第十八話<恩山寺>

2014年8月 初稿(11,360文字)

文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign


     /7月26日(5日目)

 第十八番札所。
 母養山(ぼようざん)宝樹院(ほうじゅいん)恩山寺(おんざんじ)。
 寺伝によると、聖武天皇(在位七二四~七四九)の勅願により行基菩薩が開基し、当時は「大日山福生院密厳寺(みつごんじ)」と号する女人禁制の道場だった。
 延暦年間(七八二~八〇六年)、弘法大師・空海がこの寺で修行をしていたとき、母・玉依御前(たまよりごぜん)が讃岐の善通寺(ぜんつうじ)から訪ねてきた。
 しかし、寺は女人禁制――十九番札所に向かって下る「花折り坂」という坂から上に女性は入ることを許されていなかった――そこで弘法大師・空海は山門近くの滝で十七日間の修法を行い、女人解禁の祈願を成就して母君を迎え入れたそうだ。
 その後、母君がこの寺で剃髪をし、その髪を奉納したことから、山号寺名を現在の「母養山恩山寺」に改めた。弘仁五年(八一四年)の話だという。
 天正年間(一五七三~一五九二年)に長宗我部元親の兵火――天正の兵火によって焼失したが、江戸時代に徳島藩主蜂須賀氏の庇護をうけて復興、繁栄した。現在の諸堂は文政年間(一八〇四~一八三〇年)に建立されたものである。


     /1

 五日目の早朝。俺はあゆみとたいさんと連れだって、眉山(びざん)――どの方向から見ても眉の形に見えるところからその名前がついたらしい――の見える車通りの少ない国道を歩いていた。
「今日のたいさん、えらい楽しそうやね」
「ん? そうか?」
 あゆみに言われて、みかん型の不思議タヌキへと視線を向けた。
 なるほど確かに、たいさんは一人――もとい一匹でにやにやと顔をほころばせていた。
 何か良いことでもあったのだろうか。
 二人で様子を窺(うかが)っていると、ふとたいさんが立ち止まった。
「少年、娘よ。ちと用事を思い出したのでな、儂(わし)は寄り道をしてから行く。おぬしらは先に恩山寺へ向かうがいい」
 たいさんはそう言うと、返事も聞かないまま脇道へと姿を消した。
「寄り道ってどこ行くんかな?」
「さあ……」
 ここまで一緒に行動してわかったこと。
 たいさんはよく姿をくらませる。先刻のように声をかけてくれればいいが、大抵は知らない間にどこかへ行き、また知らない間に戻ってくる。短いときは数分。長いときは数時間。その間、どこで何をしているのかはわからない。ただ、俺達がどこに移動しようと必ず戻ってくるので、そこは素直にすごいと思った。
「そうそう。今から向かう恩山寺にはね、そこでしか買えんお守りがあるんよ」
 少し歩いたところであゆみが言った。
「『摺袈裟(すりげさ)』って言うんやけどね」
 摺袈裟は恩山寺でのみ授与が行われているお守りで、亡くなった人の棺に入れれば極楽浄土へ往生できるとされ、また、生きている人が持てば滅罪生善(めつざいしょうぜん:悪いことが良いことに変わる)の功徳があるという。
 摺袈裟の「摺」は“木版で印刷する”という意味で、「袈裟」は“僧が常に身につける法衣(ほうえ)”のこと。袈裟に仏を表す梵字や陀羅尼(だらに:仏の教えの精髄を凝縮した言葉)を書いたものが摺袈裟で、「袈裟曼荼羅(けさまんだら)」という別名もある。
「昔、閻魔様が『死者が眠る墓にこの摺袈裟を掛け、一週間供養すれば死者が蘇る』って仰ったそうなんよ。それで、お仏壇とかお墓の中に入れたらご先祖様の供養にもなるって言われるようになったんやって」
 生きているときだけではなく、あの世へ旅立つときや、さらにはその後にも役に立つというお守りなのだそうだ。
「二つ買っておじいさんに一つ渡してあげたら?」
「そうだな」
 あれこれ話をしているうちに街は遠ざかり、道は山間の緩やかな上り坂になっていた。


     /2

「恵、そっちやなくて、こっちこっち」
 谷川にかかる「母養橋」を渡り、携帯の地図を確認しながら左右に分れた道を左に曲がろうとしてあゆみに呼び止められた。
「右? でも、地図は左になっとるよ」
「うん。お寺自体は左に進んだ先やけど、右に山門があるんよ」
「ああ、そゆこと」
 そんなわけで回れ右。
「……って、もしかして……アレ?」
「うん」
 実を言うと、橋を渡っているときからすでに、視界の右端には建物の屋根らしい何かは見えていたのだ。
 ただ、それが山門だとは思ってもいなかっただけで(大きな声では言えないが、てっきり物置小屋かと……)。
「あ、そうか。橋から見えたんは門の横側だったんやな」
 角度を変えて見ると、なるほど、それはちゃんと門の形をしていた。
「でも、今までの山門と比べると飾り気がないというか、えらい簡素な造りやね」
「それはだって、こっちは裏やもん。表は向こう側。向こうに回って見たらわかるけど、大きな草鞋が飾られた仁王門なんよ」
 言われて、それもそうかと納得する。
 寺に続くのは左の道。なので、右にある山門の手前が裏で奥が表となるのは道理だ。
 とはいえ、山門の正面を拝むのにわざわざ道を逸れて右側に回り込まなくてはならないのは何とも釈然としない気分にさせられた。
 余談ではあるが、道から外れた場所にぽつんと建つこの山門は、他のお遍路さん達にも気づかれないことが多いという。
「昔は右から左に向かって遍路道が続いとったんかもしれん――ひゃあっ!?」
「!?」
 山門の右側――つまり正面へと回ったあゆみが突然素っ頓狂な声を上げて、それと同時にゴンッと鈍い音が響いた。
「おい、大丈夫か!?」
 尻餅をついたあゆみへと駆け寄る。
「いたたた……」
 あゆみは地面に打ちつけた腰ではなく、額を押さえながら立ち上がった――その前には、同じく額を押さえる少女の姿。
「ごめんなんよ。まさか人がおるとは思ってなかったけん……」
「いえいえ、こちらこそ……」
 あゆみより若干幼く見える割烹着姿の黒髪の少女。彼女は、はにかんだような笑顔を向けた。
 が、
「――え? なんで」
 みるみるうちにその顔が焦燥の色に染まる。
 どうしたの? と、その五文字をあゆみが口にするよりも早く少女は走り去ってしまった。
「な、何だぁ?」
「話し方が馴れ馴れしすぎて気を悪くしたんやろか……」
「いや、それなら端から返事せんやろ」
 そう言ったところで、俺はあゆみと顔を見合わせた。
「もしかして、さっきの『八八さん』だった、とか?」
「でも、こっち側はお寺の敷地より“外”やけん。それに、走ってった方向もお寺とは逆やけんね」
 あゆみ曰く、結界の守り人「八八さん」は寺の境界を自由に出入りすることができないらしい。
 淡桜さん以下、今までに出逢った彼女達は古文書という介在物を得て一時的に行動範囲を広げているだけにすぎなかった。
「そもそも、なんで『八八さん』って外に出られんの?」
「さあ、なんでなんかな」
 あゆみは、知らないと首を振る。
 そこで一旦会話が途切れた。
「……とりあえず、先に進むか」
 母養橋まで引き返し、その側に生えた赤褐色の木――脇に立てられた看板には「毘欄樹(びらんじゅ)」とその名前が記されていた――の横を通り過ぎようとして、あゆみが「あれ?」と首を傾げた。
「この木、少し傾いとると思ったら根元に穴が開いとる。こんな大きな穴……自然にできたんやろか?」
「さあ。誰かが頭から突っ込んだんじゃね?」
「そんなわけないやん」
 と、あゆみが笑う。
 だが、不意にその笑い声が止んで、何事かと振り返ると、あゆみが困惑した顔で立ち尽くしていた。
「どした?」
「……行けれん」
「は?」
「これ以上、行けれんのやけど」

      ◇

 俺とあゆみは山門まで戻り、その下に腰を下ろした――もうじき正午、真夏の陽射しを浴びながら突っ立ってばかりもいられなかったからだ。
「昔、このお寺は『女人禁制』やったらしいけん、その“力”が働いとるとか」
「んなアホな」
 そんな話をしているところに見知った影が近づいてきた。
「おぬしら、儂を待つ必要はないと言っておったろうに」
 たいさんだった。
「それがね、先に進めんのよ」
「む? 進めんとな?」
 あゆみはかくかくしかじかと事情を説明した。そして、たいさんを連れて例の木の前へと移動した。
「なんでかわからんけど、こっから先に進めんのよ。ほら、ここに壁があるみたいに」
 あゆみは空中を撫でるような仕草をする。
「俺は普通に通れるんだけどな」
「ふむ。儂も通れるようだのう」
 たいさんが首をひねる。
 それから、誰ともなしに『八八さん』達ならどうだろう? という話になった。
 あゆみは帯の隙間――帯だけではなく着物の袖や懐などいたるところに物を入れている――から紺色の古文書を取り出して呼びかけた。
 すると、後方で声が上がった。
「うわ! うわわわ!! これって恩山寺の山門じゃないの? じゃないの!? じゃないの!!!?」
「織刃(おるは)姉さん、興奮しすぎですよ」
 振り返って見れば、門を見上げてはしゃぐ切幡寺(きりはたじ)の十女・織刃さんと、それを微笑ましげに見つめる藤井寺(ふじいでら)の十一女・尊心(とうね)さん。二人の話し声は、山門から毘欄樹の前までは少し離れているにも関わらず、はっきりと聞き取ることができた(そこは“「八八さん」補正”として深く考えないでおく)。
「興奮するなってほうが無理よ、無理! だって、恩山寺って言えば、空さまのお母さまが剃髪をなさったお寺でしょ!?」
「そうでしたね。母君様が剃髪なさり、その御髪(みぐし)をお納めになったという」
「そう! そうなのよ!! ここにはお母さまの御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が御髪が」
「その字面は些か怖いので、少し落ち着きましょうね、織刃姉さん」
「ううん! 落ち着いてなんていられない! 髪と言えば散髪。散髪と言えばハサミ。ハサミと言えばこの私。私のハサミ捌きをご覧いただかなければればばばば!!」
 織刃さんご乱心。その小さな身体に不釣り合いなほど馬鹿でかいハサミを振りかざして駆けだした。
「お、お待ちなさい、織刃姉さん。あなた、一体何を切る気なの!? はっ、よもや納められた御髪ではないでしょうね!? いいこと? そもそも、あなたのハサミは布を切るための裁ちバサミで、髪を切る用ではないのよ!」
 藤色の着物を乱して尊心さんが叫ぶ。
「恵さん! あゆみさん! 織刃姉さんをお止めして!!」
「ごめん、無理」
 俺とあゆみは即答して道をあける――その横を大きなハサミが通り過ぎようとして、
「――きゃぅ!」
 間の抜けた声とともに地面に落ちた。
「……『八八さん』でも通り抜けできんみたいやね」
「……だな」
 見えない壁に勢いよくぶつかってあえなく散った織刃さんは、その場に倒れて目を回していた。
「ふう。あの方の話になると自制が利かなくなるのが織刃姉さんの悪いところですね」
 尊心さんは大人しくなった姉を見ながら肩をすくめた。
 その隣から違う声が聞こえてくる。
「これって、結界なのかな?」
「そのようだねえ」
 大日寺の十三女・結花(ゆな)さんと常楽寺の十四女・閃(せん)さんだった。
 この二人も一緒に出てきていたらしいのだが、いかんせん前の二人が騒がしすぎて気づいていなかった。
「どうやら、女子(おなご)は等しく先に進めんようだのう」
 たいさんが言う。その言葉に誰もが頷いたが、閃さんだけは相変わらず首を傾げていた。
 暫くの間、閃さんはしかつめらしい顔をして何もない空中を手で探っていたが、やがてその手を下ろし、かわりに足を前に出した。
 一歩。
 二歩、三歩――そして、あっという間に十歩。坂道を少し上ったところで「ふむ」と頷きながら立ち止まった。
「私、普通に通れるんだけど?」
 そう言って頭を掻く姿を見て、何となくわかった気がした。
 いつも眠たそうに欠伸をしながらのらりくらりしている彼女なのであまり意識していなかったが、改めて見ればそこらの男子よりも男前なのだ。
「なるほど。あたしも閃さんみたいにイケメンのフリをしたら通れるんやろか」
 真面目な顔で言うあゆみ。難しいんじゃないかな、とやんわり否定する俺。と言うか、イケメンのフリって何だろう。フリでなれるものなのか。
「おっと、向こうからヒトが来てる。一旦、解散するね」
 閃さんは欠伸を一つ残して消えた。気がつけば、尊心さん達三人の姿もなくなっていた。


     /3

 ぞろぞろとお遍路さんの団体が下りてくる。
 俺は、その先頭に見覚えのある男を見つけた。
 紺色の作務衣に朱塗りの金剛杖を手にした体格のいい男――相手もまた俺達に気づいた様子で手を振りながら近づいてきた。
「おう。そこにいるのは、お嬢ちゃんと彼氏さんじゃねえの」
 と、男が白い歯を見せて笑う。
 四国八十八箇所霊場公認先達という肩書を持つ村野晋常(むらのしんじょう)――通称、ジョーさんだった。
 その後ろには若い男が二人。名前は確か、スポーツ刈りの長身の男が宏さんで、眼鏡の優男風が洸節(こうせつ)さんだったはず。
「一日振りじゃねえ」
 にこにこと愛想よく笑うジョーさんに俺達は「こんにちは」と会釈を返した。
「あ、そだ。国分寺ではお世話になりました。おかげでお庭に入ることができたんよ」
「そりゃあ良かった。なあに、あれぐらいお安いご用ってもんよ」
 ジョーさんはそう答えると、すすっとあゆみの側まで歩いてきて彼女の両手を掴んだ。
「? ??」
 咄嗟のことに反応が遅れた様子のあゆみ。
「いっやあ、それにしても二日続けて会うなんて、俺達縁があるねえ。よかったら、今度食事に――いってえ!」
「彼氏の目の前でナンパする馬鹿がどこにいますか」
 洸節さんがジョーさんの頭に手刀を食らわせたらしい。ジョーさんは大袈裟に頭部を抱えてうずくまった。
 一方、宏さんは違う意味で頭を抱えていた。
「ったく。なんでこんなんが先達してんだか……」
 その顛末を周りで見ていたお遍路さん達が一斉に笑い出した。
「いやいや、南くん。ジョーさんはええ先達さんや思うで」
「おもろいしなあ」
「んだ。いっつも身体を張ったボケかましてくれるしのう」
「根ぇは真面目やに、方々で女の子にちょっかい出しては久米くんにどつかれちょる」
「じゃけんど、その掛け合いがまた絶妙なんじゃて」
 うんざりと溜め息をつく宏さん(南という名字らしい。ちなみに洸節さんは久米)に、お遍路さん達が口々に言った。
 その様子からジョーさんがいかに慕われているかがわかる。もっとも、いじられているだけかもしれないが。
「ここにおるお遍路さん、みんなでお参りしよるん?」
「おうよ。バスツアーで巡礼中」
「賑やかで楽しそうやね。でも、男の人ばっかりで女の人はおらんの?」
「あー……、それがなあ……」
 あゆみの質問にジョーさんが顔をしかめた。
 聞いたところ、今回のツアー参加者は二十四名、その半数が女性だという。
 だが、恩山寺に向かうこの山道に差し掛かったあたりから、女性達が次々に不調を訴え、結局、バスを山の麓に停めて男達だけで参拝することになったのだそうだ。
「それで、お嬢ちゃん達は何してんだ? まさか、中に入れんとか」
 と、自分でそう言っておきながら、「そんなわけないわな」と笑うジョーさん。
 だが、あゆみは至って真面目な顔で答えた。
「その、まさかなんよ」
「んなアホな」
 ジョーさんの台詞は、俺が言ったそれと全く同じものだった。

      ◇

 昔、恩山寺は「女人禁制」の道場だった。
 女人禁制とは、寺社や霊場などの特定の場所へ女性が立ち入ることを禁止する制――つまり戒律のことだ。
 もっとも、本来の仏教にそのような戒律は存在しないらしい。
 ただ、智慧(ちえ:仏の教えに即して正しく物事を判断する力)をもって煩悩(人間の欲望)を消滅させ悟りの境地へと赴くことを理想とする仏教において、最も克服しがたい人間の欲望と言われる性欲を抑えることもまた教えの一つとされている。
 遍路でも、お遍路さんが守らなくてはならない「十善戒(じゅうぜんかい)」の一つに「不邪淫(ふじゃいん)」という言葉で示されていたりする。
 また、古くから日本――とくに神道において――では「穢れ(ケガレ)」という観念により生理中や産褥期(さんじょくき)の女性が神聖な場所に入ること、神輿などの神聖な物に触れることを禁じる風習があった。これらは地域、場所によって現在も引き継がれているが、それはさておき。
 とかく、こうした教えや風習、その他諸々の事由から女人禁制という戒律は生まれたのだろう。
 さて、ここで恩山寺の話に戻るわけだが。
 お大師さんは、当時、まさに女人禁制だった恩山寺(その頃は密厳寺と呼ばれていた)に母君を迎えるために「女人解禁の秘法」を修したという。
「だけど、その解禁の法の効力が消えて女人禁制が復活。そのせいでお嬢ちゃんが中に入れなくなった――と。 ははあ、お嬢ちゃん、面白いこと考えるのな」
 ジョーさんは呆れているのか感心しているのかわからない様子であゆみの話に耳を傾けていたが、
「そいや、納経所のオッチャンも何か言ってたような……」
 と呟いて、俺のほうに向き直った。
「そんなワケで、彼氏さん。納経所に行ってみるか」
 何がそんなワケなのかワケがわからないが、俺はたいさんを連れてジョーさんと納経所へ向かうことにした。
「面白そうだから僕も行こっかな」
「だったら、俺も行こう。お前ら二人を野放しにしたら何をしでかすかわからんからな」
 眼鏡とスポーツ刈りもその後に続いた。
 お遍路さん達はバスに戻って休んでいると言って逆の方向へ。
「あたしは山門のところで待っとるけん」
「ああ。また後でな」
 あゆみの背中を見送って、何の気なしに山門へ視線をやると、柱の影に白い人影がちらりと見えた気がした。


     /4

「ねえねえ。この子、君が飼ってるイヌ?」
 納経所へ向かう途中。洸節さんにそう訊かれて、一瞬、何のことかと思った。
 が、その腕に抱えられたモノを見て合点する。そこには、だらりと腕を垂らしたたいさんの姿――身体の所々に闘いの跡がついていた――があった。力ずくで捕獲したらしい。
「ばっか。イヌじゃねえって。タヌキだよ」
 宏さんが鼻で笑った。
「え、タヌキなの?」
「どう見てもタヌキだろ。顔の模様とか見れば誰だってわかる」
「こんな模様のイヌもいるでしょ」
「『ワン』って鳴かねえし」
「鳴かない子だっているじゃない」
「じゃあ、飼い主に訊いてみろよ」
「訊いてたら君が横から口を挟んできたんだよ」
「そら悪かったな。――で、彼氏くん。こいつはタヌキだよな?」
「イヌだよねえ?」
 両側から質問されて、若干狼狽えながらタヌキだと答えた。そして、「一応」と付け足した。
 それにしても、他人の目には一体どんな姿で見えているのだろう。
 さておき。
 山門から寺までが地味に遠い。
 当然ながら焼山寺の「遍路ころがし」に比べれば楽な坂道ではあるが、黙々と歩き続けるには怠(だる)い道だった。
 なので、俺は前を歩くジョーさんに声をかけた。
「ジョ――村野さんは先達をされているんですよね」
「おう。つか、ジョーでいいよ」
 そう言われて、「ジョーさんは」と言い直す。
「先達ってどんなことをするんですか?」
「お? なになに、先達の仕事に興味を持ったのかい?」
 茶化すような言い方だったが、ジョーさんは丁寧に教えてくれた。
 そもそも、遍路が一般的に知られるようになったのは十七世紀――江戸時代のこと。
 現在のように地図や交通機関が整備されていない時代、安全に遍路をしようと思えば遍路経験のある案内人が不可欠だった。
 その経験のある案内人を制度化したのが「先達制度」だという。
「道案内ができて、他人に読経の仕方や巡拝の作法を教えられりゃあ誰だって先達になれるんだが、仕事としてやるなら霊場会に公認してもらわにゃならんのよ」
 霊場会とは八十八箇所の寺院で構成している組織で、本格的に活動をはじめたのは昭和三十三年からだそうだ。正式名称は「四国八十八ヶ所霊場会」。
「公認先達になるには四回以上の巡礼実績があること。んで、八十八箇所のどこでもいいんで推薦してもらうこと。後は研修会をサボらず受けりゃあ晴れて先達の仲間入りって寸法よ」
 ちなみに筆記試験や面接などはないらしい。
 そして、先達にも階級があって、必要な年数と巡礼回数、礼禄(布施)があれば上級の先達に昇補(しょうほ)することができるとのこと。
「公認先達の何がいいかって、これよ、これ!」
 格好良いだろう? と、ジョーさんは朱塗りの杖を指し示した。唐草模様の輪袈裟とあわせて、それらは霊場会公認の証なのだそうだ。さらに階級によっては専用のさんや袋や輪袈裟入れが授与されるらしい。
「で、肝心の先達の仕事が何かって言うと、まあ、言葉の意味通り“案内人”なわけだけど。個人を相手にする場合もありゃあ、ツアーバスに乗って爺さん婆さんを引率する場合もある。ただ一緒に札所を巡るんじゃなくて、参拝の方法や読経の仕方を教えるんも大事な役目だわな」
 それともう一つ大事な役目があってな、と、ジョーさんは続ける。
「たくさんの人に遍路の存在とその魅力を伝えて、一人でも多くの人に足を運んでもらうこと。言わば、広報活動な。遍路ってさあ、爺ちゃん婆ちゃんがするってイメージがあると思うんだけど、俺としてはお嬢ちゃんとか彼氏さんみたく若い子にこそしてほしいと思ってるんだわ。だから、どうすれば上手く伝えられるかいつも画策してるわけよ」
 そう言ってニッと笑うジョーさんの顔は誇らしげに見えた。が、そこに水を差す男二人――なるほど、お遍路さんの一人が「掛け合いが絶妙」と言っていた理由がわかった気がした。
「いつも口ではいいこと言うんだけどねえ」
「まったくだ。はっきり言ってこんなちゃらんぽらんな先達は他にいないだろうよ」
「おいおい。仮にも師匠に向かってそれはないだろ……」
 ジョーさんは苦笑いを浮かべて、わざとらしく肩を落とした。
「二人とも、先達に?」
「いや、そういうわけではないが」
「こいつ、お寺の跡継ぎでね。修行の一環としてお遍路してんだって」
 宏さんのかわりに洸節さんが説明してくれた。
 なんでも宏さんの父親はジョーさんの友達で、跡を継ぐ息子の心身鍛錬にと遍路に送り出したのだという。
 親父さん曰く、
「坊主は経が読めるだけでは勤まらん。ときに人の悩みを聞き、ときに手を差し伸べる。だがな、お前のような仏頂面では誰も安心して心の内を明かせないだろうよ。そこでだ、ジョーさんについて四国を巡り、様々なことを学んでこい。そして気の利いたジョークの一つや二つ言えるようになって戻ってこい」
 とのことらしい。
「洸節さんはなぜ巡礼を?」
「僕? これといった理由はないよ。何となく四国に来て、何となく歩いてる途中に、何となく変な人達を見かけて、何となく一緒にいたら、知らない間に仲間にされてたってだけ」
 どんだけ「何となく」を連呼するのだろうと思った。
 でもまあ、理由なんか人それぞれだしな、と納得することにした。
「お疲れさん。着いたぞ」
 ジョーさんに言われて顔を上げる。恩山寺と書かれた石碑があり、その右手に石段が続いていた。
 石段を上って手水場で手を清めてから、俺達は納経所へと向かった。
 納経所に着くと、
「あれま、村野さん。どしたね? 忘れもんでも取りにきたんか?」
 と、小柄な男が声をかけてきた。
「いやあ、さっきオッチャンが言ってたことが気になってさあ。ほら、女の人が来んとかなんとか」
「ほうよほうよ。一昨日あたりからかのう、女性のお遍路さんをとんと見かけんなってなあ。その上、納経所の手伝いに来てもらっとる佐藤さん――近所の婆さんやが――も体調が悪いとかで休みが続いてなあ」
 偶然かねえ、と、オッチャンは息を吐いた。
「それ以外に、最近、何か変わったことは――ん?」
 納経所の隣の小屋から農具を持った男が四人出てきた。一人は作務衣、残り三人はTシャツにジャージという格好だった。
 彼らは軽く会釈をして、そのまま参道のほうへと歩いて行った。
「あの人らは?」
「毘欄樹の根元に大穴が開いてなあ、近所の人らに手伝ってもらって、今から埋めに行くところよ」
 聞けば、穴が空いたのは一昨日の朝だという。
 それを聞いて、たいさんが俺にこそっと耳打ちをしてきた。
「今回の騒動の原因は、その穴かもしれんぞ」

      ◇

 毘欄樹は山門の側に植えられた珍しい木だ。
 お大師さんが女人禁制を解いて母君を寺に迎え入れたことを記念して、自らが植樹したと伝えられている。
 昭和二十九年に徳島県の天然記念物に指定されたこの木は、暖地に生息する常緑樹で、灰白色の樹皮は剥がれやすく、すぐに赤褐色の木肌が露わになる――この様は、賭け事に負けて身ぐるみを剥がされた様子に喩(たと)えられ、「博打の木(バクチノキ)」との別名もつけられていた。
 俺は毘欄樹の場所まで戻ると、ジョーさんに一言断りを入れてから山門へと向かった。
 あゆみが門の柱から顔を出す。その隣には、あの割烹着の少女の姿があった。
「恵、おかえり。こちら、珠依(みより)さん。恩山寺の『八八さん』やったんよ」
 あゆみに紹介されて、少女――珠依さんはぺこりとお辞儀をした。
「それでね、原因がわかったかもしれんのよ!」
「あ、それについては私のほうから説明させてください。――ここ、恩山寺は、母君様をお慕いしたあの御方の心が宿るお寺です。そんな場所に棲む私は、いつも子に思われる母という存在にずっと憧れを抱いていました。そしていつしか思うようになったのです。私も母になろう、と」
 そんな語り口調で珠依さんの説明という名の物語は始まった。
「だけど母を知らない私には、母という存在が果たしてどのようなものかわかりませんでした。そこで参拝に訪れた母子の後をこっそりつけてはその様子を覗き見したり、私を視ることができる子供がいれば母とは何かを訊いて回りました。それはもう、涙ぐましい努力でした。そして悟ったのです。ついに悟ってしまったのです。母とは何かを。私が目指すべく母の在り方を」
 そこで一呼吸置いて、
「長年の努力の末、辿り着いた真理――それは、“母の作るご飯は美味しい”!」
 と、これ以上ないくらい自信満々の顔で言った。
 俺はボケなのかマジなのか量りかねて、結果、おざなりな相槌を打った。あゆみも似たような反応だったと思う。
「それから私は日々、料理の修行に明け暮れました。――はい? 料理の材料はどこから調達したのか、ですか? そんなのは簡単です。気合いです。気合いさえあれば不可能なことなどないのです。――話を戻しますね? あれは一昨日の朝でした。私がいつものように修行をしようと油揚げを取り出したときのことです。それは空からやってきました。『ピーヒョロロロ』という鳴き声と共に、空からトンビが飛んできたのです。一瞬のことでした。あろうことか、そのトンビは油揚げをさらって飛び立ってしまったのです。“トンビに油揚げをさらわれる”を体感した瞬間でした」
 一気に話して酸欠になったらしい、三回ほど深呼吸をして「それでですね」と続けた。
「私はトンビを追いかけました。後から思えば別に追いかけるほどのことでもなかったのですが、そのときは必死だったのです。無二無三で一心不乱だったのです。そんなわけで、私は走りました。参道を抜け、石段を駆け下り、山門へと続く坂道を転がるように走ったのです。そして、本当に転がったのです。道に転がった小石につまずいて、私まで転がってしまったのです。何とか踏ん張ってはみたものの無理でした。無残にも坂を転げ落ちてしまいました。そして、そのまま――あの毘欄樹の根元に『ドッカーン』と」
 気がつけばそこは山門の外で、中に入ろうと思っても入れない。どうすることもできず、山門の側で途方に暮れていたときに俺達がやってきたのだと、そこまで話して言葉を結んだ。
 地味に長い小話だった。
「あの毘欄樹は、お大師さんが女人禁制を解いた証に植えられたものやけん。その根元に穴が開いて木が傾いたせいで、一時的に禁制の力が戻ったんかもしれんね」
 だから穴を埋めれば解決すると思うんよ、と、あゆみは言った。
 俺は手に持ったシャベルを見せて、
「ちょうどその穴を埋めるって言うんで、俺も少し手伝ってくるわ」
 と答えた。
 毘欄樹のところへ戻ると、すでに穴を埋める作業が始まっていた。
 むせ返るほどの土の匂い。
 そして、鳴り響く蝉の声。
 幼い頃の、じいちゃんの畑で泥にまみれて遊んだ夏の記憶が呼び起された気がした。


   残り札所 七十
   結んだ縁 十七(保留、一)

つづく


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