第十三話<大日寺>
文章・キャラクター:SHIZUMU(OpenDesign)
挿絵:河原デザイン・アート専門学校
制作:OpenDesign
――よし。暇潰しに、昔話を聞かせてやろう。
あれは確か、天長の頃の話だ。
伊予国の浮穴(うけな)郡荏原(えばら)郷――現在の愛媛県松山市恵原町だな――に、衛門三郎(えもんさぶろう)という名の男がいたのだが、こやつは強欲非道な大百姓で、乱暴者で、人望も薄くて、とにかくどうしようもないくらい嫌な奴だったのだ。
ある日、衛門三郎の家の前にみすぼらしい身なり……いや、衣は少々傷んでいたものの、圧倒的な気品に満ち溢れた――ほれ、気品というものは隠そうと思っても滲み出てしまうものだからな――僧がやって来て、托鉢(たくはつ)をしようとしたのだ。
何? 托鉢が何だか分からないだと?
托鉢というのはな、こう、でっかい鉢を持って他人(ひと)の家の前に立つだろう。でもって、施しの米や金銭を受けて回るという、歴とした修行の一つなのだ。乞食行(こつじきぎょう)・頭陀行(ずだぎょう)・行乞(ぎょうこつ)とも呼ばれているぞ。
――で、この衛門三郎という男は、さっきも言ったがケチで卑しくて見下げ果てた下衆野郎でな。
うん? 何だ、さっきから話の腰を折って……。ふむ、そこまで酷く言わなくてもいいじゃないか、だと? 何を言う、これでも随分控えめに話しているのだぞ。
とにかく、こやつは何も振舞おうとせずに、それどころか罵声を浴びせて僧を追い払ってしまったのだ。
それでも。翌日、また翌日。
僧は何度もやって来て、男の家前に立ち続けたのだ。
そして、運命の八日目。
「しつこい坊主め! 去(い)ねというのがわからんのか!!」
ついにブチ切れた衛門三郎は、あろうことか僧が捧げていた鉢を地面に叩きつけてしまったのだ。
まったく、あやつめ……、今思い出しても腹立たし――ああ、いや、馬鹿な真似をしたと憐れに感じ得てならん。と、言いたかっただけだ、気にするでない。
ともあれ、地面に落ちた鉢は八つに割れて、僧はどこかに行ってしまったのだ。
次の日、衛門三郎の身に予期せぬことが起きた。
男には八人の子がいたのだが、一番上の子が急に得体の知れない病気にかかって死んでしまったのだ。
その次の日には二番目の子が。
さらに、その次の日には三番目の子が。
一日に一人ずつ死んでいって、八日目には八人いた子がみんな死んでしまったのだ。
あまりのことに、流石の衛門三郎も嘆き悲しんだ。
ある晩、打ちひしがれた男の枕元に弘法大師・空海が姿を現した。そこでようやく男は、先日の僧が大師だったことに気がついて、大変なことをしてしまったと後悔したのだった。
翌日。
衛門三郎は懺悔滅罪(さんげめつざい)と八人の我が子の菩提供養のために、財産を売り払い、妻とも別れて、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出ることを決意した。
そして白衣に身を包み、手甲と脚絆(きゃはん)をつけ、手には金剛杖、頭には魔除けの笠といういでたちで私邸を後にしたのだった。
一回巡ったが、大師とは会えなかった。
二回巡った。
三回巡った。
五回、十回、――そして、二十回。
衛門三郎は八年間で二十回の巡礼を重ねた。だけど、大師と会うことはできなかったのだ。
何としても大師に会いたいと願う男は、今度は逆回りで巡ることを思いついた。だが、その二十一回目の巡礼の途中、阿波国――徳島県の焼山寺(しょうさんじ)の近くまで歩いたところで、病に倒れてしまったのだ。
「これ以上、歩くことはできん……。俺はこのまま、罪を詫びることもできずに死んでしまうのか……」
死期が迫りつつある衛門三郎。覚えず悔恨が口をついた男の目前に、いつかの僧が姿を現した。
「お……おお……、大師さま……!」
すがるように手を伸ばす男に、大師は優しく微笑みかける。
「おぬしは憐れなほど醜くて浅ましくて愚かで、ぶっちゃけ救いようのない俗物だが」
――と、言うのは可哀相なので堪(こら)えてやって、
大師は静かな口調で男に告げた。
「衛門三郎よ、おぬしの罪は消えた。もうじき、おぬしの命も尽きるが、最期に何か望みがあるなら言うがいい」
そんな寛容で慈悲深い言葉に、男は堰が切れたように今までの非を泣いて詫びた。そして来世は大名に生まれ変わり、今度こそ人のために尽くしたいと託して息を引き取ったのだった。
「ふむ。大名への生まれ変わりを願うとは、最期まで欲深い男よ。ここは一言、『お大師さまにお目にかかり懺悔できただけで満足です!』くらい言えば可愛げがあるものを」
凡人であればそのような感情を抱いたかもしれないが、ここは流石、器の大きい大師だ。「大人の余裕」というやつで全てを許容し、「来世は人のために尽くす」と誓った男を信じて頷いたのだった。
そして道端の小石を拾い上げると、そこに『衛門三郎再来』と記し男の左手に握らせたのだ。さらに大師は、男の墓を作り、墓標代わりに男が持っていた金剛杖を逆さに立てて供養したのだった。
――おお、思い出した。確かこれは、天長八年(831年)十月二十日のことだったぞ。
その翌年、伊予国の領主、河野伊予守左右衛門介越智息利(おきとし)に長男が生まれたのだが、その子は何故か左手を固く握って開こうとしなかったのだ。
父・息利は心配して、安養寺の僧に祈願を求めた。それでようやく手が開いたのだが、その手の中から『衛門三郎再来』と書かれた石が出てきたというのだ。
*
「息利の長男は息方(やすかた)と名付けられ、この衛門三郎の話を聞いて育ち、その後、民に喜ばれる政(まつりごと)をしたらしいぞ。めでたしめでたしというわけだな」
息方が握っていた石は安養寺に納められ、その寺は後に号を『石手寺』と改めた。そこは現在、四国八十八箇所霊場の五十一番札所となっている。また、石は『玉の石』と呼ばれ、寺宝として安置されているのだと、たいさんはつけ加えた。
たいさんは、「お大師さんが美坊主すぎる」と定評のあるお手製紙芝居の端をそろえると、大事そうに懐――大きなミカンのような胴体と首との接合部分をはたして“懐”と言って良いのかは疑問だが、他に呼び方が思い浮かばないので“懐”ということにしておく――にしまった。
このみかんタヌキ。どうやって物を持ち運んでいるのか不思議だったが、どうやら物をしまっておく部位があるらしいのだ。こいつの身体の構造って、本当にどうなっているのか……。考えれば考えるほど謎は深まっていく。
もっとも。俺としてはこいつが「タヌキ」と呼ばれていること自体、不可解で仕方がないのだが……。
それはさておき、今日は七月二十五日。
巡礼四日目の午前中――と、思っていたのも束の間。時計の針は十二時を回ろうとしていた。
空を見上げれば、今日もまた夏らしい晴天。もうじき真上にやってくる太陽を避けて、俺とたいさんは道端の木陰に腰を下ろした。
そして仲良く缶ジュースを傾ける。
「ときに少年よ。あの娘はいつまで儂(わし)らを待たせれば気がすむのだ?」
「やけん、俺に聞かれても困るって」
あの娘こと、あゆみを待って、かれこれ二時間が過ぎようとしていた。
その間、俺たちは「まだか?」「知らん!」を繰り返していた。
と言っても、その問答だけで時間を潰すのはあまりにも虚しすぎたので、他の話題――遍路にまつわる話をたいさんにしてもらっていたのだ。
それがさっきの紙芝居『衛門三郎の伝説』――四国遍路の開祖といわれる男の話。
だけど、それが一段落してしまったので、なかなか帰ってこないあゆみに対する愚痴話に逆戻りしてしまった。
「うぬぬ。遅い……。遅すぎる……!」
たいさんは不満をこぼしながら、空になった缶――スチール製の硬いヤツだ――をメキョメキョと握り潰す。予想外の握力! またしても、たいさんの新たな一面ってヤツを垣間見た気がした。
――とまあ、それは置いておいて。
俺たちが何故、たぎるような暑さの中で缶ジュース片手に駄弁っているのか。
発端は、起き抜けにあゆみが発したこの一言だった。
『お風呂入りたい!!』
そう言われて、丸三日も風呂に入っていなかったことに気がついたわけで。
冬ならまだしも、この季節に連続風呂なしはキツイ……。
思えば、慣れない歩きで疲れ果てて、寝床に入った途端眠ってしまうという状態が続いていた。おかげで汗の臭いも気にならなかった――と言うか、気にする余裕がなかったのだが。
一度気にしてしまうと駄目だ。気になって仕方がない。ついでに、洗濯物の存在も気がかりだったりする。
そんなことがあって、俺たちは十三番札所・大日寺に向かう途中で寄り道することにした。
焼山寺と大日寺のちょうど中間あたりに位置する「神山温泉」。
そこでゆっくり温泉に浸り、湯上りには徳島特産のすだちジュースで水分を補給する。
――と、そこまではよかった。
それから二時間。
俺たちは延々待ちぼうけを食らわさせている。
しかも。外で、だ。
建物の中で待っていればよかったのだが、残念なことにそこはペット同伴不可の施設で、他人の目には“ちゃんとしたタヌキ”に見えるたいさんは当然入れてもらえず、俺はヤツの“飼い主”として外へと追い出されたのだった。
それで、仕方なし。
道路を隔てて、温泉施設のエントランス前に座り込んでいるという状況である。
ちなみに――これは本当にどうでもいい話だが――俺が温泉で汗を流している間、たいさんは近くを流れる「鮎喰川(あくいがわ)」で水浴びをしていたらしい。
そこで夏休み満喫中の小学生集団に絡まれて、“狩りごっこ”なるものをして遊んだとかなんとか。
もちろん“獲物役”はたいさんだったわけで、手加減なしの小学生を相手にさぞかしエキセントリックなプレーに興じていたことだろう。
一緒になって遊ぶ気はさらさらないが、遠目から見る分には楽しそうだ。と、笑いながら言ったら、たいさんは物凄い剣幕で怒りだした。
どうやら“ごっこ”と呼べるほど生半可な遊戯ではなかったようで、――なんでも小学生男児の一人にかなりの“手練れ”がいたらしく、その“遊び”は最早、生きるか死ぬかの、漢と漢の真剣勝負だったのだ……! と、たいさんは熱く語った。
それに対して俺は「知らんがな」の一言で片付けたのだが、よくよく見ればたいさんの身体に生傷が幾重にも刻まれているのに気がついた。
「ふむ、気がついたか。この傷こそが激しい戦闘の証。それが分かったなら、ちっとは儂を称えてジュースの一本でも奢ってくれればいいと思うのだ」
「…………」
やってることも言ってることも馬鹿馬鹿しくて失笑しか出なかったのだが、まあ一本くらいならいいか。そう思って、俺はたいさんに缶ジュースを奢ってやった。
「ぷはー。……しかし、最近の女子(おなご)は長湯だとは聞いていたが、いくらなんでも遅すぎると思うのだ」
たいさんは通算十二本目の缶ジュースを飲み干して、温泉施設のエントランスに視線を送った。
絶えず人が行き交っているものの、そこに見知った姿はない。
「今日中に井戸寺まで行くのではなかったのか。このままでは時間切れになってしまうぞ」
井戸寺(いどじ)は、十七番目の札所だ。
徳島市には十三番から十七番まで五ヶ所の札所があって、今日はそれらを全部巡る予定でいたのだが、このままあゆみが戻ってこなければ難しいかもしれない。
「少年よ、ちょっと女湯の様子を見てくるがいい。ついでにもう一本、ジュースを買ってくるのだ」
「断る!!」
無茶を言うな。
そしてどんだけ飲む気だよ、徳島特産すだちジュース……!
「――それより、さっきの話やけど」
俺はたいさんの気を逸らさせようと話題を変えた。
さっきの話――すなわち、衛門三郎という男の話だ。
四国遍路の開祖と言われる伝説上の人物、衛門三郎。
彼は己の悪行を悔い、我が子の菩提供養のために四国を巡って、最後の最期にお大師さんと会うことができた。
この伝説から、敬虔(けいけん)の念を持って巡礼を重ねることで、いつかどこかでお大師さんに巡り会えるという信仰や、お大師さんは今も四国を巡っているという言い伝えが生まれたという。
そして、その衛門三郎が二十一回目の巡礼の途中でお大師さんと出会った場所――同時に彼が亡くなった場所でもある――が、杖杉庵(じょうしんあん)だ。
衛門三郎が息絶えた後、お大師さんは男を葬り、墓標として男が使っていた金剛杖を立てた。これがやがて芽を出し、根をはって、杉の大木になったという。その後、この地に庵が設けられ、伝説にちなんで杖杉庵と名付けられた。ただし、伝説の大杉は江戸時代中期に焼失し、現在そこに生えているのは二代目の杉らしい。
杖杉庵は、十二番札所の焼山寺から二十分ほど歩いたところにあった。
昨夜、俺たちはそのお堂の脇で寝泊まりさせてもらったのだ。
本当は焼山寺の片隅を借りようと思っていたのだが、八八さん十二女・灼(あらた)の嫌がらせ――本人にしてみれば“遊び”だったのかもしれないが、織刃お手製テントに火を点けようとする行為は嫌がらせ以外の何物でもない――のせいで、おちおち眠ることができなかった。それで俺たちは、杖杉庵へ避難したというわけだ。
しかし、灼のヤツはなぜ、あれこれ燃やしたがるのだろうか。理由を聞いてみたい気がする。もう少し打ち解けてからじゃないと怖いけれど。
おっと。思考が逸れてしまった。衛門三郎の話に戻ろう。
「衛門三郎って人はお大師さんに謝るために巡礼を始めたん?」
「そうだな。あやつは、わ……大師に詫びるために巡礼を重ねて、そして一心に願ったからこそ、大師に会うことができたのだ。ちなみに『逆打ち』という思想も、この伝説に由来すると言われているぞ」
俺の問いかけに、たいさんは肯(うなず)いた。
そして出てきた「逆打ち」という言葉。
逆打ちとは四国八十八箇所巡礼で、八十八番札所・大窪寺を出発して四国を左回りに、一番札所・霊山寺へと巡ることだ。
「閏年に逆打ちするとご利益が順打ちの三倍って聞いたことがあるけど、実際どうなん?」
「ほう、そんな言い伝えがあるのか」
たいさんが興味深そうに瞬きをする。
おや、ちょっと意外。どうやら知らなかったようだ。
「ふむん、特異性という点から言えば、確かに何かしらの功徳は得られるかもしれん。まあ、儂は別に拘(こだわ)っていないのでな、好きに巡ってくれて構わんぞ。そもそも霊場に札所番号とやらを定めたのは儂ではないからな」
そりゃ、たいさんが番号をふったとは思ってないけどさ。てか、何でいちいち偉そうなんだ、このタヌキは。
それはそうと、閏年に逆打ちをするとご利益がどうとかいう話。
実際のところ、その根拠となった“何か”は伝わっていない。
衛門三郎がお大師さんと出会った年が閏年だったから、というのが一番有名な謂れらしいのだが、件の天長八年は閏年ではなかったりする。
厳密に言えば。新暦と旧暦には日付にズレがあるわけで、天長八年は西暦――現在、世界で主に用いられているグレゴリオ暦は一五八二年に定められたもので、当時はユリウス暦が使われていて――に換算すると、八三一年二月十六日から翌年二月五日にあたり、西暦八三一年は天長七年十二月十四日から天長八年十一月二十四日にあたる。
そして当時の暦の閏月は、天長八年ではなく天長七年に閏十二月があった。
つまり。
天長八年は閏年ではないが、西暦八三一年に天長七年の閏月があったというわけだ。
ちょっとややこしい。そして、それがどうしたと言われればそれまでだが。
「要は、信じるも信じないも、個人の自由ということだ。もとより大師はそんな細かいこと気にせんぞ」
たいさんはそう結論づけた。
「ところで、少年。今は何時だ?」
「ん、ああ。今は――十二時三十分、やね」
たいさんに促されて時計を確認する。
あゆみはまだ戻らない。
「ふむ、このままでは三時間待ちはくだらんな……」
気の抜けた溜め息を吐きつつ地面に突っ伏すみかんタヌキ。そのまま潰れて、橙色の座布団と見間違えるほど平べったくなってしまった。やる気のなさを身体を使って最大限表現した結果がそれなのだろう。本当に何なんだ、この謎生物。
「暇だな、少年」
「だな」
たいさんは大きなあくびした。
俺もつられる。そして目を細めた。このまま昼寝しながら待っていてもよさそうだ。
と、不意に地べたに這い蹲った状態のたいさんが、俺の足先をポムポム叩いてきた。
「……何さ?」
「退屈だからな、少年に一つ仕事を与えてやろう」
「結構です」
「儂が興味を持つような小話をするがいい」
結構だって言ったのに。
しかも、「するがいい」とか。
日に日に、こいつの態度のデカさが顕著になっているように感じるのだが、気のせいだろうか。
そう思いながらも、頭の片隅では話のネタを探していた。我ながら人がいい。――ま、本当は、暇すぎて何でもいいから考えていたかっただけなのだが。
「つっても、急に小話とか言われてもなあ。――あ、そだ。衛門三郎の話でツッコみたいことがあるんやけど。二つほど」
「うむ?」
少し興味を持ったらしく、たいさんが頭をもたげる。
「言ってみるがいい、『キング・オブ・ツッコミ(King of TSUKKOMI)』よ」
「ッ!?」
あったな、そんな称号!
キラキラと期待にあふれた瞳を向けてくれるのは嬉しいが、その称号はいい加減忘れてほしい。
文句を言ったところで、あのたいさんが素直に従うとは思えなかったので、俺は言葉を続けた。
「衛門三郎の子どもたちが死んでしまったとき、托鉢をしていた僧がお大師さんだと気づいた――みたいなくだりがあったろ? ってことは、その頃のお大師さんって、すでに有名人やったん?」
「ほう、少年にしては良いところに目をつけるではないか。あの頃は齢五十七、八のナイスミドルだからな、その存在を知らん人間はいなかったと言ってもいいぞ」
「ふーん」
誇張している気もしなくないが、まあいいや。
しかし。そうか、六十歳前だったのか。
だったら、たいさんの描いた紙芝居のお大師さんは、異常に若すぎると思うのだ。
たいさんは「それがどうした?」と目を瞬かせる。
「思うんやけど、そんなに有名やったんなら、闇雲に四国を歩き回らんでも高野山に行けば簡単に会えたんと違うん?」
「ッ――!!!!」
たいさんがカッと目を見開いた。び、びっくりした……。
「た、確かに!――って、いやいやいや。そこは、ほれ。いちいちツッコんではいかんところだと思うぞ」
たいさんは、一瞬「目から鱗」みたいな顔を見せて、すぐにプルプルと首を振った。たいさんには珍しいノリツッコミだった。
「あやつが大師とすぐに出会ってしまっては話が続かないではないか」
たいさんはそう言って、口を尖らせた。ごもっともだ。
「それで? もう一つは何だ?」
たいさんに促されて、俺は二つ目のツッコミどころに触れた。
「お大師さんって案外酷いことするんやなってこと」
「――ほほぅ? なかなか面白いことを言うではないか、少年。大師のどこが酷いというのだ?」
たいさんが徐に身体を起こす。身体はいつもの厚みを取り戻し、みかん型になっていた。
つまり、“たいさん関心度”が上がったということだ。
俺は続けた。
「だってさ、衛門三郎が悪いヤツだからといって、その子どもに罪はないやろ」
それなのに死なせてしまったのは、流石にやりすぎだと思うのだ。
「……」
「この話以外でも『石芋』とか『渇き水』とか、結構エグいことしてんなーって」
お大師さんこと、弘法大師・空海の伝説は全国各地に伝わっている。
その中には、ある老婆が芋をわけてくれなかったことに腹を立てて、その芋を石に変えてしまった話とか、ある村人が水を飲ませてくれなかったことに怒って、その村の水を涸(か)らせてしまったとかいう話がある。
もちろん、貧しい村や人々を救った逸話も数多く残されている。世辞でも詭弁でもなく。
――と、そのとき。
首筋がヒヤリとした。あ、この感触、覚えがあるわ。
振り返れば、満面の笑みで大鋏を振り上げる織刃。
「やっぱり出たあああああ!!!!」
「ウフフフ……空さまを侮辱するだなんて……」
口元は笑っているが、目がマジだ。
「全て……、そのヒトたちの業の報いでしょ……? それなのに……空さまが悪いみたいに言うなんて……アナタ、何様のつもりなのかしら……!?」
「織刃よ、そのまま振り下ろしても良いぞ。儂が許す」
しれっとそんなことを口にするたいさん。
ちょ、待――
*
「恵、たいさん、お待たせ――!?」
程なくして、あゆみが駆け寄ってきた。
そして俺の姿を見るやいなや、言葉を詰まらせた。
「え、え? 何かあったん? 恵、お風呂入ったんよね? 心なしか朝より埃っぽいというか、見るからにボロボロになっとる気がするんやけど……?」
狼狽(うろた)えながら、あゆみが俺の顔を覗き込む。
「そんなことより、娘よ。おぬしは一体何をしていたのだ。この儂を待たせるなど――」
たいさんが俺を押しのけて、間に割って入ってきた。当てつけがましく「そんなことより」を強調して。
お大師さんを悪く言ったことを根に持っているようだ……。
「ごめんごめん、この近くに洗濯ができる場所があるって教えてもらったけん、みんなの着物を洗いに行っとったんよ」
あゆみはそう言って、白衣の袖から衣類の塊を引っ張り出した。
次から次へと出てくる。
目の前に積まれた洗濯物の山を見て、たいさんは開いた口を閉じることができなくなっていた。八八さん姉妹の分――実体のない彼女たちにも“着替え”という習慣があるらしい――も含まれているらしく、その量は途轍(とてつ)もない。時間がかかって当然だと認めざるを得ないほどだった。
……ん? ちょっと待て。
みんなのって言った?
「え、俺のも?」
思わずそう口にした俺を見て、あゆみが慌てて頭を下げた。
「あああ、ごめんね、恵! 勝手にカバン開けちゃって! でも、中はチラッとしか見てないけんね。上の方にあったTシャツを二枚、取り出しただけやけん……!」
「あっ、やっ、そうじゃなくて」
必死に謝るあゆみに、今度は俺が慌てふためく。
いや、だって、ほら。下着とかイロイロ洗ってもらったのかと思っちゃったわけで。実際はシャツだけだと知って、ほんの少しホッとしたとかなんとか。
ゴニョゴニョと説明する俺に、あゆみは表情を緩めた。
「よかった。怒らせちゃったかと思った」
怒りはしないけどさ。好意でしてもらったことだし。
ただ、恥ずかしい。ひたすら恥ずかしい。それ以上に申し訳なさすぎる。
とりあえず、これからは自分の衣服は自分で洗うから気を遣ってくれなくていいよと伝える。するとあゆみは笑いながら答えた。
「別に気にせんでもいいのに。あたしの国はね、一人立ちするまで数年間は子どもたちだけで暮らす掟があるんよ。おかげでお洗濯とか家事は慣れっこやけん」
国? ああ、「故郷」って意味かな。しかし、掟? 何、その古めかしい響き。
クエッションマークが頭の中を飛び交う中、あゆみは極めつけにこんなことを口にした。
「あたしね、狩りも得意なんよ!」
えっへんと胸を張る遍路服少女。逞し過ぎる。
あの不思議タヌキや、どんどん増える結界守護のお姉さま方に埋もれて、霞んでしまっている感があるものの、こいつも結構な変人である。
「? あたしの顔じっと見て、どうかしたん?」
自分の顔を凝視する俺に、怪訝そうに首を傾げるあゆみ。
「別に……」
「ふぅん。ま、いいや」
あゆみは、にぱっと笑いながら丁寧に折り畳んだ洗濯物を手渡してくれた。石鹸の香りが仄かに漂う。
それからあゆみは、山盛りに詰まれた洗濯物をみんなに配って回った。
俺はその間に荷物の整理をする。
洗いたてのTシャツを鞄に詰めている背後で、
「はい、これはたいさんのね。たいさんのが一番洗うん大変やったんよ。しかもなかなか乾かんし」
「すまんな。ふむ、後で着替えるとしよう」
と、そんな台詞が聞こえた。
たいさんが着替え……だと!?
危うく手からこぼしそうになった洗濯物をすんでのところで受け止めて、俺はたいさんのほうを振り返った。
たいさんの着替え……。何だったのだろうか……。
だが、あゆみから受け取っただろう何かは、すでにしまわれた後だった。
俺の視線に気がついたたいさんは、人の顔を見るなり不敵な笑みを浮かべる。
その笑みの意味は「謎は謎のまま、悩み続けるがいい」ということらしい。……くそう、悔しいが気になるゼ!
*
「さてと。予定外に時間を潰してしまったが、先を急ぐとするか」
次の札所の大日寺に向けて歩き出した頃には、時刻はすでに午後一時を回っていた。
残り四時間。
五ケ所の寺を全部回れるか少々不安だが、行けるところまで行くとしよう。
「すまん、皆の衆」
ふと、たいさんが足を止めた。
「どうしたん?」
「ちょいと寄り道をさせてもらうぞ」
「は!?」
たいさんは言うが早いか、俺たちの返事を待たずに脇道へと駆け出した。弾け飛ぶように走り去り、橙色の身体は瞬く間に遠ざかっていく。
「ちょっと待て! 寄り道なんかする時間ないやろ!!」
咄嗟に呼び止めようと声を張り上げたが、たいさんにそれは届かなかった。
まったく、身勝手なヤツだ。そう愚痴をこぼしている間にも、たいさんは豆粒大の大きさにまで遠ざかり、視界から消えようとしている。
「ああ、もう!」
俺は慌てて後を追った。
全力で走って、ようやくお互いの姿が確認し合える距離まで追いついた。
「ほほう。儂の歩みについてくるとは、おぬしもなかなかやるな」
こっちは酸素が足りなくて呼吸も儘ならない状態なのに、ヤツは涼しい顔で話しかけてきた。歩みとか言よるし。
「少年よ、時間に余裕がないと気が気でないかも知れんが、案ずることはないぞ。今向かっている場所は通り道だからな。」
「…………いや、全然、道外れとると思うんやけど……」
何とか息を整えて言うと、たいさんは飄々と「気のせいだ」と答えた。
「だって、ほら。明らかに山の上へと向かいよるやん」
大日寺へ行く道のりに、こんな山越えはなかったはずだぞ。
「気のせい気のせい」
「……まあいいけど。せめて、何処に向かっているのかくらい教えろよ」
「建治寺という寺だ」
――ということで、建治寺(こんじじ)に到着だ!
第十三番札所・大日寺の奥之院であり、四国三十六不動尊霊場第十二番札所。修行の霊場として有名な寺な、のだ、と、か……ゲホゲホ、ゴホッ!!
「大丈夫か、少年。派手に咳き込んでるが……。――おいおい、地べたに突っ伏してどうした? こんなところで寝ていたら日が暮れてしまうぞ」
「~~~~~~~~~~~~~~」
俺は「呼吸が整うまで休ませてくれ」と言いたかったが、全然声にならなかったが、
「ふむ。何を言っているのか分からん。ほれほれ、いいから立ち上がるのだ。用があるのは、この奥にある『龍門窟』だからな」
追い打ちをかけるように、たいさんが指で突いてくる。――やめろ! ただでさえ苦しいのに、刺激を与えるな!
「山道を走ってきたけん疲れとるんよ。少し休ませてあげて。はい、恵。お水」
ライフポイントが零になりかけていた俺に、救世主が現れた!
ペットボトルを受け取りながら、視界に入ったあゆみの様子をうかがう。たいさんと同様、疲れた素振りは微塵も感じられない。ホント、何なの、こいつら。
とりあえず。水を飲んで深呼吸を繰り返しているうちに、だんだんと楽になってきて、普通に会話ができるくらいには回復した。
あ~、死ぬかと思った。金輪際、山道を全力疾走することはないだろう。
しかし、眠い。
筋肉が弛緩した途端、もの凄い睡魔に襲われた。ああ、ここで何も考えずに眠ってしまえたならいいのに。そんな願いも空しく、俺はたいさんに引きずられて境内の奥へと連れて行かれた。
建治寺の本堂は入り口から最も離れたところにある。
「この寺でも、大師は修行をしたのだ」
境内を歩きながら、たいさんはお大師さんの話を始めた。
「本堂の裏手に大きな岩があるのだが、その下が岩屋になっていて、大師はそこに籠って修行をしたというわけだ。ちなみに、この寺の本尊はその岩屋に祀られているのだ」
「ふーん。で、それはさっき言った『龍門窟』とは違うん?」
「うむ。『龍門窟』は大師堂の横の岩場にあるのだ。本堂で手を合わせたら移動するぞ」
建治寺大師堂の東側。足場の悪い細い石階段を上ると洞窟の入り口が見えた。龍門窟(りゅうもんくつ)だ。
「折角来たんだ、おぬしらも入るがいい」
たいさんはそう言うと、俺とあゆみを腹で押し込んだ。
「うわっとっと、危なっ! てか、暗っ!! ケータイ、ケータイ……」
「恵ー、大丈夫? 暗いの苦手なんやね」
少し離れたところから、あゆみの声が聞こえる。
「苦手とかそう言うレベルの話じゃないと思うけどね!」
「あはは、足元とか頭上に気をつけて歩いてね」
暗闇の向こうから笑い声が聞こえる。まったくもって、笑い事じゃないのだが。まじで。
何とかズボンのポケットから携帯を探り当てると、電源を入れた。
僅かな光に岩壁が照らし出される。
この洞窟は一人の修験者が三年をかけて掘ったらしい。そんな話を聞くと、つくづく昔の人はすごいと思う。手掘りですよ、手掘り。てか、ようやるわ。
洞窟の長さは二十メートルくらいだろうか。途中に横穴が空いていて、外の景色を見ることができた。鮎喰川の流れの先に、紀伊水道が広がっていて、眩しい陽光に煌めいている。
やがて目が慣れてきたのか、辺りが見渡せるようになった。
と同時に、洞窟の最奥部、祭壇らしい場所でたいさんが何やら不審な動きをしているのが目に映った。
「なっ!? たいさん、何しよん!」
祭壇に祀られている仏像の土台に手を突っ込んで、そこから何かを引っ張り出した。
「この前、ここを訪れたときに忘れて帰ってな。ふむ、それほど汚れはついていないようだ。これは少年にやろう」
「?」
……ノート?
何の変哲もない、ただの大学ノート。
渡されても困るのだが。
てか、タヌキのたいさんが何故ノートなんか? タヌキなのに。
俺の困惑なんか余所に、たいさんはそれを押しつけると、さっさと外に向かって行ってしまった。
「うわ、眩しっ」
洞窟の外に出ると、今度は明るい陽射しに目が眩んだ。
「ねえねえ、恵。さっきたいさんから何貰ったん?」
明暗の差なんてものともしないあゆみが、興味深そうに俺の手元を覗き込む。
「ん、ああ。ただのノート……かな?」
「ノート?」
ぱらぱらとページをめくってみたものの、何も書かれていない。
正真正銘、ただのノートだった。
だけど、あのたいさんの持ち物だ。“ただの”ノートだとは考え難い。あゆみも同じ意見なのか、訝しげに見ていた。
そこにたいさんがやってきた。そして、
「二人して、何をそんなに熱心に見ているんだ? それは紙芝居のネタを書きとめようと調達した普通のノートだぞ」
と、なんともあっさりとした夢のない答えを口にした。
「おぬしは学生だからな、それを使って勉学に励むがよい」
「はあ……それは、どうも」
ちょっとだけ何かに期待していた自分の馬鹿。
「そうだ」
突然たいさんが手を打った。
「ちょうど洞窟が近くにあるのだ。おぬしに『求聞持法』を授けてやろう。記憶力増進のための修法だぞ」
求聞持法(ぐもんじほう)――
一度見聞きしたことを忘れない、無限の智恵を手に入れることができるという真言密教の秘法だそうだ。
若き日のお大師さんは、この法を修得して、天才的な能力を手に入れたという。
「何、難しいことではないぞ。洞窟に百日間ほど籠って、虚空蔵菩薩の真言『ノウボウアキャシャギャラバヤオンアリキャマリボリソワカ』を百万回唱えるだけだ」
そう前置きして、たいさんは求聞持法の手順を簡単に教えてくれた。
まず、開始する日の決定。
――開始日は、結願の日が日食か月食になるように設定しなくてはならない。
次に食事制限。
――一日一食や五穀断ちなど。
そして、虚空蔵菩薩を観想する。
――虚空蔵菩薩像を自分で彫る、または絵に描いて、真言を唱える間、それらを傍に置き観想する。
最後に、牛蘇を飲む。
――真言を百万回唱え終わったら、牛の乳から作られたチーズのようなものを摂る。
「ちなみに、大師は牛蘇を食べなかったぞ。高知の室戸岬にある御厨人窟(みくろどくつ)という場所で修行をしたのだが、空から明星――金星と言ったほうが、おぬしには馴染みがあるかもしれん――が飛んできてな、口の中に入って、大師はそれを牛蘇の代わりにしたのだ」
明星は虚空蔵菩薩の化身とされる。それが口の中に入ってきたということは、お大師さんが虚空蔵菩薩と一体化したということを暗喩している。
しかし、金星がチーズの代わり。チーズの代わり……!
「どうだ、簡単だろう? やってみたくなっただろう?」
たいさんはにんまりと笑う。
真言を百日で百万回。ということは一日に一万回唱えるということ。
一回唱えるのに三秒かかるとすると三万秒、連続で唱え続けたとして、一日八時間強を詠唱に費やすこととなる。
一回二秒でも約六時間だ。
しかも、修行中は真っ暗な洞窟に、たった独りきりで。
「……それするなら、普通に勉強するわ」
俺がそう言うと、たいさんは残念そうに肩を落とした。
え? ……させる気だったの?
「――あのさ」
俺たちが団子になって話をしている背後から、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
振り返った先に立っていたのは淡桜だった。
「おお。長女ではないか、どうした?」
「『どうした?』――じゃないわよ、このすっとこダヌキ!」
「すっ!?」
八八長女の迫力に怯むたいさん。
淡桜は朱く鋭い眼差しで俺たちを見据えて一喝した。
「あんたたち、時間がないんじゃなかったの!? こんなところで油売ってる場合じゃないでしょーが!」
――はっ!
「そうだったあああ!!!!」
残り時間は、三時間半。
大騒ぎしながら建治寺を後にする一行。
ドタドタと、駆け足で山を下りている途中。
建治寺の駐車場の横を通り過ぎようとしたとき、あるものが目に映って足を止めた。
「たいさん、たいさん」
「うむ?」
「たいさんの仲間がおるで」
俺はたいさんを呼び止めて、駐車場の片隅を指差した。
そこにはタヌキの置物――高さ一メートル五十センチくらいありそうな大タヌキの両脇に小ダヌキが二体、佇んでいる。
何故、この場所に置かれているのかは分からない。そして大タヌキが、ギザギザの歯を剥き出しにして笑っていて微妙に不気味だったりする。
「ふん。あんな不細工な置物ダヌキと一緒にされては困る」
たいさんはそれを見ると鼻で笑った。全国の置物タヌキさんに謝れ。
「確かにタヌキだという共通点は認めるが、仲間だと言う意味が分からん。儂の方が断然イケメンではないか」
「よし、わかった。ちゃんと鏡を見ような」
「な、なんだとう!?」
「はいはい、そこのすっとこどっこい×2。じゃれ合うほど体力が有り余ってるのなら、ここから大日寺まで走りなさい」
「うわぁ、ごめんなさいすみません!」
淡桜に睨まれて、俺とたいさんは反射的に頭を下げる。
そんな俺たちのやり取りを見て、あゆみが吹き出した。
*
その様子を。
遥か上空から、緑色の瞳が覗っていた。
俺――いや、他の誰一人として、その視線に気づいてはいなかった。
*
「ねぇ、あんたさ」
大日寺に到着する一歩手前、淡桜が俺の白衣の裾を引っ張った。
「な、何さ」
たいさんとふざけていたときよりも厳しい眼差しに、覚えず身体が強張る。
「……何、身構えてるのよ」
まったく、と半眼になる淡桜姐さん。
「別にどうでもいいけど、何であんたが巡礼を続けようと思い直したのか聞きたかっただけよ」
そう言うと、淡桜はプイッと視線を逸らせた。
「ま、あんたが続けようがやめようが、私にはこれっぽっちも関係ないけど――ひゃぅ!?」
淡桜の背後から伸びた腕が、彼女の身体を抱きしめる。
「な、なななっ」
「あはははっ。憎まれ口をたたいてるけど、淡桜ちゃんは恵クンがやめるって言ったのを誰よりも気にしてたんだよっ」
金髪ドリルの蔵杏羅(くあら)登場。
「ちょっと! 誰が気にしてたですって!? 冗談じゃないわ――っていうか、この手をさっさと離しなさい!!」
「淡桜ちゃんったら、ツンデレ~☆」
まさかの捨て台詞を残して、蔵杏羅は姿を消した。
「――~~っ!」
顔を真っ赤にして、握った拳を小刻みに震わせる淡桜。
俺はどうすればいいか分からずに、その場に凍りついていた。
そこに何も知らない第三者登場。
「あれ、二人ともどうしたん?」
あゆみが興味津々な様子で俺と淡桜の顔を交互に見比べる。
「別に、何でもないわよ! もういい、帰る!」
そう言って、淡桜は姿を消した。
「はわわ、何か悪いことしちゃったんかな、あたし」
戸惑うあゆみに、俺は「お前のせいじゃないから気にするな」とだけフォローしておいた。
結局、淡桜が何を言いたかったのか分からず終いだ。
古文書に向かって何度か呼びかけたが、返答はなかった。すっきりしない気持ちのまま、十三番札所の大日寺に到着した。
*
大栗山(おおぐりざん)花蔵院(けぞういん)大日寺(だいにちじ)。
弘仁六年(八一五年)、弘法大師・空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていたときのこと。大日如来が現れて「この地は霊地であるから一寺を建立せよ」と告げた。そこで空海は、その大日如来の姿を刻んで、堂宇を建立し、本尊として安置したという。
天正年間(一五七三年~一五九二年)に長宗我部元親の兵火によってすべて焼失したが、徳島藩三代藩主・蜂須賀光隆によって再建された。
その後、阿波一宮神社――道路を隔てた向かいにある――の別当寺となり、江戸時代には一宮神社が札所とされていたが、明治の神仏分離によって神社は独立した。そこで、阿波一宮神社の本地仏だった十一面観音――行基作といわれる――を移して本尊とし、もともとの本尊の大日如来は脇仏とされた。
「ここ大日寺は、神仏分離とそれがきっかけでおこった廃仏毀釈の運動の影響を、諸に受けた寺の一つだと言えるぞ。それで、神仏分離とは何か、だったな。その前に、そもそも神と仏が――って、少年よ。聞いておるのか?」
寺の由来についてあれこれ説明をしていたたいさんだったが、俺がろくに話に耳を傾けていないことに気づいて言葉を切った。
「人の話はちゃんと話し手の顔を見て聞くのが礼儀だぞ。脇見とは無礼なヤツめ」
「あ、ああ……ごめん。向かいの神社の裏で、女の子が喧嘩しよるんが気になって」
神社のお堂の影に、巫女さんっぽい(?)服の子と、韓国の民族衣装――チマチョゴリって言うんだっけ?――っぽい(?)格好の子がチラッと見えた。「っぽい」って何だと言われそうだが、「っぽい」ものは「っぽい」のだから仕方がない。
「喧嘩なん? 大変、止めなきゃ」
「待った。小っちゃい子同士が、何やら言い合っていただけやけん、俺らが口出しするんもどうかと思う」
今にも神社に向かって走り出しかねないあゆみを、慌てて制止する。
「先に参拝をすませて、それでもまだ揉めとるようなら様子を見に行こうや」
あゆみは不満そうに口を尖らせていたが、渋々納得してくれた。
大日寺の境内に入って、真っ先に目にとまったのは合掌している両手の中に入った極彩色の観音像だった。「しあわせ観音」といって、その名の通り、幸せを祈願するとよいとされている。
その後ろ側には小さな池があって、龍王像を取り囲むように七福神の像が並んでいた。
「そだ、このお寺の住職さんって韓国の方なんやって」
「へぇ」
「四国八十八箇所で初の外国人住職さんでね、その人は有名な伝統舞踊家でもあるらしいんよ」
「そうだよ。ちなみに、ここに棲んでる妹の結花(ゆな)ちゃんも、すっごく踊りが上手なんだよっ」
「ゆなさん?」
「うん。縁結びの『結』に、草花の『花』って書いて『ゆな』ちゃん!」
「可愛い名前やね」
「着物も可愛いんだよっ。丈の短い上着にね、裾が大きく膨らんだ袴みたいなのを合わせてて、胸のところから蝶に結んだ帯を長ーく垂らしてるの」
蔵杏羅は身振り手振りを交えて着物の説明を始めた。
「異国の伝統的な衣装らしいんだけど、何て名前だったかなー? うーん……」
考え込む蔵杏羅さん。
説明を聞いた限り、俺がさっき見かけたアレと同じ種類の服な気がする。というか、神社裏で見かけたあの子が「結花ちゃん」である可能性が高い。
そんなことを考えていると、蔵杏羅がポンッと手を打った。衣装の名称を思い出したのだろう。
「そうそう! 確か『ちょんちょこりん』だったはずだよっ!!」
*
納経を終えて、俺たちは大日寺の向かい側にある一宮神社へ移動した。
一宮神社――番外霊場であり、元札所。
祭神は大宜都比売命(おおげつひめのみこと)で、衣食・農業・商業・開運の神、また縁結び・安産の守護神として信仰する人が多い。
一宮神社の本殿――寛永七年(一六三〇年)の建築だとされる――は『三間社流造(さんげんしゃながれつくり)』という様式で重要文化財に指定されている。
「恵、女の子たちが言い争いをしてたのってどこなん?」
「本殿の裏側かな」
「驚かせちゃ駄目だから、こっそり近付いて、物影から様子を見るのが良いと思うなっ」
「ふむ。何やら探偵の真似事をしている気分だな。なかなか趣があって良いぞ」
俺・あゆみ・たいさん・蔵杏羅のパーティーは、小声でボソボソ話しながら、本殿の壁伝いに裏側を覗き込んだ。
そこには二つの影。
「あ。結花ちゃんだよっ」
その内の一人――奥側に立っていてこちらに顔を向けている――は、チマチョゴリっぽい(?)衣装に身を包んだ黒髪少女。蔵杏羅は彼女を指差して十三番目の妹だと告げた。
「手前に立ってる、緑色の袴を履いたお団子頭の子は? 結花さんと話してるってことは、“そういう”人なんよね」
「うーん、誰だろ? わたしは知らない子かなっ」
「それより、あやつらは何を言い争っておるのだ?」
耳を澄ませて立ち聞きをする四名。
二人までの距離は少し離れているので、会話の全内容までは分からない。
でも、状況だけはなんとなく見えてきた。
二人が言い合っていたのではなく、見知らぬ団子頭のヤツが八八さん十三女・結花に対して、一方的に怒鳴りつけていたのだった。
その様子に、蔵杏羅は頷く。
「うんうん。結花ちゃんは大人しい子だからね。喧嘩なんておかしいって思ってたよ」
だからって、そこで納得しちゃってもいいのか、蔵杏羅さん。自分の妹が苛められてるってことだぞ。
「……助けんで構わんの?」
俺の言葉に、蔵杏羅は困った顔で頭をかいた。
「助けたいのはやまやまだけどね。ほら、わたしって愛と希望を届けるみんなのアイドルだから、喧嘩しちゃ駄目なんだよっ☆」
シュピーン☆っと、アイドルポーズを決めるダメ姉貴。
「恵、お願い。結花さんを助けてあげて」
「悪い。仲裁って苦手なんだわ。ってことで、たいさん、パス」
「む。儂は万人を等しく導かなくてはならないからな。一人に肩入れをするわけにはいかんのだ」
醜い擦り付け合いの嵐。
「ハッ」
唐突に笑い声――それには「結花さんを助ける権」を譲り合う俺たちを小馬鹿にしたような響きが含まれていた――が聞こえた。
「グズグズするなよ、情けねぇ。オレが片をつけてきてやろうか?」
燃え盛る炎を連想させる真っ赤な着物に、禍々しくも美しい濡羽色の大蛇を従えた、何とも勇ましい、救いの神――灼(あらた)降臨。
「灼ちゃん、灼ちゃん。手荒なことしちゃ駄目だよっ」
「分かってるって。五月蝿いなー」
蔵杏羅の忠告に、灼は面倒臭そうに答えながらも頷いた。
灼に対して、俺は「誰の手にも負えないほど狂暴なヤツ」というイメージを抱いていたのだが、姉妹の序列はちゃんと守る人なのかもしれない――蔵杏羅とのやり取りを見てそう思った。
灼は指の骨をパキパキと鳴らしながら、本殿裏の二人の方へと歩いていく。
「灼ちゃん、任せたよっ」
「はいはい。――それじゃ、綺麗さっぱり燃やして片付けてくるか」
――!?
「さっき蔵杏羅さんが言ったこと、全然分かってないじゃーん!!」
「うーん。あの子に任せたのはちょっと失敗だったかなっ。てへっ」
てへっ、じゃねぇえええええ!!!!
気がつけば、俺は走り出していた。このままじゃ、あの団子頭が大変なことになる。
灼の手が届くよりも早く、俺が、その子の腕を掴んで引き寄せ――――――
ぱしゃり。
唐突に。水滴の弾けた音が聞こえた。
「…………」
「…………」
「…………」
頭から水を被った三人――俺、灼、そして団子頭――は、やり場のない居た堪れなさを感じながら、呆然と突っ立っていた。
そこに、
――パンパンッ
と、手を叩きながら姿を現したのは、桶を片手に持った癒安(ゆあん)だった。
「乱暴な真似をしちゃダメって言ってるでしょ?」
癒安は真っ先に灼を窘めた。
「う、うるせー。いっつもオレの邪魔ばっかりしやがって……!」
「ほら、また。乱暴な言葉遣いもダメよ」
「……っ」
やんわりと諭す癒安が苦手なのか、灼は言葉を詰まらせる。
「分かった? なら、自分のお寺に戻って、早く服を乾かしなさいな」
癒安は、幼い子をあやすように灼の頭を撫でる。ナデナデナデ。
「こ、子ども扱いするな」
灼は癒安の手を振り払うと、バツが悪そうに姿を消した。
「ふふ。子ども扱いもなにも、子どもなのにねぇ」
と、微笑する癒安。
そして、今度は俺の方に向き直った。
「あっちの物影から一部始終見させてもらったよ。あの子を守ろうと走っていった恵ちゃん、カッコよかったなぁ。君ってクールそうに見えるけど、案外アツいんだね。いやー、おねーさん、ちょっと感動しちゃったよ」
「癒安さん……一部始終見てたんなら、助けてくださいよ」
「えー。それじゃつまんないでしょ」
「…………」
安楽寺に棲む八八さん、癒安。
この人はこの人で、それなりにつかみづらい性格をしている。
「さて、と」
癒安は、巫女服っぽい格好をしたお団子頭の方を見た。
その子は、腰を抜かしてすっかり萎縮してしまっている。そりゃあ、灼に襲われかけた挙句、突然頭から水をぶっ掛けられたのだから、放心状態にもなるだろう。
「ごめんね。大丈夫?」
癒安はしゃがみ込んで、優しく声をかけた。その問いかけに、団子頭はこくりと首を動かした。
「さっき、君と口喧嘩をしてた相手――黒髪の女の子がいたでしょ?」
こくり。団子頭が頷く。
「ウチはね、その黒髪の子のおねーちゃんなわけ。それで、妹が心配になって見に来たのね」
こくり。
「何で喧嘩してたのかな? よかったらおねーちゃんに話してほしいな」
プイッ。
今度は横を向いた。言いたくない、ということだろう。
それにしても。
次から次へと、いろんなヤツが出てくるよな……。
団子頭を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
俺はふと、
何かに気がついた。
――――あれ? この髪型、
徳島特産のすだちっぽくね……?
じゃなくて。
俺は、この団子頭とどこかで会ったことがある。
その瞬間。
「ああっ! もしかして『あのとき』の――――!?」
背後で、誰かが叫んだ。
つづく
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