第十六話<観音寺(後編)>
2014年7月 初稿(10,580文字)
文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign
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遡ること一時間。
幸野恵とあゆみの二人と別れた私は、観音寺の境内を緩々(ゆるゆる)と歩いていた。
二人と別れるとき、
“私は妹を探してくるから”
って言ったけど。
本当は探す必要なんかない。
だって、あの子が在(い)る場所は決まっているもの。
なのに真っ直ぐそこへ向かわないのは、別に時間を持て余してのことじゃない。
ただ、踏ん切りがつかないだけ。
自分から言い出したことだけど、いざ会いに行くとなると気後れしてしまう。
この私――長女・淡桜たる者が妹相手に気後れだなんてお笑い種もいいとこだけど。
言っとくけど、会いたくないってわけじゃないのよ?
あの子のことはもちろん好きで、二番の誰かさんみたいにしょっちゅう口喧嘩をしてるわけでもない。
とても優しくて、とてもいい子。
いつもにこにこ微笑(わら)って、その行いは常に「善」で、それこそ観音さまみたいな私の妹――観音(かのん)。
そんなあの子を。
私は怒らせてしまうんだと思うと気が重くなる。
だから。
足取りまで重くなる。
私は妹のところへ向かう足を止めるどころかしゃがみ込んで、意味もなく夜泣地蔵さまの頭を撫でるのだった。
このお地蔵さまは子供の夜泣きを止めてくれる。
夜泣きに困った親御さんがお参りに来ては、ご利益のお礼に「よだれかけ」を奉納していくおかげで、何枚もの「よだれかけ」がお地蔵さまにかけられていた。
子供の夜泣きだけじゃなくて、夜眠れないお年寄りも安眠祈願に訪れるとか。
「って、今から眠ってる妹を起こしに行くのに、安眠を祈願しても意味ないじゃない」
ぼそっと、自分に突っ込みを入れてみた。
「一人で何言ってんのぉ?」
「きゃあ!」
突然、背後から声をかけられて飛び上がった。
「予想外に可愛らしい反応だった――みたいな?」
「う、うるさい! ちょっとびっくりしただけよ!」
私は立ち上がって後ろを振り返った。
視界に広がる赤。
そこに立っていたのは七女の羅紗(らーしゃ)だった。
まあ、振り向く前からわかってたけど。その気の抜けた口調のおかげで。
「ったく。相変わらず長ったらしい赤髪が鬱陶しいのよ。いい加減切りなさいって言ってるでしょ? いっそ織刃(おるは)にばっさり切ってもらったら?」
あの子のハサミ捌きは一流よ? と、私。
「むぅ……。顔を合わせるたびに『髪を切れ』って言うの、やめてほしいかも……」
髪は女の命、チャームポイントなのにぃ。と、羅紗。
「――で? そんなところで何してんのよ」
「お姉ちゃんこそ、何してるのぉ?」
質問を質問で返す妹だった。
ただ、同じような質問でありながら、その“質”は若干違う。
私の「何してんの?」は、てっきり自分のお寺で休んでると思っていた妹が不意に背後に現れ出て、「そんな場所で何をしてんの?」と額面通りの問いかけだったけど。
赤い妹のそれには、「そんなことをしてもいいの?」と、非難めいた意図が込められていたのだから。
八十八人姉妹の七女・羅紗。
第七番札所・十楽寺に棲むこの妹は、愛染明王さまの偶像を拠り所にしている。
私たち姉妹――「八八さん」と呼ばれる結界の守り人は、その姿形、性格、才にいたるまでを“何を拠り所にしているか”に大きく依存するわけで。
ヒトに愛と尊敬の心を与えて、幸運を授けてくれるという愛染明王さまを象った像を拠り所にする羅紗もまた、少なからずその性質を持ち合わせていた。
そして、愛染明王さまと言えば「一面三目」。
三つの眼は法身と般若と解脱を意味し、世俗面においては仁愛と知恵と勇気の三つの徳の表徴。
さらにそれは、欲界・色界・無色界の三界を見渡す眼とも言われてる。
もちろん、我が妹に愛染明王さまと同等のチカラなんてない。
それでも姉妹の中では格別と言ってもいいほど目がよくて、誰よりも縁を取り持つのが上手いのは、その拠り所ゆえの才能だった。
ああ。目がいいっていうのは、当然、物理的に遠くが見えるってことじゃないわよ?
羅紗が視るのは相手の心。
そして、縁。
その才を活かしてヒト相手に恋愛成就の占い師とかやってるみたいだけど、ま、その話は置いておくとして。
とにかく、そんな七女だから、私が何をしてるか――何をする気なのかなんてとっくにお見通し。
わかったうえで「何してるのぉ?」って訊いたのよ。
だから、その質問の真意は「そんなことをしてもいいの?」なのね。七女風に言うなら「そんなことしていいのぉ?」――かしら?
さておき。
私もそこまでわかったうえで、
「何って、観音を起こしに行くだけよ?」
と、さも当たり前のように答えた。
「それってぇ、かのかのを恵たんとあゆたんに引き合わせるためにぃ?」
「ええ、そうよ」
その口調と、そのあだ名はどうにかならないのかしら。と、心の中で毒づく。
「淡桜お姉ちゃんが――よねぇ?」
「今、この場に、私以外の誰かが見えるのかしら?」
と、皮肉で返した言葉を、羅紗はたいして気にした風もなく「まぁねぇ」と受け流す。そして「だったらぁ」と続けた。
「『ヒトに自ら進んで近づくことを禁ず』――そのキマリを破るのぉ?」
「それはっ」
痛いところを突かれて、つい感情的に荒らげそうになった声を慌てて抑え込んだ。
「それは……仕方がないでしょ。ヒトが近寄れない場所にあの子が在(い)るんだから」
「確かにぃ」
「それに、あの二人には私たち全員と縁を結んでもらわなきゃ、私たちだって困るの」
「よねぇ。それくらい、私だってわかってるって言うかぁ」
「だったら何が問題だって言うのよ」
私はイラッとして語調を強める。
羅紗は「ん~……」と、ほんの少し困ったような笑みを浮かべて、
「かのかの、きっと怒るよぉ?」
と、言った。
「くっ……」
その言葉に、不覚にも声を詰まらせる。
「や、やっぱり、怒るかしらね……。あの子……」
「確率からして百パーセント? あ。何だったらお供えのお饅頭を二十個、賭けてもいいかも?」
「何、馬鹿なこと言ってんのよ」
賭け事だなんて。しかもそのお供えのお饅頭って、愛染明王さまへの捧げものでしょ?
でも。
そっか。百パーセント怒る――か。
はぁ。
と、溜め息をつく私。
「私としてはぁ」
羅紗が言う。
「淡桜お姉ちゃんがキマリを破ることより、かのかのが怒ることのほうが大事件かも」
……なるほど。
この七女は、戒めを破ろうとする姉を咎(とが)めに来たのではなくて、あの妹を怒らせるなと忠告しにきたのだとわかった。
確かにあの子が怒ったら恐(こわ)いもの。
普段、にこにこと朗らかに微笑ってるような子だから、なおさら。
まるで観音さまが不動明王さまに転身するかのよう。
「ん? 言っとくけどぉ、キマリを破るのも、もちろん大問題だよぉ?」
「わかってるわよ!」
見透かしたように言う妹だった。
「――じゃあ、羅紗」
私はあまり口にしたくないことを口にする。
「だったら私は、どうしたらいいって言うのよ」
妹に助けを求めるなんて――超、格好悪いけど。
そんな姉の自尊心を捨てて訊いた私に対する羅紗の答は、
「どうしようもないかも?」
だった。
「……………………」
「そんなに睨まないでほしいの……」
大袈裟に肩をすくめる七女。
「だってぇ、かのかのを連れてくるって言ったの、どうせお姉ちゃんでしょぉ? それに約束を交わしちゃった後に言われても困るって言うかぁ。今さら、どうするもこうするもないと思うの」
緩い口調で至極真っ当なことを言われた。
羅紗は「だけどぉ」と、頭の獅子の飾りを弄びながら言葉を続ける。
「恵たんたちだけじゃ、かのかののところに行けないのは事実だしぃ。それくらい、あのかのかのなら、わかってくれるはず、みたいな?」
「よね!」
思わず身を乗り出す勢いで頷いてしまった。
でも、喜びは束の間――すぐに気づく。
「って、待った。なら、なんで『百パーセント』怒られなきゃならないのよ?」
「ん~……」
またしても曖昧な笑み。
この赤い妹は、自由奔放に好き勝手言いたいことを言ってるようで、意外と言葉を選ぶふしがある。
言いにくいことがあると誤魔化すように笑うのはこの子の癖だった。
「……問題なのはぁ、言い出したのがお姉ちゃんのほうってところ……かも?」
「なんだ、そんなこと」
羅紗が躊躇(ためら)うくらいだから、一体どんな懸念があるのかと思えば。
なんだ。と一笑に付す程度のことだった。
「それなら問題ないわ。二人には口止めしてあるから」
「口止めぇ?」
“それに、例の『約束』。あれは絶対に、忘れないで頂戴”
二人と別れるときに投げた言葉。
あれだけ念押ししたんだから、大丈夫に決まってる。
と、思ったのに。
「…………何よ。その呆れたような、哀れむような顔は」
「お姉ちゃんって、たまに『天然?』って言いたくなるときがあるの……」
「どういう意味よ」
羅紗は心底、可哀そうなモノを見るような目で、
「相手は“あの”かのかのだよぉ? 会話なんて、全て筒抜けに決まってるの」
「あ」
私は小さく息をのんだ。
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観音寺に棲む、十六女・観音。
この子は、八十八人姉妹の中でも際立って特異なモノを拠り所にしている。
どこにでも存在し、どこにも存在しない、カタチのないモノを。
それは、千手観音菩薩さまの“慈悲の御心”。
私たちの姿形、性格、才は拠り所に依存する。
それに則るなら、観音という妹に本来、実態はない――と言うか、実体を持てない。
なぜって、“慈悲の御心”という性質を有するにはヒトを模ったイレモノは小さすぎるから。
とは言っても、それでは八十八人姉妹の一人として存在し難い。
だから、起きている間だけヒトを模る。
そのかわり、眠りにつくと本来の在るべき姿に戻る。
カタチのない意識体に。
眠っているときの観音は、観音寺そのものと同化する――お寺を包み込む空気になると言ってもいいかもしれない。
“会話なんて、全て筒抜けに決まってるの”
と、七女が言ったのはそんな理由。
この子の場合、眠りと目覚めは意識のオン・オフじゃない。
ヒトを模るかどうかの切り替えスイッチみたいなもの。
そして、そのスイッチの在処(ありか)を知っているのは――観音を起こすことができるのは――私たち姉妹と、私たちの生みの親のあの人だけ。
ヒトには触れることもできないし、見つけることさえ叶わない。
だから私は。
幸野恵とあゆみの二人に「あんたたちじゃ無理」って言ったのよ。
◇
「私はぁ、お姉ちゃんの力になってあげたいけどぉ」
七番の妹は言う。ゆるゆるの口調で。
「でも、ぶっちゃけイロイロ手遅れって言うかぁ、さっさと諦めるのが賢明、みたいな? ま、観念して、かのかのに早く会いに行くのがいいと思うの~」
「……そうね。そうするわ」
私は羅紗に背中を押されて夜泣地蔵さまの前を離れた。
背後で「がんばってねぇ」と、妹の声援が聞こえる(でも、ちっとも応援されてる気がしないから不思議よね)。
「まあ、連れて来るって言っちゃったし。あの子だって、話せばわかってくれる子だし」
私は自分に言い聞かせて、大師堂の前を通って本堂へと向かった。
途中、大師堂の扉の前に二人の姿を見つけた。
姿勢を正してお経を読むあゆみ。
その隣の幸野恵はたどたどしさが遠目でもわかる――それでも、真面目に読もうという意識は伝わってきた。
そんな二人を見て、私は素直に感心する。
同時に。
ふと、違うことを考えている自分に気がついた。
「…………」
私はふるふると首を振った。
今は“そんなこと”を考えている場合じゃない――大師堂から目を逸らせて、本堂へと足を速めた。
小ぢんまりとまとまった境内なので、急いで歩くと目的の場所へはものの数十秒で辿り着く。
「……さて」
本堂の扉を前にして。
「なんて言いわけをしようかしらね」
私はそう呟いた。
言いわけを用意しようとするあたり、もう長女の誇りや見栄なんてない。
だって、いくら虚勢を張ったところで、恐いものは恐いもの。
いっそ神さまにお願いしたいくらい。
ちらっと、横に視線をやる。
本堂の右側には「八幡惣社両神社(はちまんそうしゃりょうじんじゃ)」のお社(やしろ)があった。
その扁額(へんがく、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲げられた額のこと)には「惣社大御神」「八幡大神宮」とあって、全国の八幡神社の祭神、応神天皇(おうじんてんのう)が祀られている。
で、「惣社(そうしゃ)」っていうのは、いくつかの神社の祭神を一つに集めて祀った神社こと――「総社」とも書いて、読みも「そうじゃ」「すべやしろ」と様々。
なんでこんな神さまいっぱい大所帯のお社ができたかって言うと、昔々――古代日本の国司(国の中央から地方に派遣された役人さんみたいな人たちね)の最初のお仕事は赴任先の地域の神社すべてを巡って参拝することで。
それが平安時代になって、国府(地方行政府、国司が政務を執る施設が置かれた都市)の近くに惣社を建てて、それを拝むことで巡拝する時間を省くようになったの。
つまり、手抜――いえ、政務を滞りなく行うための合理的手段として設けられるようになったのね。
ほとんどの惣社は中世にいったん廃れて、後世に再興されたものらしいわ。
そして、ここ――観音寺がある場所は、徳島市の「国府町観音寺」。
昔、この辺に国府が置かれて、惣社もまたこの付近にあったんだって、そんな推測が成り立つってわけ。
…………さて、と。
現実逃避は終わり。
いい加減、妹に会いに行かなきゃ。
私は、本堂の正面に向き直った。
そして、閉じられた格子戸を擦り抜けて、中へと入った。
「…………」
中は、格子から差す陽光(ひかり)で暗くはない。
浮かび上がる十一面四十二臂の御姿――観音寺のご本尊、千手観音菩薩さまの立像。
その前に歩み寄り、諸膝を折って頭を下げた。
目を瞑(つむ)って、イメージする。
内(なか)へ――と。
すると、ふっと身体が軽くなって。
閉じた目蓋の中にまで光が入ってくるのを感じた。
そこは。
ヒトには決して立ち入れない場所――菩薩さまの「内側」。
眩くも温かい光が自身を包んでいる。
私は目を閉じたまま、その光の中心に向かって、
「観音」
と、妹の名を呼んだ。
たちまち、光が収束する。
目蓋の奥に感じていた眩さが薄れ、外へと押し出されるような感覚が身体を伝う。
目を開けると、そこは夏の陽射しが差し込む本堂の中。
すぐ側には千手観音菩薩さまの立像――その横に、にこやかに微笑む少女の姿があった。
「おはようございます、御姉様」
「おはよう、観音」
私は十六番の妹と目覚めの挨拶を交わした。
……さあ、何から話そう。
なんて考える隙もなく、観音は言った。
先回りするように――言った。
「何もおっしゃらなくてよろしいですわ。大筋は把握しておりますから」
「…………」
私は我ながら情けないと思いながら、おそるおそる訊ねた。
「……観音、怒ってる?」
にっこりと笑う十六女。
「はい。とっても」
とっても、素直な妹だった。
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何も言うなと言われて――でも、そのまま黙って叱られるのも癪だった私は、
「あんたも妹だったら、姉の言いわけぐらい聞きなさいよ!!」
と、逆切れしてみた。
その結果。
あの二人が納経を終えて全員が集まったところで、まとめて弁明する機会を得た。
やったね、私!
……なんて言えるはずは、ない。
代償として、私は二回も謝る羽目になったし(一回は守り人の戒めを破ったこと、もう一回は逆切れしたことに対してね)、観音はますます不機嫌になったのだから。
ろくに口も利いてくれない。
めっぽう怒ってるくせに笑顔だけは崩さない子だから、それが余計に恐い。
針の筵(むしろ)に座らされた気持ちで、待つこと三十分。
ようやく幸野恵とあゆみの二人が戻ってきたのは、門で別れてから実に一時間が過ぎた頃だった――ちなみに、丸いタヌキも一緒だった(いたわね、こんなの)。
私たちはヒトの目を避けて、本堂の裏へと移動した。
「……とりあえず、紹介するわね。私の後ろに立ってるのが――」
「十六女、観音ですわ」
私の言葉を引き継ぐかたちで、十六女は軽く挨拶をし、
「さあ、御姉様。どういうことなのか、説明していただきましょうか」
と、静かに言った。
「予め申しておきますが、御姉様が自ら戒めを破ったこと――そして、その罪を隠そうと御二人と口裏を合わそうとしたことは存じておりますので、つまらない偽言(ぎげん)はいりませんよ?」
「…………」
取りつく島もない物言いに、私は言葉を失った。
「…………」
「…………」
「…………」
二人プラス一匹も瞬時に状況を把握したようで、無言で私と妹を見比べる。
沈黙が、重い。
「あら? 御姉様。何か言いわけがあったのでは?」
観音が首を傾げる。
ああ、もう。
いつもは本当いい子なのに、怒るとなんでこうも意地が悪くなるのかしらね!
まあ、私の妹らしいと言えば、らしいのかもしれないけど……。
「……あのさ、観音さん」
何も言えずに黙っていた私の代わりに答えたのは、幸野恵だった。
「『八八さん』が俺たちと積極的に関わるのはルール違反だって知ったうえで、俺たちに観音さんを紹介してくれるって話を持ちかけたんは、確かに淡桜さんのほうやけど」
幸野恵は言う。
「観音さんが、その、特殊な場所に居て、そこに人間は近づけないってわかった時点で、俺たちはやっぱり、淡桜さんに同じことを頼んだと思う」
「うん。あたしたちは結界を守るために『八八さん』全員と逢って、みんなと縁を結ばないかんけん」
あゆみも同調する。
その答に妹は「そうですか」と頷いた。
「ならば、貴方方は、戒めを破ることを罪だと知りながら――その罪を御姉様に犯させたわけですね?」
「あ、あんたね! そんな言い方……!」
流石に声が出た。
「この二人は結界を守るために、私たちに会いに来たの! 結界を守ることのほうが戒めを守ることより大事だって、あんたなら言わなくてもわかるでしょうが!!」
「はい。それはわかります。ヒトが言うところの『緊急避難』と同じ理屈ですね」
何かを守るために、やむを得ず何かを犠牲にしてしまう。
それが「善」か「悪」かは別として。
「では、御姉様は“結界を守るために仕方がなく”わたくしに会いに来た、とおっしゃるのですね?」
「ええ!」
またしても「そうですか」と、観音。
「そうですね……勘違いされていては困りますから申しますが」
妹はそう前置きして、
「わたくしは御姉様が戒めを破った結果にたいして、意味もなく苦言を呈しているのではございません。そこにある真意――御姉様が何を思い、戒めを破るに至ったのかを考えてのことです」
「だから、結界のためだって」
「……本当に、そうでしょうか」
「どういう意味よ」
私は妹を睨んだ――妹は困ったように、だけど、やはり同じ笑顔で答えた。
「もし、“結界のため”という大義より、御二人にたいする憐情(れんじょう)や好情が勝ってのことであれば、わたくしは御姉様を叱責しなければなりません」
「何それ。それって、親切心で手を貸すなってことかしら?」
「いいえ、そういうことでは……」
観音が珍しく表情を曇らせる。
「わたくしたちのような存在とヒトとの間には、適度な距離感が必要です。戒めはそれを示唆したもの」
御姉様は、少しヒトと距離が近い――些か、馴れ合いが過ぎると思います。
と、十六番の妹は苦しそうに呟いた。
「――はっ、ばっかじゃないの」
私は苛立ちを通り越して呆れて言った。
「何よそれ。そんなわけのわかんない理由で怒られなきゃなんない私の身にもなりなさいよね。って言うか、結界を守るために協力して何が悪いって言うのかしら? そんなの、馴れ合いじゃなくて、ただの互助関係じゃない」
私の言葉に観音は、
「だと、いいのですけどね」
と、小さく嗤(わら)った――そこで姉妹の会話は途切れた。
その後、観音は二人に向かってこんな話をした。
「御姉様の意向がどうあれ、御二方が御姉様に戒めを破るよう促したという事実は、事実として揺らぐことはございません。そこにどんな理由や事情があったとしても、です」
そのことを理解したうえで聞いてください。と、妹は続けた。
「ここ観音寺に、かつて“炎に包まれた女性”が描かれた絵馬が奉納されました」
女性の名は宮崎シヨ。
四国巡礼の途中に雨に遭(あ)い、観音寺の茶堂で雨宿りをした淡路島出身の女性。
焚火で濡れた着物を乾かしていると、その炎が燃え移り、女性の身体を包み込んだという――絵馬に描かれているのはそのときの様子。
女性は告白した。
自分は姑と仲が悪く、あるとき姑を柱にくくりつけて、火のついた薪で折檻したことがあったと。
そして、自身が炎に焼かれたのは、お大師様がその罪を戒めになられたのだ――と。
女性は畏(おそ)れ、同時に自身の罪を悔やみ、その戒めとして絵馬を奉納した。
これは明治十七年の話。
その絵馬は今も本堂に掲げられている。
「女性の着物に炎が燃え移ったのは、単なる偶然だったのかもしれません。でも、女性はそうは思わなかったのです。そこに意味を感じたからこそ、自身の罪を省みたからこそ、絵馬を奉納したのだと思います」
わたくしの言わんとしていることがわかりますか?
と、観音の言葉は続く。
「この女性と姑の間に何があったのか――どんな理由があって女性は姑に手を上げたのか――そんなことは、わたくしにはわかりません。ですので、この話はこれで終わりです。ここからは一般的な話に置き換えましょう。何かを守るために何かを犠牲にする――生きていれば、よくある話です」
「そうね」
私は二人に代わって横から相槌を打った。
戒めを破ったのだって、結界を守ることを優先した結果だもの。と、呟く。
観音は「でも」と言った。
「でも――どんな大義を掲げたところで、何かを犠牲にしたと自覚してしまえば――罪を犯したと自認してしまえば、そこに必ず後悔が残ります」
罪の意識というものですね。
そう言うと、観音は一歩出て二人の前に立った。私には背を向けて、ちょうど私と二人の間に割って入ったかたちになる。
「後悔の念というものは後々禍根を残します。たとえそれが、わずかに後ろめたさを感じる程度のことであっても。わたくしは、そんなことで御姉様を煩わせたくはないのです。苦しめたくはないのです」
「――っ、あんたね!」
私はつい怒鳴ってしまった。考えるよりも先に口に出ていた。
なんで大声を上げてしまったのか自分でもわからない――わからないまま、叫んだ。
「私は妹のあんたに、そこまで心配されたくはないわよ! したいようにしてんだから、口出ししないでくれる!?」
観音は振り返らない。
私に背を向けたまま、
「わたくしは、ただ、御姉様が……」
と、何かを言いかけたが、
「はーいはい! 喧嘩はダメだよ! 姉妹喧嘩は犬も食わないんだよっ!」
突然の声に邪魔をされて、最後まで言うことなく観音は口をつぐんだ。
「みんなのアイドル、KU☆A☆RAちゃんの登場だよっ!!」
第五番札所・地蔵寺の妹、蔵杏羅(くあら)が現れた。
羅紗とはまた違ったベクトルで、人の気を削ぐのが上手い妹だった。
その場にいた全員の動きが一瞬にして止まった。
そんな状況でも、
「犬が食わんのは夫婦喧嘩……」
なんて、とりあえず突っ込みを入れる幸野恵は流石だと思った(も、もちろん皮肉よ、皮肉! 褒めてんじゃないわよ!?)。
「羅紗ちゃんから、淡桜ちゃんと観音ちゃんが険悪モードになってるかも? って情報が入って、ワタクシ、愛の伝道師・蔵杏羅ちゃんが、羅紗ちゃんの代理として派遣されてきました!!」
びしっと、蔵杏羅は敬礼の格好でそう言った。
「代理って……なんでまた……」
「うん、だってね。羅紗ちゃん、『お客さんがいっぱい来てぇ、今は手が離せないみたいな?』って言うんだもん。だったら、わたしが行ってくるよ~って感じになって」
「…………そう」
ヒトとの関わり合いがどうこうって話は、私なんかよりあの赤い妹にするべきだと思うわ……!
「……で、用件は何よ」
「羅紗ちゃんから伝言があるのっ! それじゃ、伝えるね――あ、羅紗ちゃん風に言ったほうがいいかなっ?」
「普通に伝えて頂戴。あの子の口調はイラッとするから」
あんたの言い方だって大概イラッとするんだけどね。とは言わなかった。
「まず、淡桜ちゃんに。観音ちゃんは淡桜ちゃんがすっっっごく! 大好きなんだよ! 観音ちゃんが怒るときはいつだって淡桜ちゃんを思ってのことだから、少し耳が痛いかもだけど、ちゃんとわかってあげてほしいなっ」
「言われなくても、それぐらいわかってるわよ」
私は憮然として溜め息をついた。
そんなこと、今さら言われるまでもない――観音が怒る理由はわかるし、それが「善」だということもわかってる。
蔵杏羅は「だったらいいよっ」と、にぱっと笑う。
「んじゃ、次、観音ちゃん。淡桜ちゃんがすっっっごく! 大好きで、ついつい心配してしまうのは仕方がないと思うけど、淡桜ちゃんだって小さな子供じゃないんだよ? もう少し信じてあげてもいいんじゃないかなっ?」
その言葉に。
観音は、私のように頷くことはしなかった。
毅然(きぜん)とした姿勢で「心外ですね」と口にした。
「わたくしが御姉様を信じていないとお思いですか? 他の誰でもない、このわたくしがですよ? わたくしは信じています。御姉様を。いつだって」
「だったら、なんでそんなに心配しちゃうのかなっ?」
ふわりと。全てを包み込むような微笑をたたえて十六の妹は、
「わたくしが、ヒトを信用していないからです」
と、言った。
ぞくりとした。妹相手に。
観音のそんな笑顔は初めて見た。
千手観音菩薩さまの“慈悲の御心”を拠り所とする観音は、その特性ゆえに全てを受け入れることはできても、何かを否定することはできない。
何かを否定することは、その性を否定すること。
自身の在り方を否定することだから。
それにも関わらず。
“信用していない”
妹がそう言い切った裏には。
自身を否定――犠牲にしてまで、守りたい何かがあった、から?
そして、それが。
私だって言いたいの……?
私は唇を噛んだ。
何を言ったらいいのかわからない。
自分が今、何を思っているのかさえ――わからなかった。
「――意味、わかんない」
私は、一言言い捨てて、その場を離れた。
誰も呼び止めようとはしなかった。
自分の棲み処――霊山寺(りょうぜんじ)に戻った私は、いつも寝床にしているお堂に入って足を投げ出し、そのまま“ごろん”と横になった。
「あーあ。しんど……」
何も考えたくなくて目を閉じた。
完全に不貞寝だった。
残り札所 七十二
結んだ縁 十五(保留、一)
つづく
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