。
 唯一の口実だったあゆみの付き添いも、どうやら不要だったらしい。
 突然だが、ここで一つ問題を出してみよう。
 Q.目的を持って遍路をしている多くの人たちの中に、自分のような無目的なヤツが一人混ざるとどんな気持ちだろうか?
 A.一生懸命仕事をしている集団の中で、俺一人だけがサボってるみたいで、きっと居心地が悪いだろう。
 そんな感覚。まあ、喩えが悪いので、完全一致ではないけれど。
 別に、理由がなくても歩くことはできる。
 確かにそうだ。
 でも、駄目なんだ。

 理由。
 理由がないのは不安でキモチワルイ。
 だから、俺には理由が必要なのだ。

 遍路の理由。
 遍路をすると何かが変わるらしい。
 ならば、何かを変えることが遍路の理由なのか。

 何かって何だ。
 何か分からない何かが変わる。

 遍路って、何だ?

***

焼山寺道/ミニ八十八箇所

 俺は焼山寺道の入り口へと向かった。
 焼山寺道は標高40メートルの藤井寺から標高700メートルの焼山寺に至る12.9キロメートルの山道。
 その全体をさして「遍路ころがし」なのだと思っていたが、実際はとくに険しい上りや下りのある六ヵ所のポイントそれぞれを、そう呼ぶのだそうだ。
 焼山寺道の入り口には『最後まで残った空海の道ウォーク』と『トイレは済ませましたか?』の標識。どうやら、道中にはトイレがないらしい。目安として健脚五時間、平均六時間、弱足八時間と言われているが、その間トイレがないのは少し心配だったりする。
 そして、一歩踏み込んだその道沿いには、四国八十八箇所の各寺のご本尊が祀られている小さなお堂が並んでいる。
「皆の衆、ちょっとこれを見るがいい」
 ミニ八十八箇所の前を通り過ぎていく途中。たいさんが、俺やあゆみ、姿を現している数人の八八さんたち全員を一つのお堂に注目させた。
「三十番札所は『善楽寺』だが、これは『安楽寺』となっているだろう」
「本当やね。書き間違えたん?」
 あゆみが不思議そうに首を傾げる隣で、たいさんは「いやいや」と首を振る。
「善楽寺が三十番札所に落ち着いたのは最近のことだからな。ただ書き直していないだけだ。こんなところにも『神仏分離』の影響が出ているってことだな」
「センセー、『神仏分離』って何ですか!?」
 大きな鋏を片手に、織刃が「ハイッ」と手を挙げる。
「うむ、よい質問だぞ。そうだな、十三番札所の大日寺に着いたら教えてやろう。神と仏を語るには、あの寺こそ相応しい」
 ミニ八十八箇所を過ぎるあたりからが最初の「遍路ころがし」だった。道の脇には『へんろころがし1/6』の札が建てられている。
 これから俺たちは「長戸庵(ちょうどあん)」「柳水庵(りゅうすいあん)」「浄蓮庵(じょうれんあん)」の三ヵ所の仏堂を通過地点とし、六ヵ所の「遍路ころがし」を越えて第十二番札所・焼山寺へと向かうのだ。

 さて。  焼山寺に辿りつく前に、俺はこの巡礼を続けるのか、それともやめるのか、いい加減結論を出さなくてはならない。
 “俺なんかが遍路を続けてもいいのか”
 その不安は簡単に消すことはできないだろう。
 そして何より、俺はみんなに「やめる」と宣言している。
 だから、焼山寺に着いた時点で終わりにしようと思う。
 反面、気持ちのどこかで“本当にやめてもいいのか”という迷いも生まれていた。
 とりあえず、考えよう。
 俺には遍路をする理由があるのかないのか。
 納得のできる理由が見出せたなら、そのときはこの巡礼を続けようと思う。
 ふと、視線に気づいた。
「うをっ!? どした??」
 あゆみ、熊羽八、尊心の三人が俺を凝視していた。
「えっとね、巡礼をやめるって言ったこと、考え直してくれたかなって」
 遠慮気味にあゆみが聞いてくる。
「ああ、そのこと……」
 そうだ。俺が結論を先延ばしにすると、こいつにまで余計な気を遣わせてしまう。
 少しの間一人になって、真剣に考えた方がいいかもしれない。
「悪いけど、しばらく一人で考えさせてくれ」
「あ……」
 あゆみが何かを言いかけたが、俺は聞こえないふりをして足早にそこから離れた。
 前を歩いていればみんなを見失って迷う心配もない。そう思って、歩く速度を上げた。
 そのとき、

「やあ、君も歩き遍路かい?」

***

――失敗した。
 あたしは心の中で呟いた。
 八八さんが視えるってことを、恵に気づかれてしまった。
 そのせいで、恵は巡礼をやめると言った。
 まさか「視えないあたしに代わって八八さんを見つける」ことだけが巡礼の唯一の目的だなんて思ってもいなかったから、てっきり茶髪のお友達が原因なんだろうって思ってた。
 あの茶髪の彼が何かしたせいで、恵がやめるって言い出したんだと勝手に勘違いして、報復まで考えてたけど。よかった、実践する前に気がついて☆
 とにかく、あたしのせいだったんだ。
 恵はああ見えて勘がいい。もう少し慎重に行動するべきだった。
 ただ、一つ救いがあるとすれば、あたしが「最初から」八八さんが視えていたというところまでは、気づかれていないということ。
 そう。八八さんが視えないなんて、はじめから嘘。あんなのは恵を巡礼に向かわせるための口実だ。
 恵のおじいさんのみかん畑で起きた異常だって同じ。
 結界の存在に信憑性をもたせるため。そして、恵の「能力」を調べるために、たいさんとあたしが仕組んだこと。
 だから藤井寺の異常も、たいさんが恵に結界のことを再認識させるために引き起こしたのだと思っていた。まさか本物の異常だったなんて。おかげで必要以上に取り乱してしまったのだけど、きっと恵は不審に思ったに違いない。
 そして。
 恵に隠していることは他にもある。
 それを知られてしまうと、一緒に旅を続けることが難しくなってしまう。いや、絶望的だろう。
 気をつけなきゃ。
 あたしが巡礼の旅に出た目的。
 もちろん、結界を修復することも重大な「任務」だけど、
 幸野恵を巡礼に連れ出し一緒に八十八箇所を巡る――これこそが本当の目的なのだから。

***

焼山寺道(尊心・熊羽八)

「あゆみ~ん」
「ふわぁぁあ!?」
 またしても、誰かの指があたしの背中をツーッと滑った。
「もう、熊羽八(ゆうや)さん! だから背中ツーは駄目だって――」
 あたしは思いきり振り返った。
 てっきり今回の犯人も前科持ちの熊耳の彼女だと思っていたのだけど、あたしの目に映ったのは薄紫色の着物だった。
「……あれ? 熊羽八さんやなくて、尊心(とうね)さん?」
「うふふ。びっくりしましたか? 口調をちょっとだけ熊羽八姉さんっぽくしてみました」
 悪戯っぽい微笑みに、思わず毒気を抜かされる。むぅ、このお茶目さんめ。
「それより、何かあったのですか? 怖いお顔をされていましたよ」
「ふええ、そんなに怖い顔してたん!?」
 両手で顔をはさむようにして触れる。いけない、感情が顔に出ちゃってた。
「あゆみんは、恵くんが巡礼やめるーって言ったから、心配なんだにゃ」
 今度は本物の熊さん。
「あら、そうなのですか」
 首だけ傾けて恵の方を見る。それにつられて、あたしたちも恵に視線を向けた。
「うをっ!? どした??」
 いきなり三人に注目されて戸惑う恵。
「えっとね、巡礼をやめるって言ったこと、考え直してくれたかなって」
「ああ、そのこと……」
 あたしの言葉に、恵は困ったような顔をした。
「悪いけど、しばらく一人で考えさせてくれ」
 恵はそう言うと、あたしたちから距離をおくように足早に歩いていった。
「あ……」
 その背中を見送りながら、あたしはため息をつくしかなかった。
 気落ちするあたしの肩を、尊心さんがポンッと叩く。その顔は優しく微笑(わら)っていた。
「大丈夫ですよ。考えるってことは迷っている証拠です」
「そうにゃ! やめるって決めてるなら、考えさせてなんて言葉は出てこないにゃ!」
 同調して頷く熊羽八さん。
「うん、そうやね」
 あたしも笑って頷いてみせた。
 内心は全然納得してなかったけど。

「暇にゃー!」
 突然、熊さんが吠えた。
「みんな消えたから話相手が居なくなったー! そして歩くの飽きたー!」
 いつの間にか、この場に残っている八八さんは彼女一人になっていた。
 八八さんたちの話し声がどんどん小さくなっていくなって思ったら、そういうことだったんだ。
 ……まだ歩き始めて三十分も経ってないんやけどね。
「飽きたのなら、おぬしも自分の寺に戻ればよいだろう」
 ツッコミ担当の恵は少し離れた先を歩いているので、ツッコミ担当代理のたいさんが言った。
「それはそれで、つまらないのにゃ!」
 口を尖らせて反論する熊さん。たいさんは、やれやれと肩をすくめる。
「仕方のない奴だ。どれ、儂が今から行く焼山寺について話してやろう」
 たいさんはそう言うと、今回は紙芝居ではなく写真パネルを取り出した。引き出しの多さにはびっくりさせられる。物理的な意味で。
 だって。たいさんも、あたしに負けず劣らず、懐からいろいろな物を取り出すけれど、あたしみたいにお札の力を使っているわけではなさそうなのだ。これはもう、身体そのものに引き出しがついているとしか考えられない。いつか調べさせてもらおっと。
「あ。タヌキさん、何かお話するの?」
 ひょっこりと姿を現す織刃さん。
「ふむ。吾も聞かせてもらうとしよう」
「ウチも~」
 他にもぞろぞろと出てきた。ちゃっかりさんがいっぱいやね。


焼山寺/山門

 摩盧山(まろざん)正寿院(しょうじゅいん)焼山寺(しょうさんじ)。
 焼山寺があるのは、標高938メートルの焼山寺山の八合目。四国八十八箇所霊場で二番目に高い山岳札所なのだ。また、阿波霊場三難所の一つに数えられ「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と呼ばれている。
 焼山寺建立には、こんな言い伝えがある。
 飛鳥時代に役行者小角が山をひらいて庵を結び、蔵王権現を祀ったのが寺のはじまりといわれているが、この山には神通力を持った大蛇が棲んでいて、しばしば火を吐いては農作物や村人たちを襲っていた。
 弘仁六年頃、弘法大師・空海がこの地をおとずれたとき、その話を聞いて退治に向かった。大蛇は全山を火の海にして妨害した。
 空海は「摩廬(水輪の意)の印」を結び、真言を唱えながら進んだ。追い詰められた大蛇は、山頂の岩窟に閉じこもって抵抗した。そこで空海は虚空蔵菩薩や三面大黒天に祈願し、とうとう大蛇を岩窟の中に封じ込めることができた。
 後に空海は、そのお礼にと虚空蔵菩薩像を刻んで本尊とし一寺を建立した。そして、自ら彫った三面大黒天を安置し、被害を受けていた民家の大衆安楽、五穀豊穣を祈った。
 このとき、山は「焼山」になってしまったので、寺を「焼山寺」と名付けた。寺名だけではなく、山号の「摩盧」もこの奇異な伝説に由来している。

「焼山寺もヘビが関係してるんやね……」
 たいさんから焼山寺の縁起を聞いて、あたしは嫌な予感がした。
「もしかして、巳空さんみたいに、焼山寺の八八さんもヘビを連れてたりするんかな……?」
「その通りです」
 にゅるっと現れる白い影。
「うわわわ! 巳空さん、わざわざ出てきてくれんでもよかったのに! 本当に、よかったのに!!」
 出てきた早々悪いけど、ヘビさん連れてどっか行ってー!
 その前にたいさん吐き出してー!!!!!!!
 ……
 …………ふう。
 自分でも何を言っているのか分からないくらい取り乱してしまった。
「相変わらず、大袈裟なんだから」
 少し離れたところから、淡桜が冷ややかな視線を送ってくる。
 ちょっときつい印象のある八八さん長女。でも、あたしが落ち着くのを待って話しかけてくるあたり、本当は優しくて思いやりのある人なんだと思う。
「えっと、巳空さんに聞けなかったから淡桜さんに質問。焼山寺の八八さんってどんな人なん?」
「…………」
 無言で返されるとは想定外だった。
「淡桜ちゃんに代わって、私が紹介するよっ」
 キラキラした笑顔で登場したのは、羅漢のアイドル蔵杏羅さん。
「焼山寺に棲んでるのは灼(あらた)ちゃんって子で、名前の通り活発で激しい女の子だよっ。ことあるごとに自分のお寺を燃やそうとする困ったちゃんかな? 淡桜ちゃんでさえ手を焼くくらいだから大概だよねっ」
 さらっと、とんでもないことを言われた気がするけど、気のせいだろうか。
 会うのが楽しみのような、怖いような。
 とりあえず、灼さんのことは実際に会ったときのお楽しみということで、あたしはたいさんの話に耳を傾けることにした。


焼山寺/境内

「焼山寺には車でも行けるぞ。駐車場から山門までの参道には、新しく作られた石造十三仏が並んでいてな。それだけではなく兎や猿の姿も見ることができるのだ」
 たいさんは次々に写真パネルをめくる。
「山門の手前には石階段があるのだが、これがまたいい雰囲気を醸し出しているのだ。それを上って山門をくぐると、今度は巨大杉の多さに驚くぞ」
 山門付近に約四十本、本堂の西南に約十五本、そして本堂左奥から約1.1キロメートル離れたところにある奥之院へ至る山中には数百本余り。その樹齢は推定三百年で、幹の太さが四、五メートルある巨大な杉は天然記念物に指定されているそうだ
 巨木マニア二葉の耳がピクリと動く。
「本堂にはご本尊の虚空蔵菩薩が祀られておる。虚空蔵菩薩は丑年と寅年生まれの人の守り本尊だぞ」
 それに関係しているのかは分からないけれど、境内には牛の像もあるらしい。着いたら探してみよう。
「本堂の右手は大師堂。そしてその隣には十二社神社があるぞ」
 十二社神社の多くは熊野三山の神を勧請したもので、明治の神仏分離までは「十二所権現社」などと呼ばれていた。熊野三山には「熊野十二所権現」と称される十二柱の神が祀られていて、これらの神を勧請して祀ったのが十二所権現社。現在の十二所神社は明治の神仏分離の際に改めたられたものらしい。
「本堂の左側には三面大黒天を祀ったお堂があるのだ」
「三面大黒天って、真ん中に大黒天、左右に弁財天と毘沙門天の合体神なんよね」
「ほう。娘よ、よく知っておるな」
 えっへん。お遍路ガイドブックで少しは勉強しよるもん。
「大黒天は富や出世、繁栄をもたらす招福・金運の神、弁財天は弁舌や学問、知識、音楽、技芸の功徳をもたらす芸能・学術・商売の神、毘沙門天は四天王の中で多聞天ともいわれる最強の神で、富や財宝、不老長寿、戦勝、無病息災をもたらす財宝・戦勝の神だぞ」
 三面大黒天は、遣唐使として中国で学んだ伝教大師・最澄が日本に取り入れ、比叡山に祀ったとされる由緒ある天部だ。旧来の宗派の弾圧を受けながらも、比叡山延暦寺が日本を代表する寺院として発展してこられたのも、この三面大黒天の御利益だといわれ、今でも三面大黒天は延暦寺の東塔大黒堂に祀られている。
「焼山寺と言えば、鐘も有名だな」
「鐘?」
「うむ。焼山寺の鐘楼の鐘は、蜂須賀三代目藩主・松平阿波守忠英公(ただてる)が大檀那となって、慶安二年(1649年)に寄進されたものだが、当時蜂須賀公は二つの鐘を造って、一つをこの寺に、もう一つを徳島市内のある寺に寄進したのだ。この寺の鐘はつけばその響きが徳島市内まで届いたというが、市内の鐘はまったくよい音を出さなかったらしい。それで交換しようとしたのだが、鐘が『いなーん、いなーん』と鳴って、結局取り替えは果たされなかったのだそうだ」
「不思議な鐘やね」
「それだけではないぞ。昭和十六年、大東亜戦争のときのことだ。供出の命がくだって馬車に積んで運び出そうとしたのだが、馬が急にもだえ苦しみだして、ついには運ぶことを断念したという話もある」
「よっぽど焼山寺を離れたくなかったんかな」
 鐘だけど、何か微笑ましい。
「それがな、戦争が終わり、その鐘は県文化財の指定を受けて、今は違う場所に保管されているぞ。ちなみに、焼山寺にある今の鐘は二代目だ」
 運ばれてんじゃん!
 恵なら絶対突っ込んだだろうな。そんなことを考えて、一人で吹き出してしまった。
 そう言えば、恵は?
 前方を歩いているはずの恵の姿を探した。
 あれ?足が止まってる。
 恵の側に座り込んでいる人影が見えた。その影が恵に話しかけている。

「やあ、君も歩き遍路かい?」

***

焼山寺道(謎のスーツ男)

 声をかけてきたのは、幸が薄そ――いや、大人しそうな痩せ型の男だった。年は二十四、五歳ぐらいだろうか。
 白衣を羽織り、背中には大きなリュック。さっき「君も」と言っていたので、きっとこの男も歩きで巡っているのだろう。
 全然、歩く格好には見えないけど。
 男の服装――白衣の下はスーツだった。糊の利いたシャツに、カチッと締められたネクタイ。そして極めつけは、グレーのスーツによく似合う黒の革靴。炎天下をこんな格好で歩いたら、俺なら間違いなく熱中症で倒れるだろう。
「歩き遍路かい?」
 服装に気をとられていた俺に、男は同じ質問を繰り返した。
 内心面倒臭かったが、無視して通り過ぎるわけにもいかず、俺は「そうだ」と答えた。
「そっちの方角から歩いてきたってことは、順打ちかい?」
「はい。そうですけど……」
「そうか。僕と同じだね」
 ニコニコと笑う男。
「えっと……先を急ぎますので、失礼します」
 そう言って背を向けようとした矢先、思いっきり腕を引っ張られた。
「な、何ですか!?」
 見かけによらず力が強い。掴まれた腕を振りほどくことができなかった。
「君、もう行っちゃうのかい!? ちょっと待ってくれよ。もう少し、僕の相手をしてくれてもいいじゃないか」
「はぁ!?」
 何なんだ、この人!まさか変質者!?俺、襲われるの!!?
 テンパる俺。
 頭の中はパニック状態だったが、それを悟られないように平静を装って相手を睨みつけた。
「あの、手を離してくれませんか。痛いんですけど」
「あ、ああ。すまない」
 男の手が離れた瞬間、全力で走り去ろう。
 と考えていたが、それは失敗に終わった。
「恵~!」
 背後から覚えのある声が聞こえてきたからだ。見れば、あゆみがたいさんを抱えて小走りで近づいてくる。八八さんたちの姿はなかった。
「けい? ――もしかして、君」
 がしっと今度は両肩を掴まれた。
 しまった!あゆみに気をとられて、こっちがお留守になっていた!
 頬を嫌な汗が伝う。
 男が、ずいっと顔を近づけてきた。俺ピンチ。
「君、幸野恵くん、かい?」
「………………はい?」
 思考が停止する。
 そこにあゆみが駆けつけてきた。あゆみは俺と男の顔を交互に見比べる。
「何しよるん? こちらの方は恵の知り合い?」
「そう、なんかな……?」
 まったく、記憶にございませんが。
 両肩を掴まれたまま、俺は歯切れの悪い返事を返すのだった。

つづく


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