第十二話<焼山寺(後編)>

文章・絵:SHIZUMU(OpenDesign) 制作:OpenDesign


遍路ころがし(焼山寺みち)/山下幸夫

「もしかして、君、幸野恵くんかい?」
 俺の両肩を左右の手でがっしりと掴(つか)んで、スーツ姿の男が言った。
 細身でひ弱そうな外見とは裏腹に意外と力が強い。振り払おうと身体を捻(ね)じったが、その手はびくともしなかった。
「いやあ、久しぶりだね。まさかこんな場所で出くわすとは思ってもいなかったよ」
 男は数年来の友人と久方ぶりの再会を果たしたかのようなノリで、俺の顔を覗き込みながら嬉しそうに目を細めた。
「え!? ちょ、あのっ!」
 顔近いしっ! 互いの吐息を感じるかどうかの近距離で、そんな朗らかな笑顔を見せつけられても対処に困る。
 俺はいろいろな意味でドギマギしながら考えていた。
 ――――誰だ!?
 考えたところで思い当たる節はない。記憶の片隅にもひっかからない。といっても、元クラスメイト渡部孝之(わたなべたかゆき)の一件もあるので、俺が単に忘れてしまっているだけ、という可能性は大いにあるわけだが。
「恵の知り合いなん?」
 声をひそめて話しかけてくるあゆみに、俺は曖昧な返事をするしかなかった。
 そんな俺に、男は大して気にした様子もなく言葉を紡いだ。
「ああ、すまない。僕のことなんて覚えていないよね。いやなに、別に気にしてくれなくとも構わないよ。何せ三年前の、それもたった二十日間だけの繋(つな)がりだからね」
 ふっと肩にかかった重みが消えたかと思うと、男は半歩ほど下がって柔和な笑みを浮かべた。
「僕が教育実習でお世話になった中学校のクラスに君がいたんだよ。二年一組、出席番号八番の幸野恵くん」
 中学二年のとき……言われてみれば、ひょろい実習生の記憶があるような。
 つか、この人。よくそんな細かいことまで覚えてるよな。ちょっと気持ち悪いぞ。
「教育実習? ってことは、学校の先生をしよるん?」
 何やら興味を持ったらしく、あゆみが話にくいついてきた。
「うん。そうだよ。今年から母校の樽戸(たると)中学校で、国語の教師をさせてもらっているんだ」
「国語の先生なんや! すごいね!」
「いやいや、そんなことはないよ。困ったな、そんなにストレートに褒められると照れてしまうじゃないか。ああ、そういえば、自己紹介がまだだったね。僕は山下幸夫(やましたさちお)、一月六日生まれの二十五歳さ。君の名前は? 幸野くんのお友達かい?」
「あたしは、あゆみって言うんよ。んっと、恵とは……遠い親戚なんよ!」
「そうなんだ。よろしくね、あゆみちゃん」
 あっという間に打ち解けあう二人。
 誰とでもすぐに仲良くなれるあゆみはすごいと思う。だけどちょっとは警戒心ってヤツを養ったほうがいい気がする……。肩を掴んでいたときの男の顔を思い出して、少し背筋がひんやりとした。
 しかし、俺たちの関係を「親戚」だと言ってくれたのはナイスだ。最初にそう言っておけば後々余計な詮索をされることもないだろう。
 実際のところ、聞かれたところで何と答えるべきか迷ってしまう。知り合いと呼べるかも微妙なところだ。そう言えば、あゆみの苗字って何て言うんだろう。ふと、そんなことを考えた。

「それにしても、あの幸野くんが遍路とはね。少し意外だったかな。まあ、意外性で言えば僕も似たようなものか、ははは」
 あゆみと握手を交わした後、俺のほうへ向き直る国語教師。
 そして人の顔をまじまじと見つめながら、三年前を懐かしむように目を眇(すが)めて言った。
「あの頃の君は一貫して無駄なことはしないというスタンスだったのにね。おっと、そんな言い方をすると誤解されてしまいそうだけど、勘違いしないでくれよ。誰も、君が今遍路をしていることを『無駄な行為だ』などと言うつもりはないんだ。遍路は素晴らしい文化だからね。始めたばかりの僕にだって、それくらいは分かっているよ。そして、君が何らかの事情を抱えて歩いているだろうことは想像に難くない。なぜかって? それは、この僕も同じだからさ。――とりあえず、気に障ったなら謝るよ」
 職業病なのか、それともこれが性分なのかは分からないが、よくしゃべる。
 正直、ウザ……もとい、面倒臭い。
「そうそう、幸野くん。君は授業中によく居眠りをしていたよね。授業の話なんてろくに聞いていなかっただろうに、当てられれば平然と“正解”を答えてさ。教壇に立つ側からみれば、どんなに可愛げのない子供に映っていたことか。その上、試験の成績は常にトップクラスときたものだ。頭の固い年寄り連中がブツブツ言っていたのを覚えているよ」
 先生のおしゃべりは続く。俺はそろそろ嫌気がさしてきた。
「僕としては、君みたいなタイプは嫌いじゃなかったよ。君はするべきことはきちんとこなして、まるで“そうあることが当然”だと言わんばかりに、他人(ひと)より上の結果を出していたよね。そして、その裏に隠されていただろう努力の跡は決して見せることがなかった。そんな全てに対して『どうでもいい』みたいな、冷めた態度をとることができるのは、一種の『能力』と言っても過言ではないだろうね」
 まだ続く。
「ただ、そういう人間は得てして人間関係に問題がありそうなものだけど、君に限って言えば、それは当てはまらなかったね。確かに、多少はクラスの中で浮いていた感は否めなかったけれど、あれくらいなら十分許容し得る範囲だよ。そう考えると、君は周りと折り合いをつけるのも上手かったようだね。だから幸野くん。君はその『能力』を誇っても構わない。けれど、一つ思い違いをしてほしくないのは、そんな振る舞いが許されるのは『実力』が伴っている間だけだ。そうでないと、無気力でつまらない、薄っぺらい野郎だと思われてしまうからね。ま、君にはそんな心配、無用だろうけど。――っと、すまない。話が逸(そ)れてしまったね。ええっと、何の話をしていたんだっけ?」
 まだまだ続く。
「ともあれ、僕は君を高く評価していたし、さらには好ましいとさえ思っていたのさ。それなのに君ときたら、実習の最終日、僕が最後の挨拶を述べている間も机に突っ伏して眠っていたよね。本当、あれには参ったよ。あのときは流石の僕も腹が立ったけど、まあ、今となってはいい思い出かな」
 かみしめるように目を閉じる先生。語った本人に悪気はないのだろう。が、聞いていた俺らはうんざりだ。
 打ち解けていたはずのあゆみですら、一歩身を引くレベル。気分的には一歩どころか軽く百歩は退(ひ)いていただろう。
 本当、面倒なヤツに引っかかったものだ……。心の中で毒づきながら、どう対応すべきかを考えた結果、とりあえず会話を続けることに決めた。今しがた、周りと上手く折り合いをつけられる人間だと褒められたばかりだし。
 これでも常に常識人であろうとする俺は、そつなくこの場を離れられるように、そして相手が目上であることを考慮しつつ、言葉を選ぶ。
 ……つもりだった。
 気がつけば、俺はこんなこと――とりわけ張り合おうなんて意識したつもりはなかったのに!――を言っていた。
「ご無沙汰してます、山下先生。随分と印象が変わられて、正直驚きました。教育実習のときにお会いした先生は、もっと寡黙で、もっと大人びた方だったと記憶しておりましたので。――そういえば実習初日、緊張のあまり教壇で嘔吐するという事件もありましたよね。でもまあ、今となっては、それもいい思い出でしょう」
 それを聞いて、先生の顔が微かに引き攣(つ)る。
「は、ははは……人が悪いなあ、幸野くん。よりによって、そんな覚えていてほしくないことだけ覚えているなんて。それは言わない約束だろう?」
 別に約束をした覚えはないけどな。
 ばつが悪そうに頭をかく先生。その仕草は三年前にも見たような気がした。
 と、白衣の裾が引っ張られていることに気がついた。
「あたし、先に行っとくね。積もる話もあるやろうし、恵は後から走って追いかけてきてくれたらいいけん」
 あゆみがそっと耳打ちしてくる。
「はい、コレ渡しとく。この『伝達符』があれば、どんなに離れても連絡を取り合うことができるんよ。携帯電話みたいなもんかな? 使い方は――ま、使ってみたら分かると思うけん。それじゃ、また後でね!」
「は!? おい、待――」
 あゆみは俺に一枚の札を押しつけると、脱兎のごとく走り去った。
 またたく間に遠ざかるミニスカートの白衣少女。その背中には、たいさんがちゃっかりとしがみついていた。
 二人の姿が完全に視界から消えた後、一人残された俺は考えた。
 走って追いかけてこいとか……何という無茶振りをするんだ、あいつは。
 つか、こんな先生との間に、積もる話なんかねえし……。
 そして、ハッとした。
 そういえば、俺は「女の子がたった一人で山道を歩くのは危険だ」というから、仕方なしに、焼山寺に到着するまでという条件で一緒に行動することを決めたんじゃなかったっけ?
 なのに、そのあゆみが一人で先に行ってしまった。この状況、どう考えてもおかしいだろう。
 だが、今はそのことについてとやかく言っている場合ではない。目前の心底面倒臭い先生から、いかに迅速かつ確実に距離をとるかを考えることが先決だ。
 そして。
 今のこのタイミングは、行動を起こす絶好のチャンスだ。
 あゆみが走り去ってくれた今だからこそ、それを理由にこの場所から離脱することができる。
 そうだ、動くなら今しかない!
「先生! 連れが行ってしまったんで、俺も先を急ぎます!」
 俺は「失礼します」と軽く頭を下げて、即座に立ち去ろうとした。――が、先生の両手がそれを許さなかった。
「ちょ、またかっ!?」
 またしても捕縛される俺の腕。
 だが、今回は負けるわけにいかない。渾身の力をふり絞って前進する。
 ズ、ズズズ……。先生の革靴の底が、地面を擦る。
「ちょちょちょっと! そんなに急がなくてもいいじゃないか。まだ十時半を過ぎたばかりだし、納経所が閉まる十七時には、十分余裕があるだろ」
 引きずられて流石に焦りを見せる先生。
「生憎ですが、俺には全く余裕がないんで!」
 時間がどうこうよりも、気持ちの余裕を失いつつある俺。
 俺たち二人の攻防は続く。
「大丈夫大丈夫。君の足なら問題ないさ!」
 先生粘る。そしてこのままでは埒が明かないと判断したのか、俺の腕を掴(つか)む手に一層力を込めた。
 瞬間、形勢が一気に先生へと傾く。
 ――なっ!?
「あと一時間、いや三十分で構わない。もう暫く、僕の話し相手になっておくれよ!」
 ダメ押しと言わんばかりに、畳み掛けてくる先生。
「ひぃっ」
 何なんだ、マジで! てか、腕痛いし! 終(しま)いには泣くぞ、おい!
 あゆみいぃぃ! 助けてくれえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!

***

遍路ころがし(焼山寺みち)2

 恵に呼ばれた気がして、あたしは足を止めた。
 が、振り返ったところで人影はない。
 念のために円を描くように辺りを見回したけれど、目に映るのは青く茂った草木ばかりで、人っ子一人見当たらなかった。
「ん。気のせいやね」
 ま、当然だけど。
 なぜなら、恵――いや、本命はあの先生の方だ――から離れたくて、結構な距離を全力で走ってきたのだ。そう簡単に追いつかれるはずがない。
「これぐらい距離を置けば、そうそう追いついてくることはあるまい。それにしても娘よ。流石、山道は慣れたものだな」
 たいさんが感心したように言った。その声はあたしの真後ろ、それもすごく近いところから聞こえてくる。
「うん。幼い頃から山の中を走り回りよったけんね。……で、そろそろ背中から降りてもらってもいいかな」
 あたしは、背中に張りついたたいさんを剥ぎ取ると、その丸い身体を地面に転がした。
「何だ、もう少し楽をさせてくれてもいいだろうに。おぬし、見たところ呼吸に乱れがないが、体力にはまだ余裕があるのだろう?」
 転がされたままの格好で、たいさんがぼやく。
 あたしは聞こえないフリをして、もう一度通ってきた道を振り返った。
「恵、置いてきちゃったけど……大丈夫だよね」
 今更なのは分かっているけれど、呟かずにはいられなかった。
 あの国語教師の、あまりのウザさに我慢ができなくなって、恵を生贄に自分たちだけ逃げてきたのだ。そんな後ろめたさからの台詞だった。――っと、いけないいけない。思わず「ウザい」なんて言っちゃった。てへぺろ☆
「大丈夫でしょ。あいつには『伝達符』を持たせてるんだから、いつでも会話できるし、お互いの位置だって確認し合えるわ。勝手に居なくなったりはしないと思うけど?」
 そこに、ピンク色の髪をなびかせて、身体は小さいけれど態度――じゃなかった、存在は大きい淡桜さんが姿を現した。
「あ、いや……心配なんはそっちやなくて」
 山下幸夫と名乗ったあの若い中学校教師。
「さっきの先生、なんか変態チックな人やったけん、恵は大丈夫かなって」
「ああ……」
「大丈夫、だよね……?」
「…………」
 そこで黙られるとすっごい不安なんやけど、淡桜さん。それも真顔で。
「あやつはああ見えて、人のいいところがあるからな。男を突き放すことはできないだろうが、何とか上手く切り抜けるだろう」
 不穏な空気を払うように口をはさむたいさん。
 たいさんは、相変わらず横たわったままで起き上がろうとしない。その態度は暗に「背負ってくれ」と催促しているように見える。
 あたしは無視して淡桜さんに視線を戻した。
 すると視界の外側の少し低い位置から「ちっ」と舌打ちする音が聞こえた気がした。だけど、それも聞こえていないフリを続けていると、たいさんは諦めたように身体を起こした。
 ふふふ、根競(くら)べはどうやらあたしの勝ちやね!
「――あのさ、折角走ってきたのに、こんなところで立ち話なんてしてたら意味がないと思うけど?」
 たいさんとの勝負を冷ややかな目で見守っていた淡桜さんは、溜め息をつきながら呆れた口調で言った。
「そうやね。恵が先生を連れて追いつかんとも限らんけんね」
「あの男の話は、聞いているだけで神経が摩耗するからな。できれば関わりたくないものだ」
「同感」
 あたしたち三人――正しくは二人と一匹は、顔を見合わせて頷いた。

***

 ――落ち着け。落ち着くんだ、俺!
 スーツ姿の国語教師に尋常でないほどの執念を見せつけられて、俺は無闇にこの場所から抜け出そうともがくのはやめにした。
 人間、諦めが肝心なのだ。諦めれば楽になるという言葉もよく耳にするだろう。
 そこで、俺は先生にこんな提案をした。
『焼山寺まで、一緒に行きませんか?』
 勿論、一緒に行きたいなんて、全然! まったく! これっぽっちも! 思っていなかったが。それでも、この場所から一歩も動かずに時間を浪費するよりは、幾分建設的な意見だろう。
 とまあ、実際に提言した今となっては別に何てことないのだが、そこに至るまでには、かなりの葛藤があった。
 大袈裟でもなく、俺にとってそれは諸刃の剣、究極なまでに苦肉の策だった。
 だからこそ、それなりにイロイロ覚悟をした上での発言だったのだが――
 それを聞いた先生は、静かに首を横に振った。
「すまない。僕はここから動けないんだ」
 そう言って、切なそうに目を伏せた。
 拍子抜けだったが内心ほっとしたのも事実だ。
 だが、そこでふと、ある考えが頭をよぎった。
 もしかして、先生は怪我でもしているのではないだろうか。
 先生が執拗なまでに俺を引きとめようとしたのは、怪我で動けない心細さを紛らわせるため。人通りの少ないこの場所で、偶然にも見知った顔と出会えたなら、きっと俺だって喜んだはずだ。そう考えると納得できる。
 だけど、先生が次に発した言葉は、俺の想像の斜め上をいくものだった。
「これ以上進んでしまったら、僕は最後まで歩かなくてはならなくなる。――そうだろう?」
 いや、そうだろうって言われても。
「おっしゃっている意味が、イマイチ解(わか)らないのですけど……」
 俺ポカーン。
 先生は「だからね」と、生徒を諭すような口調で続ける。
「今、僕には二つの選択肢が与えられているんだ。なんだか分かるかい? うん、そうだね。『進む』か『戻る』かだ」
 一人ツッコミならぬ、一人授業とでも言えばいいのだろうか。自分で出した質問に自分で答える先生。
「この地点なら、前に進むことも後ろに引き返すことも、どちらも選択が可能だ。だけど、これ以上奥へ進んでしまったら後戻りが難しくなってしまう。そしたら僕は最後まで歩くほかなくなってしまうのさ」
 ええっと。……だから、何?
 というか、この人は『そんなこと』で立ち止まっていたのか。他人(おれ)を巻き込んで。
 一瞬とはいえ、怪我をして動けないのかと心配してしまった俺が馬鹿みたいだ。
 それに、遍路なんてやめたければいつでも――
「君はきっと、僕を変な奴だと思っているよね。歩きたくないなら、とやかく言わずにやめればいい、そう思っているはずだ」
 先生は、俺の心を見透かしたように言った。
「確かにそうだよね。昔は生きていくために遍路をするという人もいたらしいけど、少なくとも今の僕は、そうじゃない。やめたところで、忽(たちま)ち生きていけなくなるわけでもないし、今までの生活が変わることすらないだろうね」


お遍路さん

 もともと遍路は僧を中心とした修行のためのものだった。
 やがて、弘法大師信仰が民衆の間にも浸透し、江戸時代には庶民の四国巡礼も盛んに行われるようになった。
 その頃から、修行僧や信仰目的の巡礼者だけでなく『職業遍路』――一時的な遍路ではなく、四国を巡り続けることを職とした人々の姿も見られるようになった。
 四国遍路には『お接待』という風習がある。『お接待』とは、無償で宿や食事などを提供し、巡礼者を支援するというものだ。
 何らかの事情で故郷を追われた者、また捨てざるを得なかった者たちは、この『お接待』を当てに四国を歩いた。
 彼らにとって、「歩く」ことは「生きる」ことと同義。
 生きるためには、歩き続けるしかなかった。
 彼らには、それ以外の選択肢が与えられていなかったのだ。

「そもそも、僕が遍路を始めたのは、僕の意志だ。誰かに強制されたわけじゃない。だからやめるときも、自分の意志で決めたらいい。それは分かっているよ。だけどね――」
「で、結局のところ、先生はやめたいのですか?」
 放っておけば延々しゃべりかねない先生に、俺は話の途中で水を差した。
 先生は、結論を急かす俺の意図に気がついた様子で、苦笑いを浮かべる。
「ははは、つれないなあ。話くらいゆっくり聞いてくれてもいいとは思わないかい? ああ、なるほど。君には時間に余裕がないんだっけ」
 ようやく気づいてもらえたようだ。もはや、遅ぇよ!と不満を漏らす気にもなれない。
 時刻は十一時をまわったらしい。そろそろ焼山寺に向けて歩き出さなくては、冗談抜きで間に合わなくなりそうだ。
「幸野くん、君に一つ質問をしてもいいかい?」
「どうぞ。……の前に、いい加減、手を放してほしいのですけど」
 かれこれ、三十分近く握られっぱなしなんだが。
「え? あああ、すまないっ!」
 たった今、気がつきましたと言わんばかりに、先生は慌てた様子で両手を引っ込めた。
 やっと自由を取り戻した俺の左腕。長い間、しかも力いっぱい握られていたせいで、すっかり感覚がなくなっている。
「それで、質問というのは何ですか?」
 俺は腕を擦(さす)りながら、話を進めるよう促した。ついでに、その質問に答えたら先生の話相手も終わりにすると念押しすることも忘れない。
「うん、君に聞きたいのはね、もし君が僕なら『この状況をどう打破するか』ってことなんだ」
 何とも漠然とした問いかけだった。
「この状況、と言うのは?」
 俺は先生に聞き返した。
「まさにこの瞬間、この局面のことさ。『進む』か、それとも『戻る』か。二つある選択肢のうち、どちらを選ぶのが正解なのだろう。断っておくけど、僕は歩くのが嫌になったとか、遍路をやめたくなったとか、そんなことは思っていないんだ。いや、一度やると決めた以上、僕には途中でやめることは許されない。今までの人生を無駄にしないためにも、絶対歩きとおす、それくらいの気概は持ち合わせているさ。……それなのに、次の一歩がなかなか踏み出せないんだよ」
 俺は右から左へ聞き流しながら、「そうですか」とだけ相槌を打った。
 先生は暫く『答え』を待つように、黙って俺の顔を覗っていたが、俺がそれ以上何も言わないと分かると、また口を開いた。
「君は今、なぜこんなことを君に聞くのか疑問に感じているんじゃないかな。――君はね、僕に似ているんだ。あの日、教育実習で初めて君を見かけたときからそう思っていたよ。だから、君なら僕の悩みを理解してくれるって思ったんだ。そして、僕の欲しい答えを与えてくれるんじゃないか、ってね」
 ……てね――じゃねえし。
 つまるところ、今後の行方を俺に決めてくれ、ということらしい。
 いや「絶対歩きとおす」と言い切っている以上、行く手も決まっている。打破するも何も、ただ、自身が「進もう」と決心し、歩き出せるかどうかの問題だ。
 ――まあ、それができないから、今ここで俺とこんな話をしているのだろうけど。
 俺は大きく溜め息をついた。
 とりあえず、解はもう出ている。
『甘えるな』
 もしくは『ふざけるな』のどちらかだ。阿呆らしい。
 それでも、俺は努めて丁寧に回答した。
「そうですね。まず、似ている似ていないは関係なく、先生と俺は『同じ』じゃないんです。他人である先生の気持ちなんて、俺には分かりませんよ。まして、その本人が迷い倦(あぐ)ねていることを、俺なんかが決められるはずないじゃないですか。それに、――いえ、何でもないです」
 俺はもう一言付け加えようとして、やめた。
「――結論を言うと、他人の選択肢は、俺には選べないということです。そんなものは、先生ご自身で決めてください」
 ともあれ『答え』は返した。俺の務めは終了。
 もう一度、携帯の時計を確認した。
 あゆみたちと別れて、もうじき四十五分が経過する。俺とあゆみたちの間には、かなりの距離がひらいていることだろう。早く、追いかけなければ。
「それでは、約束なんで俺は先に行きます。先生はゆっくり考えてください」
 俺はそう言うと、先生の返事を聞くことなく駆け出した。
 細い山道を全力で走り抜ける。
 地面の悪さなど気にしてはいられない。道の両側には草木が茂り、たまに足や腕を引っ掻いたが、とにかく足を動かすことだけに意識を集中した。
 ――ふっと視界に影ができた。
「おいおい、いきなり走り出すなんて、案外せっかちなんだね、君」
 ぎゃああああああ! 何、ついてきてんの、この人!? しかも、足はえええ!!
 俺の真横にピッタリとはりついて、これ以上ないくらいの爽やかな笑顔を見せるスーツ教師。ちなみに足元は高級そうな革靴。
「ははは、意外だっただろう? こう見えてスポーツは得意なんだ。勤務先の中学校で、サッカー部の副顧問を任されていてね、毎日生徒に混ざってグラウンドを走り回っているのさ」

***

遍路ころがし(焼山寺みち)2/たいさん・八八さんたち

 またしても、恵の悲鳴が聞こえた気がして、あたしは足を止めた。
 振り返ったが人影はない。
「娘よ、どうかしたのか?」
 立ち止まったあたしに気づいて、少し前を歩いていたたいさんが引き返してくる。
「ううん、何でもないんよ。気にせんで」
「ふむ。ならば早く来るのだ。次はおぬしの番だぞ」
 前方に視線を戻すと、そこには八八さん五人の姿があった。
「あゆみさん、次は『き』ですよ」
 二葉さんがにっこりと微笑む。
 むむ、『き』か。………………あ!
「きょうはくじょう(脅迫状)!」
 あたしはそう言うと、黒鐘さんに視線を送った。
「う、う……うーぱーるーぱー(ウーパールーパー)」
「ぱ!?」
 黒鐘さんの言葉に素っ頓狂な声を上げる蔵杏羅さん。
「いや、『ぱー』ね。長音も含めるルールでしょ、歌蔵」
「うわああん。リンちゃんの意地悪っ」
 涙ぐむ蔵杏羅さんだったが、すぐに持ち返した。
「ぱーきんぐえりあ(パーキングエリア)! これでどうだっ」
「おおお!!」
 歓声をあげる一同。
「えっとぉ、次は私でいいのぉ? んー、あいがんどうぶつ(愛玩動物)」
「つるのおんがえし(鶴の恩返し)」
「しょかつこうめい(諸葛孔明)」
「いちぼくいっそう(一木一草)」
「また『う』やね……んーと」
 あたしたちは、焼山寺に着くまで延々しりとり――「八文字縛り」というなかなか鬼畜な仕様だった――をして遊んだ。
 恵のことが気がかりでならなかったあたしにとって、そのゲームは気を紛らわすのに丁度よかった。
 ただ、ちょっと白熱しすぎて途中から恵の存在を忘れてしまっていた、というのは秘密。

***

「ぜぇぜぇ……ったく、こんなに走ったの何年ぶりだよ……」
「はぁはぁ……君、足速いんだねえ。流石に革靴で張り合うのは無謀だったよ。……いやぁ、危うく置いていかれるところだった」
 くっ、素直に置いていかれりゃよかったのに。
 憎まれ口の一つでも返してやろうと思ったが、乱れた呼吸が邪魔をして何も言えなかった。
 地面に倒れ込んで、男二人が空を仰ぐ。
 大の大人が並列に寝転ぶと、この細い山道は完全に塞がれてしまうのだが、一度倒した身体は簡単には動いてくれそうにない。通行人が現れないことを祈りつつ空を眺めた。
 木々の隙間から、眩しい陽光(ひかり)が降り注いでいる。
 時折り吹く風が心地よい。
 まずい。このまま眠ってしまいそうだ。
 ふと、真横に寝転がった先生が、何やらモゾモゾ動いているのに気がついた。
「何して――って、ちょおおお!? 何、脱いでんのさ、あんた!!?」
 ネクタイを解き、シャツの前ボタンを全部外して胸をはだけさせる中学校教師。
 先生は「だって暑いし。通行人もいないし別に構わないだろう?」とさらりと答えた。
 いやまあ、確かに暑いだろうよ。こんな真夏にスーツなんて着てたら……っていやいやいや。気持ちは分からなくもないけど、だからといってこんな場所で! 誰か通りかかったらどうす――
「おやおや、兄ちゃんたち。道の真ん中で何て恰好をしているんだい。場所は選ばんといかんぞ」
「うわぁ――」
 突然の声に、口から心臓が飛び出るかと思った。というか「兄ちゃんたち」って……。同類に思われたことがショックすぎる!
 俺は大慌てで上半身を起こして辺りを見回した。
 進行方向から小柄で血色のいいおじいさんが歩いてくる。
「はっはっはっ。ま、この暑さだ。ダレるのも仕方がないわな。――よっと、前を失礼するよ」
 おじいさんは疲労困憊した俺たちを横目に、笑いながら通り過ぎようとしたが、先生の顔を見て足を止めた。
「おや、誰かと思えば、新米教師の兄ちゃんじゃねえかい。そうかそうか、ようやく決心したってわけだ」
「ははは……なし崩し的にって感じですけどね」
 先生はそう言いながら頭をかいた。


木漏れ日

「――さっきのおじいさんはね、元陸上の長距離走選手だったそうだよ。それで週に二、三回ほど、この焼山寺道を歩くのを習慣にしているんだって」
 おじいさんの姿が視界から消えたころ、先生は聞いてもいないのに説明をしてくれた。
 ふうん。――って、ちょっと待て。
「先生、いつからここに……?」
「え。ここに着いたのは四日前かな。おっと、仕事を放り投げて来たわけじゃないよ。ちゃんと休暇届は出しているさ」
 別にそんなことは聞いていないが。
 しかし、四日前……だと? 俺は眩暈を覚えた。
 俺の隣で笑っているこの人は、あの『二つの選択肢』を前に四日間も思い悩み、とどまり続けていたというのか。
 それは単なる優柔不断という言葉だけでは片づけられない。ここまでくれば、いっそ敬意すら覚える。
「すみませんでした、先生!」
 俺は謝った。
 先生がそれほどまでの信念を持って、前進するのを躊躇していたなんて!
 それなのに、結果的にとはいえ、俺は先生をここまで引っ張ってきてしまった。
「先生、『進む』か『戻る』かは、やはり先生ご自身で決断するべきだと思います。なので、気が済むまでゆっくり考えてください。お一人で」
 俺は最後の「お一人で」を強調しながら立ち上がった。そして「それでは失礼します」と、本日何度目かの別れを告げて歩き出した。
「ま、待ってくれよ。ここまで来てしまったんだ、僕も進むさ。だから置いていかないでくれ」
 背後でガチャガチャと音がする。倒れ込んだはずみにリュックからこぼれた荷物を拾っているのだろう。
 何度か名前を呼ばれたが、俺は振り返らずに早足で歩いた。
 このまま距離があいて、先生が俺との同行を諦めてくれることを密かに狙っていたのだが、想像以上に体力があるらしいこの国語教師は難なく俺に追いついた。
 先生は軽快な足取りで俺に笑いかけた。乱れていたスーツもきっちりと整っている。
「男二人の旅も悪くないね。ほら、昔から旅は道連れっていうだろう。それに遍路の世界でも『どうこうふたり』って言葉があるじゃないか」
 同行二人(どうぎょうににん)、な。
 しかも二人連れなのは「お大師さん」とだ。先生、あんたとじゃない……。
 必要以上に疲れを覚えながら、俺はヨロヨロと歩みを進めた。

 ひたすら歩く。
 少し足に痛みを感じ始めた頃――永遠に続くのかと思われた獣道の先に、突如階段が現れた。
「幸野くん、早く来てごらんよ」
 いつの間にか俺を追い越して歩いていた先生が、階段の上で手招きをしていた。
 山道を散々歩いてきたところでコレとは。
 俺はげんなりしながら、一段一段上っていった。
「――――あ」
 階段を上りきったところで、思わず声が漏れた。
 そこにはお大師さんが、まるで俺たちを出迎えてくれているかのように佇(たたず)んでいたのだ。
 その姿に、俺は息をのんだ。
 竹藪に囲まれた空間。巨木を背に堂々と佇むお大師さんは、静粛を抱きながらも圧倒的な神々しさを孕(はら)んでいた。


浄蓮庵(一本杉庵)

 浄蓮庵(じょうれんあん)。
 浄蓮庵は焼山寺道で最も高い標高745メートルに位置し、阿弥陀如来を本尊とする仏堂。詳しくは一宿山(いっしゅくざん)浄蓮庵と号し、ここには徳島県指定天然記念物の「左右内の一本杉」があることから、一本杉庵とも呼ばれている。
 ここから焼山寺までは4.1キロメートル。
 なんだかんだで、三分の二を歩いてきたことになる。

「……不思議だね」
 一本杉の下に凝然と立つ弘法大師の像を仰ぎ見ながら、先生がぽつりと言った。
「何も言わず、ただそこに在(い)るだけなのに、僕の心にいろいろなことを問いかけてくるよ」
 そう呟く先生の横顔は、少し憂いを帯びていた。
「これが遍路の力なのかな。今なら僕の胸の内を素直に吐き出せそうだ……」
 何かを決意したような瞳。
 だけどその声は小さくて、俺は聞こえていないフリをしてその場所を後にした。

 浄蓮庵を出発してから、俺たち二人は言葉を交わすことなく黙々と山道を歩いた。
 その沈黙を先に破ったのは、先生のほうだった。
「幸野くん、僕の話を聞いてくれないかい?」
「長くなるならお断りします」
 俺はにべもなく答えた。
 だけど、それくらいで引き下がる先生ではない。
「なに、ちょっとした身の上話さ。僕の人生ってやつを語らせてくれよ」
「興味がないので結構です」
「冷たいなあ。しかも、そんな他人行儀な口調で」
「他人ですから」
 受け答えがどんどん雑になっていく俺。
 先生は何がおかしいのか、くすくす笑っていた。
「――ま、どうせお寺に着くまで話す以外にすることないんだしさ。僕は勝手に語らせてもらうよ」
 結局、そうなる。
 ……まあいいか。先生の言う通り他にすることもないし。と言っても、この先生の話を真面目に聞くのは疲れそうなので、聞き流す姿勢で待機。
「僕はね、失敗というものをしたことがないんだ」
「……は?」
 早くも聞き流すことに失敗する俺。
「ああ、もちろん小さなミスはいくらでもするよ。僕が言っているのは、取り返しのつかない大きなもののことさ。えっと、何て言ったかな。――そうそう、挫折ってやつだね」
 何を口走っているのか、この人は。自慢? 自慢ですかそれ?
 あまりの突拍子のなさに、思わず素で反応してしまった俺に、先生は全然気にした様子もなく話を続けた。
「僕の父も母も教師をしていてね、そんな両親のもとに生まれた僕は、生まれたその瞬間から教師になることを望まれていたのさ。それで、僕もよせばいいのに、小中高そして大学、大学院と、成績優秀スポーツ万能さらには人望も厚いという、完璧な人間として世間に認められながら、教師になるための勉強に励んだんだ。そしてそのまま、何の障害もなく教師になったというわけだよ」
 人望……厚い……?
 俺は突っ込みたい衝動を抑えるのに必死だった。何となくだが、突っ込んだら負けだという気分になっていた。 「さっきも言った通り、僕だって人並みに失敗することもあったさ。ほら、あまり思い出したくはないけど、教育実習の初日のアレだって、僕の人生においては立派な汚点だよね。だけど、それくらいのことなんだ。どうしようもないほどの失敗――言わば、挫折ってやつを僕は知らない。途中で何かを諦めるってことは、一度だって経験したことがないんだ。たとえ、その過程でどんな問題があったとしても、結果的には解決させてきたからね。結局、全ては僕の思い通りになるんだよ」
 ふむ。こいつは一度、孝之に会って同じことを話してみればいいと思う。そして羽交い絞めにでもされてしまえ。
 このときはまだ、先生が何の意図があってこんな話を始めたのか分かっていなかった。
 ただ、こんな完璧超人面(づら)したやつに「自分と似ている」と言われたことを思い出して心底気分が悪くなった。
 かくして、俺が苛々を募らせている間も先生は話し続けていたわけだが、その声色が途中で変わったことに気がついた。

少年時代の思い出

 僕は何をやっても上手くいく。
 そのことを意識し始めたのは、確か小学校から中学校に進学するあたり、所謂『思春期前期』と呼ばれる頃だったと思う。
 自己が確立され、自分と他人とを比較して、何かと順位付けをしたがる年頃。その過程で、僕は周囲からの評価――あの頃は専ら親や先生といった“大人”たちからのものだ――が、他の子どもよりも高いことを発見した。
 僕の行動は、決まって誰かが評価した。周りには同じような子どもたちが沢山いたにも関わらず、持ち上げられるのはいつも僕だった。
 そのことに「どうして僕ばかりが?」という疑問はなかった。それよりも「自分は認められている」「他人よりも評価されている」という事実が嬉しかった。
 いつしか、誰かの評価を得ることが行動原理になっていた。
 小学校、中学校、高校と成長していくにつれて、僕は僕の思い描いた通りの生活を送り、望んだ通りの評価を得るに至った。
 全ては、僕の思い通りに事が運んだ。上手くいかないことなんて一度もなかった。
 そんな僕に誰かが言った。
『ずっと上手くいく人生なんてない』
 僕が今まで失敗しなかったのは“子ども”だったからだ。学校という囲まれた環境で、“大人”という盾に守られていたからこそ、上手くできていただけのこと。
 だけど“大人”になれば、そうはいかない。後ろ盾がなくなれば、きっと僕だって上手くいかないことに行き当たる。
 自分の力ではどうにもできない何か。
 どんなに頑張っても報われない何か。
 八方ふさがり。破綻。屈服。挫折――いずれ訪れるだろうそれらに、僕は畏怖と、ある種の“憧れ”を抱くようになった。
 そしてそのまま、何の問題もなく高校を卒業し、
 大した苦労もなく大学に進学して、
 二十歳の誕生日を迎えたというだけで、僕は世間から“大人”として認められた。
 だけど。
 それらは一向に訪れなかった。
 結局、上手くいかないことなんてなかった。全ては思いのまま。周りは無条件に僕を受け入れた。
 その頃には『ずっと上手くいく人生なんてない』と僕に言ってくる誰かは現れなくなった。
 そして、今から三年前。
 両親の期待に応えるように教師を目指し、世間的に名大と言われるところの教育学部に進学していた僕は、教師になるための最終過程として、母校の中学校に教育実習生として訪れた。
 僕はこの教育実習で“何か起こるかもしれない”と淡い期待を抱いていた。沢山の人間――しかも世代も価値観も違う中学生と関わるのだ。きっと上手くいくことばかりではないはずだ、と。
 それに、中学校は義務教育。問題を起こした学生がいたとしても、学校側は基本的に退学をさせることがない。また、公立の中学校であれば、学区内の生徒が一堂に会するために学力にバラつきがあったりと、何かと難しい問題が多い。――そんな話を実習前に聞いていた。
 だが、終わってみればなんてことはなかった。
 僕の担当したクラスは確かに個性の強い生徒がごった返して、中には扱いにくい子もいたけれど、これといって問題視するような出来事は起こらなかった。
 初日に緊張のあまり例の失敗をしてしまったことを除けば、僕は総じて上手くやりきった。その証拠に、二十日間の実習を終える頃には、僕は安定して『優秀な実習生』の評価を得ていた。
 その後の二年間は大学院に通い、滞りなく教職修士の学位を取得した。
 大学院を卒業して社会に出た。そしてすぐに中学の国語教師として就職先――これまた希望通り、母校の樽戸(たると)中学校への赴任だった――が決まった。
 今年の四月から、僕は国語教師として教壇に立っている。
 生徒、保護者ともに評価は上々だ。同僚との関係も悪くない。僕を教師にすることを望んでいた両親は、ついに念願かなったと喜んでいる。

 概ね、僕の人生なんてこんなものだ。
 どんな節目を迎えても、必ず上手くやってきた。それは自惚れでも傲りでもなく、ただつまらないだけの真実でしかなかった。
 世の中、失敗ばかりの人生だと嘆く人がいる。
 ならば、成功ばかりの人生もあってしかるべきだ。
 それがたまたま僕の人生に重なった。ただ、それだけのこと。――そう思い至ったとき、“憧れ”は所詮“憧れ”だったのだと気がついた。
 そこで初めて、僕は何か引っかかりを感じた。
 だけど、それが何なのかは分からなかった。
 どんなに考えても、その『答え』は得られなかった。
 分からないまま日々を過ごした。
 そのうち、分からないことが分からなくなった。
 それでも僕の日々は変わらなかった。
 それくらいで僕の人生は変わりそうになかった。
 ただ、上手く廻っていく。自分の思い描いた通りに。きっと、これから先、ずっと。

「いつしか僕は、何をやっても上手くいく、全ては自分が思い描いた通りになるのだと、本気でそう思うようになっていたんだ。だけど、実際はそうじゃなかった。そのことに気づかせてくれたのは、一人の少年だったんだ――」
 依然として続く細道。
 木々に包まれた中で、先生の独白は続いた。

初夏の思い出

 長かった梅雨が明けた。
 僕が中学校教師となって初めて迎える夏。
 一足先に夏休みの準備をしようと週末を利用して実家に戻った僕は、自室の片隅に見覚えのない段ボール箱を見つけた。
 蓋を開けると、その中には大学時代の参考書、綴じ紐でまとめられた論文――そして、陽に焼けた原稿用紙が入っていた。
 僕は箱の中からその原稿用紙を取り出した。それは、教育実習の最終日、担当したクラスの生徒一人一人から貰った手紙だった。
 思えば、当時は卒業論文や課題に追われてゆっくり目を通す暇もなかった。後で読もう読もうと思いながら、いつしか忘れてしまっていたのだ。
 懐かしく思いながら、パラパラと原稿用紙をめくった。
『短い間でしたが、ありがとうございました』
『先生の授業、楽しかったです』
『今まで嫌いだった古典の授業が、先生のおかげで少し好きになりました』
『もっと、先生の授業を受けたかったです!』
『頑張ってください。応援しています』
『私の夢も国語の先生です。先生みたいなイイ先生になれるように頑張ります』
 そこには授業の感想やお礼、将来教師になる僕に対する激励の言葉が綴られていた。
 気がつけば、僕の口元は緩んでいた。
 あれほど個性の強かった誰彼が、等しく無難な言葉を選んでいる様が、おかしくもあり、愛おしくもあった。良くも悪くも当たり障りのない言葉の羅列だったけれど、そこにはかつての二年一組の姿が垣間見えた。
 手紙というのは面白いものだ。
 その場で発する言葉と違って、手紙は後に残る。残すことを目的とした文章を綴るとき、人は語句をつぶさに吟味し、文を組み立てていく。その文の端々、言い回しの一つ一つに個性が宿る。それは手紙に限らず、作文や小説、新聞記事にも共通して言えること。
 それらを読むことは、その背景に存在する書き手を識(し)るのと同意。
 さらに深く読み解くことで、いずれ書き手の思考に辿り着き、やがてその人の本質にさえ触れられる。
 だから、文章は面白い。その魅力に惹かれたからこそ、僕は数ある教科の中から国語の教師になることを選んだのだろう。
 僕は時間を忘れて読み耽った。
 そして、最後の一枚。
 それを見た瞬間、僕は思わず息をのんだ。
 机に拡げていた原稿用紙を乱暴に掴み上げると、そこに書かれてある文字列を食い入るように見つめた。
 一字一字丁寧に綴られた文章。
 その中にこの一文はあった。
『先生は誰のために先生という道を選んだのですか?』
 それは、賛辞でも激励でも批判でもない、純乎たる疑問。
 そこに他意などない。聞きたかったから、聞いた。ただ、それだけ。
 実に青臭い稚拙な発想。
 だけど、僕はそれに心を奪われた。
 「何のため」ではなく「誰のため」――その一文は、僕が忘れかけていた引っかかりの『答え』に触れるものだった。
 そして、それこそが僕の本質だった。

「僕はね、周囲の人たちに認めて欲しかった。何より評価が欲しかった。『承認欲求』の塊、それが僕の本質だったんだね。その文章を読んで、それに初めて気がついた――いや、初めて“自覚”させられたんだ」
 俺は黙ったまま、先生の話に耳を傾けていた。
 暑くて、喉が渇いて、足も痛くて、急な坂道に呼吸さえままならなくて、辺り一帯で鳴き叫んでいるはずの蝉の声が遠くに聞こえるほど、頭はぼうっとしているのに――不思議と先生の声だけは鮮明に響いていた。
「思えば、いつも誰の目を気にしていた。誰かに認められるように、誰かの望みに適うように、それだけを気にしながら生きてきたんだ。そのおかげで誰とも衝突することがなかったよ。まあ、当然だよね。その誰かの望むままに行動していたんだから、反感をかうなんてありえない。そして、そんな衝突のない状況が、上手くいっている証なのだと、僕は勘違いしてしまっていたんだ」
「……いや、それは別に勘違いじゃないと思うのですけど」
 俺はつい、口をはさんでしまった。最初のうちは深入りせず、何の感想も意見も持たずに、ただ聞き流してやり過ごそうと思っていたのに。
 だけど考えが次々に浮かんできてしまう。この歩く以外にすることがないという状況が、思考回路を活性化してしまったのかは分からない。ただ、他人と深く関わり合いになるのが苦手な俺の意志に反して、思考はさらに奥へと沈み込もうとしていた。
「誰とも諍(いさか)いなく過ごせるのであれば、それだけで十分“上手くいっている”と言える気がするのですが。実際、先生の人生は『自他ともに認める順風な人生』だと思いますし」
 俺は「――もっとも」と付言した。
「それはあくまで俺の感想、他人視点の意見ですけどね」
 それを聞いて、先生はおかしそうに唇を歪めた。
「あくまで他人視点、か。――うん、まさにその通りなんだよ。……今までの人生を振り返って、果たしてそれが本当に自分の思い描いた通りのものだったのか――自分視点で考えたとき、僕は自信を持って『そうだった』と言い切れない自分に気がついたんだ」
 先生はそう言った。相変わらず持って回った言い方が続く。
 俺は山歩きに疲れていたし、いい加減回りくどい言葉を選ぶのくたびれてきたので、ぽろっと本音をこぼしてしまった。
「当然だと思いますよ。先生はいつも他人(ひと)のことだけ考えて、他人が望む通りに生きてきたのでしょう?」
 そんなものは、本人が思い描いた人生とは言えない。他人の思うままの人生だ。
 そう言った途端、先生が動きを止めた。ありゃ……気に障ったのかもしれない。
 俺の心配に反して、先生は声を上げて笑い出した。
「ははは。君ならそう言ってくれると思っていたよ、幸野くん。君はあのとき、たった二十日という短い実習期間で、誰も――本人すらも気づいていなかった僕の本質に触れてくれたのだから」
「えっと……言ってる意味が分からないのですけど……」
 教育実習のとき? 何かしたっけ、俺……?
 つか、この先生やべぇ……背筋がぞわっとするというか、言い知れぬ不安を感じながら後ずさる俺に、先生はリュックのポケットから取り出した一枚の紙を差し出した。
 それは四百字詰め原稿用紙だった。
 ぎっしりと文字で埋められたマスの枠外に、その名前が書かれていた。
 『二年一組 八番  幸野 恵』
 …………俺?
「その様子じゃ書いたことを忘れているみたいだね。……仕方がない、僕が読んであげよう。そうすれば、きっと君も思い出してくれるはずさ」
「やめてください」
 即答。
 過去に書いた手紙を読み返すほど恥ずかしいことはないぞ。しかも宛てた本人による音読というオプション付き!
「でもまあ、君が覚えているかどうかなんて些細な問題でしかないんだ。さらに言うなら、あのときの君が気紛れに書いただけなのだとしても、僕が君の言葉に衝撃を与えられたという事実には変わりがないからね」
 先生は原稿用紙を丁寧に折りたたむと、再びリュックへと仕舞った。
「そんな言い方をすると、大袈裟に聞こえてしまうかもしれないね。でも、僕にとっては大袈裟でもなんでもないんだ。君の言葉は僕の人生観に亀裂を入れたと言ってもいい。もっとも、僕の人生観なんて、君に言われる以前からすでにひび割ればかりだったのだろうけどね。それでも、周りは誰も気づいていなかった。もし気づいていたとしても、あえて言ってくれる人なんて、僕の周りにはいなかったんだよ」

心の中

『先生は誰のために先生という道を選んだのですか?』
 その一文はただのきっかけにすぎいない。
 歪みは以前からあった。
 僕は何か引っかかりを感じながらもそれに気づかないフリをしていただけ。
 だけど気づかされた。
 いや、自覚させられたのだ。
 だからそれは――確かに小さなきっかけにすぎなかったけれど――結果として、僕の全てを暴き出し否定し再生不可能なレベルまで破壊し尽くすには十分の威力を孕んでいた。
 僕は、僕の思い描いた道を選んでいたつもりで、実際は他人が思い描いた道を進まされていたのだ。
 そんな気づきたくなかったことさえ気づかされた。
 僕は何をやっても上手くいった。その実、何をやっても上手くいっていなかった。
 他人の意向ばかり気にしていた僕には、自己の意志が欠けていた。上手くいっていたのは他人視点。自分視点の概念がそもそも存在していなかった。

 僕は今まで、何をしていたのだろう。
 そして、
 僕は今から、何をしたいのだろうか。

 分からなくなった。
 アイデンティティの崩壊。僕の二十五年間がまたたく間に無に帰すような感覚だった。
 そう言えば。
 かつて僕は、自分の力ではどうにもできない何かの存在を嘱望した。
 だけど、なんてことはない。
 初めから僕の周りは、どうにもならないことばかりだったのだ。

 それに気づいた僕は、覚えず涙した。
 自分の思い通りだと思っていた人生が、そうではなかったことに失望したからではない。
 それは、上手くいっているにも関わらず、心のどこかで引っかかっていた何か――満たされない感情に『答え』を与えてくれた喜びの涙だった。

「結局、僕が今までしてきたことは、誰かの理想をそのまま投影していただけだったんだ。教師になることだってそう。両親の夢だからという理由で、そこに僕の意志はなかった。だけど君は、僕にそんな空っぽな自分を自覚させるとともに、ある一点だけ僕が僕であることを認めてくれたんだ。君はね、こう書いてくれていたんだよ。『一言一句疎かにしない姿勢に、先生の文学に対する情熱を感じました。先生が先生になろうとする理由は僕には見えませんでしたが、国語を教える人になろうとする気持ちは解(わか)った気がします』――ってね」
「――!?」
「最後に『いい国語教師になってください』とも書いてくれていたよ、幸野くん」
「うおおぉぉぉい!」
 確かに書いた! それ書いたの俺!――って、言うなよそんなことおおおおお!!
 赤面する俺を他所に、先生は言葉を重ねた。
「過去にも未来にも、君ほど僕の本質を理解して、僕の心を解ってくれる人は現れないと思うんだ。あのとき君は、僕が求めていた『答え』をくれただけじゃなく、これから先の未来も――」
「あー、先生。それ以上、思い出話は控えてください」
 恥ずかしいを通り越して、死にたくなる。
 先生は俺の様子を見て、意外にも照れ屋なんだねと愉快そうに声を上げて笑った。
 暫く笑った後、先生は今回の遍路の理由を話し始めた。
「僕は今までの自分を振り返って、これから自分がどうしたいのか、それを考えるために歩き遍路を始めたというわけなんだ」
 ちなみに遍路を思いついたのは、教育実習中の授業で俺が『祖父と遍路』をテーマに書いた作文を思い出したからだとか。
「思い立ったらいてもたってもいられなくなってね、夏休みが始まる前だったのに、つい休暇届を出して歩きはじめてしまったのさ。それもこれも、校長先生が理解のある人でね、僕が歩き遍路で体験したことを生徒に話してあげれば、生徒にとっても良い刺激になるんじゃないかって、特別に休暇を出してくれたんだよ!」
「はあ、そうですか」
 過去を語っているときとは裏腹に、テンション上昇中の先生。俺はその起伏に戸惑いつつも適当に相槌をうった。
「だけどね、歩き始めて三日目、この遍路ころがしを目の前にして僕の中に疑問が浮かんだんだ」
 上昇したのも束の間、一気に下降するテンション。
「この遍路を始めたのは紛れもなく僕の意志だったんだ。でも、実際に歩きはじめるころには他の人――両親や校長先生、同僚、生徒たちの期待が圧(の)し掛かっていてね。そう思うと、今歩いているのは自分のためなのか、それとも自分以外の誰かのためなのか分からなくなって、次第に足取りが重くなってしまったんだ」
「それで、進むにも進めず、やめるにもやめられず、四日間も立ち止まっていたってわけですか……」
「それだけじゃないんだ。他人の視線を抜きにしても、僕はどうやら何事も上手くやらなければ気がすまない性質(たち)みたいでね。だから、歩き出したらきっと最後までやり遂げると思うんだ。だけど、それでは今までと何も変わらない。だって僕の中では上手くいくことが当たり前になってしまっているのだから。そう考えると、八十八箇所を全部歩いて回ったところで、何も変わらないんじゃないかって思ってしまったんだ。だからといって、途中でやめる気にもならない。やれるのにやらないのは僕の信条に反するからね」
「はあ……」
 めんどくさ……俺はため息交じりに呟いた。
 傍(かたえ)聞きすれば「そんなことで悩むの、馬鹿じゃね?」と言いたいところだが、それまでの経緯――先生の生き方を聞いてしまった後なので、そう簡単に口にできそうになかった。
「そうやって迷っていたところに、君が現れたんだ。それはもう、言葉にできないくらい驚いたよ。運命! そう、まさに運命的な出会いてやつだ! ――っと、すまない。また熱くなるところだったよ。とにかく、君があのときの少年だと気づいたとき、また僕の歩むべき道を示してくれるんじゃないかって思ってしまったんだ。一度、僕を導いてくれた君ならってね。振り回してしまって、本当にすまなかったね」
「いや……はい……」
 構いませんよ、とは言えなかった。
 それから暫く沈黙が続いた後。
 先生がぽつりと言った。
「それでも、やっぱり君には『答え』求めてしまうよ」
 俺は素っ気なく返答する。
「そんなの知りませんよ。自分のしたいようにしてください」
 そのとき、ざあっと風が過ぎ去っていった。
 気がつけば山から抜けて、砂利道は整備された車道へと合流していた。
「お。幸野くん、あれが焼山寺じゃないかい?」
 少し歩いたところで、先生が声を上げた。
 言われるまま、指差された先に視線を移す。
 杉に囲まれた石段の上に、お寺の門が小さく見えた。
 ようやく十二番札所・焼山寺に到着したのだ。

***

焼山寺/山門&山門前の石段・巨杉郡・納経所前

 幽玄な雰囲気の漂う石段を上ると、『摩盧山』と山号が掲げられた山門が姿を現した。
 それをくぐると、何本もの巨大な杉が出迎えてくれた。巨木マニアの二葉が喜びそうな光景だなと思いながら、その太い幹を見上げながら奥へと進む。
 ふと、前方の杉の木陰に見覚えのある着物――色取り取りの前掛けを何枚も縫い合わせたような着物に、若葉を連想させる鮮やかな帯飾り――が目にとまった。確認するまでもなくヤツだった。
 巨杉の合間を進んでいくと左手に納経所がある。
 納経所の出入り口の前にあるベンチに、あゆみとたいさん、そして八八さんたちの姿が見えた。
「あー、恵、やっと来たー! 遅いけん心配しよったんよ」
 いち早く俺に気づいたあゆみが走り寄ってきた。そして俺が一人だということに気づいて首を傾げた。
「あれ、先生と一緒じゃなかったん?」
「あ、先せ――」
 先生とは別れたよ。と、そう言うつもりだったのだが、途中で声が出せなくなった。
 何かに驚いて声を詰まらせたとか、そういう次元ではなくて、物理的に声が出せない。
 あゆみと話している途中、どこからか現れた赤褐色の髪をした女の子が、突然俺の胸倉を掴み信じられない力で持ち上げたのだ。
「ん~~っ! ん゛~~~~!!」
 ちょ、誰っ、苦し、つか、熱っ! 何でか知らんけど熱っ!
 どんなに振り放そうとしても、女の子は力を弛(ゆる)めようとしない。その掴んでいる部分が燃えそうなほど熱を帯びているのが分かった。
「こらこら、女の子がそんな乱暴な真似しちゃ駄目でしょ」
 仲裁の声とともに頭上から降り注ぐ水。
「くそっ、体が濡れて力が……っ! 覚えてろよ!」
「こら、汚い言葉遣いも駄目だって――もうっ」
 呼吸を整えながら顔を上げると、目の前には樽を持った癒安が立っていた。赤褐色髪の女の子の姿はない。
「大丈夫? 恵ちゃん、火傷とかしてない?」
「助けてくれたのは有難いんですけど……俺にまで水をぶっ掛けんでもいいと思う……」
 そして「恵ちゃん」はやめてください。
「あ、ごめん! つい、勢い余って」
 あははは、と笑って誤魔化す癒安。そして「安楽寺」と刺繍された手ぬぐいを取り出して俺に渡した。
「――で。さっきのはどこの誰で、どうして俺は胸倉を掴まれなくてはならなかったのかと小一時間」
 手ぬぐいで頭を拭きながら、俺はあゆみに問いかけた。
「さっきの子は焼山寺の八八さんで、灼(あらた)さんって言うんよ。ちょっと乱暴者だけど、根はいい子だよ。…………多分」
 あゆみのヤツ、小声で「多分」とか言よるし。
「でねでね、なんで灼さんが怒ってたかというと、藤井寺で尊心さんを起こすために火を焚いたやん? その炎が、このお寺から見えてたみたいで」
「成程。それで『お寺を燃やすとは何事だー!』って、腹を立ててたのか」
 八八さんにとってはお寺は自分たちの家みたいなものだ。怒るのも仕方がない。
 と、あゆみの言葉に勝手に納得していた俺に、淡桜が水を差した。
「何か勘違いしてるみたいだけど、あの子はお寺に火を点けたことを怒っているんじゃないわよ」
「は? じゃあ、なんで俺怒られたん?」
「あたしたちが楽しそうにしてたのが羨ましかったみたい。それで誰が言い出したんだーって話になって、首謀者を連れてこいーみたいな流れになって、つい恵って答えちゃったんよ」
「……おい。言い出したのはお前だろ。ちなみに一番はしゃいでたのは長女な」
「そうなんだけど、すごい剣幕やったもん。あんな状態じゃ名乗れないよー。ねー?」
 同意を求めるあゆみに、一致団結して頷くたいさん&八八シスターズ。こいつら……!
「そだ、先生はどうしたん? 置いてきちゃったん?」
 あゆみは話題を逸らそうと、思い出したように先生の話をふってきた。
「ああ、先生なら帰ったよ」
「え? 巡礼、途中でやめることにしたん?」
 あっさりと答える俺に、あゆみは驚いたように目を見開いた。
「先生は何でやめたん? 続けるのが嫌になったん?」
「いや、嫌になったというか、他にすることを思い出したから、かな」
 それをするために一時休止するらしいと、俺は付け加えた。

***

 焼山寺の山門まであと数メートル。
 手前にある石段の半分まで上ったところで、先生は不意に足を止めた。
「どうかしましたか?」
 先生は答えずに、ただ前方に見える山門を見据えていた。
 門を見上げたまま、暫く身動(みじろ)ぎしなかった先生だったが、何を思ったのか唐突に来た道を引き返しはじめた。
 そして先生は石段の一番下まで来ると俺のほうを振り返った。
 石段の下方と中腹。先生が俺を見上げ、俺が先生を見下ろす格好になる。
「先生、どうかしましたか?」
 俺はもう一度同じ質問を投げかけた。
 しかし、返事はない。聞こえているのかどうかも分からない。
 仕方がないので、先生のところまで降りようと階段に足をかけた。が、先生は片手を前にして制止のサインを送ってくる。もう何がなんだか分からない。
「幸野くん、僕はこのまま山を下りることにするよ」
 下から聞こえる先生の声。
「はああ!? イキナリ何を言い出すんですか、先生」
 予想もしなかった言葉に、必要以上のリアクションを返してしまった俺を見て先生が笑った。
「ははは、そんなに驚くことでもないじゃないか。さっき君は、僕に向かって『自分のしたいようにしてください』って言ったばかりだろう」
「いや、意味分かんねーし」
 敬語が崩れた。
「いやなに、僕が本当にしたいことを思い出しただけだよ。――僕が教師という職に就こうと考えたのは、確かに両親の思惑が大きく絡んでいるかもしれない。だけど、経緯(いきさつ)はどうあれ、教師でありたいと願ってからずっと、僕の中には変わらない一つの“思い”があるんだ」
 そして、実際に教師となってクラスを受け持った今、その思いが大きくなっていることに気がついた。
 一方的に誰かの評価を求めるのではなく、また誰かの望む僕を演じるのでもない。
 そもそも、不特定な「誰か」ではなくて、
 自分と向き合ってくれる生徒、その一人一人のために。
 ただ、純粋に、

「“僕はいい教師になりたい”」

 駆け出しの国語教師は、真っ直ぐに、そんなことを口にした。
 そう言った後、はにかむように笑みを浮かべたその顔からは、初めて会ったときに感じた保身的な印象はすっかり消え去っていた。
「――だからね、大事な教え子たちを放っておいて、自分を見つめ直すためだけに遍路をしている場合じゃないって、そう思ったんだ。だから僕はここで終わりにするよ」
 先生は、言いたいことは全部言い切ったという素振りで、俺に手を振るとあっさりと背を向けた。
 俺はその背中を呼び止める。
 ここまで来るまでに散々足止めされたんだ。一回や二回、こっちの声に耳を傾けてくれてもいいだろう。
 だからといって、気の利いた台詞を言うつもりはない。
 呼び止めた理由は、何てことないただの疑問。
「先生、納経していかないんですか?」
 あれほど山道を歩いて、やっとのことで焼山寺の山門前まで辿り着いたのに。何もここで引き返さなくてもいいと思うのだ。
 だけど、先生は首を縦には振らなかった。
「僕がここまで来られたのは、幸野くん、君がいてくれたからだよ。僕一人ではずっとあの場所から進めなかった。だからね、いつか僕が一人でも歩いてこられるようになるまで、その門はくぐらないでいるよ」
 真面目な顔で、先生はそんなことを言った。
 その言い分に俺は半分呆れて、半分感嘆して――結果、噴き出してしまった。
 先生は俺がなぜ笑ったのか理解できていない様子だったが、つられるように笑い出した。
 ひとしきり笑い合った後。
 先生は、折角下りた石段をまた上ってきた。そして俺の一段下で足を止めると、右手を差し出した。
「一緒に歩いてくれてありがとう。楽しかったよ。あれこれ考えさせられたしね。君と出会えただけで、今回の旅は成功だったと言えるよ。最後の最後で、不思議な縁というものを感じることができた。これから僕は国語教師という日常に戻るけど、君は引き続き、遍路の旅を続けてほしい。そして、八十八箇所全部を無事巡り終えることを願っているよ」
 相変わらず長々とした台詞のあと握手を交わす。
 そして、今度こそお互い背を向けて違う方向へと歩き始めた。
 俺は石段を上り寺のほうへ。先生は坂を下り街のほうへ。
 ふと先生の声が聞こえてきた。
「さっきは強がって『今回の旅は成功だった』なんて言ったけど、やっぱりこれは失敗なのかもしれない。自分で決めたこととはいえ、途中で投げ出したことに変わりはないのだから。だったら、これは――」
「先生のそれは挫折じゃなくて“中休み”ですよ」
 俺は口をはさんだ。
「だって、いつかまた歩きに来るのでしょう?」
 やり直しを心に決めているのなら、それは挫折とは言わない。本人が諦めない限り、挫折は生まれ得ない。
 だから多分、この先生が挫折を知ることはないだろう。結局、何でもかんでも解決してしまうのだから。二十五年間の価値観を覆されても、あっという間に乗り越えたように。
 先生はため息まじりに呟いた。
「やれやれ。君は厳しいのか優しいのか、よく分からない子だね」
 背中を向けていたので、あのとき先生がどんな顔をしていたのか分からない。
 だけど、何となく笑っていたような気がする。

山下幸夫

***

「あ。それでさ、みんな」
 先生のことを差し障りのない範囲で話してから、俺はあゆみたちに公言した。
「俺、遍路を続けることにしたけん」
 一瞬の沈黙。
「恵、本当なん? 本当に、本当なん?」
 あゆみが困惑した様子で聞いてきた。しかも何度も。
「ああ……勿論、邪魔だからついてくるなって言うならやめる……けど?」
 たとえ俺が続ける気になっても「何を今更」と弾き返される可能性もなきにしもあらずなわけで。
 実際、お払い箱だと言われそうな気がして、内心ドキドキしていた。
 だけどそんな心配は不要だったようだ。
 あゆみは、これでもかというぐらい頭を振って、それから満面の笑みで答えてくれた。
「邪魔なわけないやん! これからもよろしくね、恵!!」

***

「君はね、僕に似ているんだ」
 先生は言った。
 言われたときは認めたくなかったが、実際、自分でもそう思う。
 例えば、
 他人の視線を気にするところとか。
 要らないところで拘りを持つところとか。
 進むべき道に“道しるべ”がないと駄目なところとか。
 本当、そっくりすぎて困る。

 だから、俺は勘違いしてしまったのだと思う。
 先生のように、俺も――――

「先生と俺は『同じ』じゃない」――そう自分で言ったことも忘れて。

つづく


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