第十九話<立江寺(前編)>

2014年10月 初稿(9,586文字)

文章:静夢-SHIZUMU-
企画:OpenDesign


     /7月26日(5日目)

 第十九番札所。
 橋池山(きょうちさん)摩尼院(まにいん)立江寺(たつえじ)。
 寺伝によれば、天平十九年(七四七年)、聖武天皇(在位七二四~七四九年)の勅願寺として、行基菩薩が光明皇后の安産を祈願し一寸八分(五.五センチメートル)の黄金の地蔵菩薩を刻み本尊として開基したとされている。
 当時は現在地から四百メートルほど西――現在は奥之院が建っている――にあったが、建立の地を卜(ぼく:占いによって良し悪しを判断すること)したとき一羽の白鷺がどこからともなく飛んできて九ツ橋――現在の白鷺橋――にとまった。そして行基菩薩に仏天の暗示として霊域を示したという。以来、白鷺がとまっているときにこの橋を渡ると仏罰を受けると言われるようになったそうだ。
 弘仁六年(八一五年)に弘法大師・空海がこの地を訪れたとき、小さな本尊は紛失してしまうおそれがあるからと、自ら一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、その胎内に本尊を収めた。このとき、寺名が「立江寺」に改められたと伝えられている。
 天正年間(一五七三~一五九三年)、長宗我部元親の兵火により本尊を残して全焼したが、後に徳島藩祖・蜂須賀家政によって現在の地で復興された。
 昭和四十九年(一九七四年)に火災が発生し本堂や他諸堂が焼けたが、本尊は奇跡的に焼失をまぬがれ、昭和五十二年(一九七七年)に再建されて現在に至る。
 立江寺は「子安の地蔵尊」「立江の地蔵さん」と呼ばれ、古くから霊験あらたかなことで知られている。西国巡礼御詠歌集に高野山や善光寺などと並んで取り上げられるほど、全国の善男善女の信仰に篤い名刹(めいさつ)である。

      ◇

 十九番目の札所――立江寺は、高野山真言宗の別格本山であり、四国八十八箇所の四つの関所のうちの一つであると同時に、「四国の総関所」として根本道場と言われている。
 悪行を重ねた者や邪心を持つ者はお大師さんの咎(とが)めを受け、ここから先に進めないという。


     /1

「昔、お京という名の女子(おなご)がおってな」
 立江寺に到着し、本堂を参拝し終わって、さて大師堂へ向おうかと思ったとき、唐突にたいさんが口を開いた。
 俺は首を傾げながら人語を操るタヌキの方へと向き直った。
「立江寺が『関所寺』と言われる所以を教えてやろうと思ってな。まあ黙って聞くのだ。江戸時代の話だが――」
 享和のころ、石州浜田――現在の島根県浜田市――にお京という名の娘がいた。
 お京は十六歳のとき大阪新町で芸妓(げいぎ)として働き、二十二歳のとき大阪で知り合った要助という男と夫婦になった。
 しかし、時が経つにつれお京は我儘になり、やがて鍛冶屋長蔵という愛人を作ったのだが、それを夫に嗅ぎつけられ二人して散々に打ちのめされたという。
 その仕打ちを逆恨みしたお京は、あろうことか愛人と結託して夫を亡き者にし逃走。
 讃岐丸亀――現在の香川県丸亀市――に渡って二人で心中しようとしたが思いきれず、後生のためにと四国巡拝の旅を始めた。
 そして、立江寺へと辿り着き、本堂の地蔵尊を拝もうとした、そのとき――
 突如、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻き上げられた。苦痛のあまり絶叫するお京。長蔵は狼狽して住職に助けを求めた。
 住職はその惨状を見るや罪障の報いだと直感し、二人に事の次第を問いただすと、お京は全てを話して懺悔した。
 すると、黒髪が頭の皮ごと剥がれ、辛うじて命だけは助かったという。
 その後二人は、心中しようとしたが失敗し、四国巡礼の末に立江寺まで辿り着いて罰を受けたのは仏の然(しか)らしむところと心を改め、出家して、田の中山――立江寺より北へ五百メートル、現在は「お京塚」がある――に庵を結び、一心に地蔵尊を念じて生涯を過ごした。
 ちなみに、肉付きの黒髪が巻き付いたままの鐘の緒は、立江寺の大師堂右手の小さな祠――「黒髪堂」という――に現在も納め置かれている。
「――立江寺は『阿波の関所』であり『四国の総関所』であるわけだが、このお京の一件があったからこそ関所寺になり得たのか、はたまた関所寺だったからこそ、こんなことが起きたのか。それは儂(わし)にもわからんのだ」
 ただ、この寺を越えられると邪心のない善人だという証明になり、無事に打ち終えた人は喜んだという。
「ああ、そう言えば」
 たいさんはぽんと手を打った。
「最近、この寺では“特別な朱印”を授けてもらえるらしいな」
「特別な朱印?」
「うむ。『善人之証』といってだな」
「『善人之証』……真逆、『私は善人です』って捺(お)されるワケじゃあないよな?」
「というか、そのまま『善人之証』と入っておるらしい。関所寺を無事に越えられた証、つまり善人だという証明だな。折角だ、お主も白衣に捺してもらうがいい」
 そう言うと、たいさんは目を細めた――“関所寺に善人だと認められればだがな”と、明らかに含みのある台詞をぽつりと呟いて。
「…………」
 俺は何も答えずに、本堂から見える空を仰いだ。
 ――ひどい、雨だった。
 バケツの水を引っくり返して云々という比喩はこういうときに使うのだろう。滝のように降る雨と水煙で視界はぼやけ、奥に見える多宝塔の屋根が歪んで映る。さらには、雷鳴が響き渡り、それは雨脚とともに激しさを増していった。
「さっきまであんなに晴れとったのにな……」
 ほんの数分前――たいさんが“肉付きの鐘の緒”の話を始める前までは、夏らしい青空が頭上には広がっていた。
 ゲリラ豪雨もいいところだ。
 俺は、十二女の灼(あらた)さんの言葉を思い出した。
『誰かが足止めを食らってるみたいなんだわ』
 と、彼女は言った。
 その“誰か”を“前に進めてやる”ことができたら「合格」だ、と。
 だが、この状況を――雨の降り始めたタイミングに鑑みるに、足止めを食らったのは誰でもない俺たちではないのだろうか……?


     /2

 本堂の格天井を飾る二百八十六枚の花鳥風月の画は、東京芸術大学の教授ら四十名余りによる作品で、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財として高い評価を受けている。
 そんな天井絵をじっくり――それこそ、二百八十六枚ある画の一枚一枚をなめるように――眺めて、さらにもう一度眺め終わった頃に、堂の縁側まで外の様子を見に行ったのだが、雨はまるきり弱まることなく降り続いていた。
「すごい雨やね」
 俺の隣であゆみが空を見上げる。
「まだ降りよるんかな!」
 突然、真後ろから声がして、驚いて振り返ると遍路服姿の中年女性が立っていた。
「本当いい加減にしてほしいわぁ。……って、あらぁ?」
 おばさんは俺たちを見るや――何か面倒くさいことになりそうだなあ、と思ったときには手遅れだった――すごい勢いで話しかけてきた。
「あらあら、まあまあ! 随分と可愛らしいお遍路さんやなぁ。何? 最近はこんな白衣(びゃくえ)があるんかな。おばちゃん、びっくりやわぁ。どこで買うてきたん? え? 手作り? あんたが作ったん? はぁ、あんた器用やなぁ。後ろはどうなってるん? んまぁ、ちゃんと『南無大師遍照金剛』の文字も入って。ふうん、ええなぁ。おばちゃんにも作ってほしいわぁ」
「あ、あの……?」
 あまりの迫力に後ずさりするあゆみ。
「ちょっとぉ。イヤやわぁ、本気にせんでよぉ。おばちゃんにはちょっぴり派手やわぁ」
 あと十歳若けりゃあいけると思うんやけどねぇ、とおばさんは笑いながらあゆみの背中を叩いた。
 おばさんのボディタッチには躊躇もなければ手加減もない。よろめいて前のめりになるあゆみに、おばさんは「大袈裟やわ」ともう一度笑った。
 俺は、おばさんの関心があゆみだけに向いている間に、そっとその場を離れた。
 基本的に他人と話すのは苦手なのだ。姦(かしま)しい相手なら、なおさら。
 それから十分ほどして、本堂の隅でぼんやりと雨音を聞いていた俺のところにあゆみが駆け寄ってきた。
「もうっ、知らん間におらんなるんはやめてやね!」
 予想通りの言葉に俺は苦笑する。
「ああ、悪い悪い」
「……全然、悪びれた様子がないんやけど」
 あゆみは唇をとがらせて不満そうな表情を見せたが、すぐにそれを緩めた。
「そうそう。さっきの人とお話しよるときにね、お寺の人が来て『雨が弱まるまで宿坊でお休みください』って言うてくれたんよ。折角やけん行ってみようや」
「そうだな。――で、さっきのおばさんは?」
「さっきの人は車で巡りよるんやって。やけん、休まずに先に行くって」
「そっか」
「あたしらは歩いて巡礼しよるんよって言うたら『えらいなぁ。最後まで頑張りや』って応援してもろたよ」
「ふうん……」
 あゆみの台詞にふと引っ掛りを感じたが、それが何に対してなのかはわからなかった。
 俺たちは本堂を出て、先に大師堂の参拝と納経をすませてから、宿坊へと移動することにした。

      ◇

 宿坊とは、僧や参拝者のための宿泊施設のことだ。
 本来は僧のみが宿泊する場所だったが、平安時代に寺社参拝が普及するにつれて貴族や武士、さらには一般の参拝者も利用できるようになったらしい。
 宿坊と聞くと堅苦しいイメージを抱く人も少なくはないだろう。
 かくいう俺も、宿泊するのに朝のお勤めが欠かせないとか、特別な規則があるとか――部屋にしたって、無駄な物が一切なく見るからに修行部屋のような閑散としたものとか、あるいはだだっ広い簡素な部屋に複数人が集まって休む雑魚寝部屋のようなものとか――を想像していた。
 だが実際は普通の宿とさほど変わらない。部屋の大半は個室でテレビを置いてあったりするところもある。
 もちろん、ほとんどの宿坊で宿泊者に勤行(ごんぎょう:毎日行う朝のお勤め)として住職の講話などを行っているが、参加は任意であることのほうが多い。
 というのも、遍路が信仰や修行の一環であると同時に、一種の観光事業としての側面を持つようになったからなのだが、それはさておき。
 俺たちが雨宿りのために借りることになった部屋は二十畳ほどの和室で、中央に整然と並べられた長机の周りには、やはり同じように雨がやむのを待っているのであろう人たちが集まって思い思いに寛(くつろ)いでいた。
 俺は部屋の壁際に腰を下ろすと、あゆみから麦茶の入ったグラス――机の上に『お接待です。ご自由にお飲みください』と書かれた紙が貼られた麦茶ポットが置かれていた――を受け取り、周囲を見渡した。
 そこそこの人口密度だ。
 若い男性二人組、無精髭を生やした小太りの中年男性、読書中の老紳士、携帯をいじる女性、お喋りに夢中の女性三人組、そして、机に置かれた交流ノートに黙々と何かを書き綴っている少年。
 俺とあゆみを入れると十一人。それにたいさんが一匹。
 ……ん?
「あれ? たいさん、当たり前のような顔して居座っとるけど、部屋ん中に入ってきてもよかったん?」
「よいに決まっておろう、愚か者め。儂を一体誰だと思っておるのだ」
「いや、誰っていうか、タヌキ……」
 それを聞いて、たいさんは鼻で笑った。
「ほとほと愚かなやつだな、少年よ。呆れてものも言えんぞ。とはいえ、ここに入るときに一度は作務衣着の女につまみ出されそうになったのもまた事実。地蔵寺のときのように晴れておったなら、心の広い儂のことだ、その扱いを甘んじて受けてもよかったであろう――しかし、今はこの通りの大雨だ。この雨の中に転がされるのは、流石の儂も御免被りたい。そんなわけでな、ちと裏技を使わせてもらったまでよ」
 たいさんは呆れてものも言えんと言いながら、それなりに長い台詞をよどみなく言ってのけた。
 ……というか、それ以上に突っ込みどころがあるのだが。
 何だよ、裏技って。
「ねえねえ。何の話で盛り上がっとるんか知らんけど」
 あゆみがちょいちょいと俺をつつく。
「お茶のお代わりをもらってこよう思うんやけど、恵とたいさんは?」
「俺はいいや」
「うむ。儂も一杯で十分だ」
 了解とあゆみは答えて、自分のグラスを持って立ち上がった。
「――おおい、ねえちゃん。俺にも一杯頼む」
 あゆみが麦茶をグラスに注いでいると、無精髭のおっさんが近づいてきて机をはさんだ向かい側に胡坐(あぐら)をかいた。
「はい、どうぞ」
「おお、すまんな」
 おっさんはグラスを受け取ると、しかしそれには口をつけず、身を乗り出すように話し始めた。
「ねえちゃん、ねえちゃん。この寺が関所寺って呼ばれてんの知ってっか? なんでも昔にさあ――」
 べらべらと喋り続けるおっさんに、あゆみも最初のうちは愛想よく相槌を打っていたのだが、途中から困ったような表情で目を泳がせはじめた。
「ふむ」
 二人の様子を見て、たいさんが頷いた。
「ん? どした?」
「あの男は喉が渇いておったのではなく、話しかける口実に茶を所望したのだな」
「ああ。そのようだな」
「少年よ、止めに入らんでもよいのか?」
 たいさんは、ちらっと俺の顔を見た。
「別に構わんやろ。あゆみだって相手するんが嫌になったら適当にあしらって戻ってくるやろうし」
「ふむ……」
「? 何だよ?」
「別に」
 それ以降、たいさんが黙り込んでしまったので、俺は鞄の中から小説を取り出してそれを開いた。
「――立江寺が関所寺ってのは、あながち間違いじゃねえと思うワケ」
 と、おっさんの声。
 本に集中したところで、さして離れているわけでもない二人の会話は自然に耳へ入ってくる。
「この部屋のやつらは、この雨で身動きがとれんなったワケだろ? てことは、だ。逆を言やあ、ここの誰かを足止めするために降り始めたって言えるワケで――つまり、この雨はここにいる誰かが降らせてるってワケ」
「はあ……」
 おっさんの言に些かうんざりしたように返事をするあゆみ。
 それと重なって違う声が聞こえてきた。
「あの『ワケ』ばっかり言ってるおじさんが一番の原因だったりしてね。あ、別にこれは悪口じゃないよ?」
 ふふっと軽く笑いながらそう言ったのは、六女の癒安(ゆあん)さん――いつの間に姿を現したのか、俺の隣にちょこんと座って壁に背中をあずけていた――だった。
「でも、恵ちゃんもそう思わない?」
「だよなあ。俺もそう思うわ」
 それより、いつになったら“ちゃん付け”をやめてくれるのですか?
 そう訊くと、癒安さんは笑ってはぐらかした――やめる気はさらさらない、ということらしい。
「……ん?」
「どうかしたの?」
「いや、やけに視線を感じるな、と……」
 言いながら“視線の主”を探す。
 すると、机の上のノートにペンを走らせていた少年がこちらをじっと凝視しているのに気がついた。
「恵ちゃんに何か用かな?」
「さあ……」
 少年は目が合うとすぐに顔を逸らせるのだが、暫くするとまた視線を向けてくる。
「もしかして、これが欲しいとか?」
 癒安さんは畳の上を差して言った。そこには饅頭の皿――これもお接待としてもらったものだ――が置かれていた。
「これかなあ」
「わかんないけど。それにしても、このお饅頭ってすっごい大きいよね」
「大きいっつうか、大きすぎやろ」
 通常の饅頭の四倍はありそうな特大饅頭をまじまじと見つめる俺と癒安さん。
 確か、香川県には巨大な栗饅頭なるものが存在していたと思うが、ここ徳島県にも巨大饅頭が特産品として売られているのだろうか――売られているのを見たことはないが。
「とりあえず、声をかけてみるか……」
 俺は饅頭の皿を持って少年の方へと歩いて行った。
 ――が、声をかけるよりも前に少年は俺に気づいて、次の瞬間、一目散に部屋の外へと走り去っていった。
「…………………………………………」
 無視されたり警戒されるくらいならまだ想定の範囲内だったが、真逆、顔を見て逃げられるとは思ってもいなかった俺は、流石にそのショックを隠し切れなかった。
 ぽんぽんと誰かが肩を叩く。
 振り返ると九女の巳空(みそら)さんが笑って「どんまい」と頭(かぶり)を振った。
あまり嬉しくはなかった。


     /3

 夕方の五時。雨は多少弱まりはしたものの、それでもまだ降り続いていた。
「今日はここで打ち止めやね」
 窓の外を見ながらあゆみが溜め息をつく。
「だな。灼さんの“誰か”ってのも、結局わかってないしな」
「候補はかなり絞られてきたがな」
「ん? 候補?」
「おぬしの目は節穴か。周りを見てみろ」
「…………」
 今日のたいさんは毒舌だなと思いながら、言われた通りに周りを見回して、そしてあることに気がついた。
 人が――減っている。
 もちろん、人間が自然消滅したわけではなく(そんなことがあれば大事件だ)、一向にやむ気配のない雨に嫌気がさした人たちが、タクシーを呼ぶなどして早々にここから出て行ったというだけの話だった。
 結果、この部屋に残っているのは、俺たちを除いて三人――無精髭のおっさん、携帯をいじる若い女の人、そして少年(あの後、暫くして戻ってきた)――だけ。
「ほれ。候補はたったの三人だろう?」
「でもさ、寺に残っとる人なら他にもおるやろ?」
「よく考えるのだ。納経所が閉まる夕方五時を過ぎての人の出入りはほぼない。この時点で寺にいるのは最初からここにいる理由がある者だ。寺の関係者しかり、宿泊客しかり」
 だが、ここにいる三人は違うだろう? と、たいさんは言う。
「失礼します」
 そのとき、不意にふすまが開いて作務衣着の女の人が顔を出した。
「今晩のお宿はお決まりでしょうか? もし、まだお決まりでないようでしたら、相部屋になりますがご用意いたしますよ?」
 その言葉に俺とあゆみは顔を見合わせた――そういや考えていなかった。今夜の寝床。
「どうする? 巡礼初日に『宿泊施設に頼るのはいかん』みたいなこと言いよったけど」
「うーん……」
 あゆみはちらりと窓の外を見やった。
「こんな大雨じゃ野宿は難しいよね――うん、今夜は宿坊に泊まろう」
「つか、俺としては天気とか関係なしに、常にちゃんとした宿で休みたいんだがな……」
 と、ぼそっと言ってみたが、それは思いきり無視された。
 さておき、巡礼五日目にして初の宿坊での寝泊まりが決まったのだった。

      ◇

「お部屋は廊下の突き当りを右に曲がったところです。男性は手前を、女性は奥の部屋をお使いください」
 俺たちは宿泊手続きをすませ、それぞれの部屋に移動することにした。
「恵、朝食はさっきの部屋に運んでもらえるみたいやけん、一緒に食べようやね。じゃあまた明日。同室の男の子と仲良くするんよ?」
 あゆみはひらひらと手を振って、相変わらず携帯をいじり続ける女性とともに奥の部屋へと入っていった。
 ――さて、と。俺も部屋に入って休むか。
「……ん? どうした?」
 ふと、入り口の前に突っ立って部屋に入ってこようとしない少年に気がついた。
 そういえば、この少年は一人でここまで来たらしい。
 所持品や服装から考えて遍路をしているわけではなさそうだが、今夜ここに泊まることをこの子の親は知っているのだろうか――もっとも、普通に考えれば、寺の人が保護者の許可なしで子供を泊めるはずがないので大丈夫だとは思うが。
「おおい?」
 もう一度呼びかけた。が、少年は固まったように動かない。遠慮しているとか、そんな風ではないので少し不安になる。
「…………」
 少年は暫く押し黙ってうつむいていたが、何かを決心したように顔を上げた。
「……中に、おねえちゃん……いない?」
「? おらんよ。てか、あっちの部屋に入ったん君も見とるやろ?」
「ううん、違う」
 少年が首を振る。
「白い着物のおねえちゃんじゃない。携帯をずうっとカチャカチャしてたおねえちゃんも違う……」
「?」
 その二人が違うなら、一体誰だ?
 ますますわからない。
 作務衣着の女の人か?
 よもや、無精髭のおっさんをおねえちゃんと呼ぶはずはないだろうし。
 ちなみにそのおっさんは近くに友人が住んでいるらしく、その人に車で迎えに来るように頼んでいた。今頃は友人宅で寛いでいるのだろう。
 となると、本当に誰のことだ?
「――を持った」
 少年は自分で自分を抱きしめるように腕を組んで、消え入りそうな声で言った。
「桶を持った、おねえちゃん……いないの?」
「ああ――」
 すぐに誰のことかわかった。
 そして、繋がった。
 少年が俺をしきりに見ていた理由。俺が近づいたときに逃げた理由――少年は俺を見ていたのではなく、背後にいた癒安さんを視ていたのだ。
 ――俺と同じなのか。
「やっぱり、おにいちゃんには視えていたんだね。ねえ、あの桶のおねえちゃんは一体誰なの? やっぱりオバケなの?」
「あ、うーん……。オバケとは違うような」
 八八さんだし。
「オバケじゃないの? だったら何なの?」
「何なのって訊かれても“ナニカ”としか答えられんのやけど」
 八八さんだし。
「“ナニカ”って何?」
「え、えっと……」
 連続で質問を投げてくるあたり子供らしい。だが、残念ながら俺にはそれらに対する答を持ち合わせてはいなかった。
「あのおねえちゃんは、怖くない?」
「ああ、怖くはないよ」
 ようやく、俺でも自信を持って答えられる質問が出た。
「桶を持ったおねえちゃんは優しい人やけん」
 一番とか、十二番とか、十六番の誰かさんたちとは違って。
「だからさ、もし視えても怖がったりせんでええよ」
 俺は少年の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
 それで少し緊張がほぐれたのか、少年ははじめて笑顔を見せた。


     /4

「……おにいちゃん、起きてる?」
 豆電球の灯りの中。隣の布団から少年が遠慮がちに声をかけてきた。
「どした?」
「ちょっとだけ、お話してもいい?」
「うん。構わんよ」
 少年は「あのね」と言って、少し躊躇(ためら)うように間を置いてから、ぽつぽつと言葉を選びつつ話し始めた――話と言っても、ほとんどが俺への質問だった。
「おにいちゃんは、いつからあんなのが視えるようになったの?」
「そうだなあ……結構、幼い頃からやったと思うけど、あんま覚えてないわ」
「あんなのが視えて怖いとか思ったことないの?」
「さあ、どうだろう」
 怖いというより、不思議だと思うことのほうが多かった気がする。
「嫌な思いとかしたことないの? みんなと違うって悩んだことはなかったの?」
「――忘れた」
 思わず素っ気ない返事をしてしまった。
 すぐに言葉を付け足そうとしたが、少年は「ふうん」と頷いて次の質問を投げてきた。
「オバケじゃないオバケみたいな桶のおねえちゃんとは、どこでお友達になったの?」
「あ、えっと。六番札所の安楽寺って寺だよ」
 友達と呼んでいいのかは謎だが。
「お寺で? じゃあ、このお寺のオバケみたいな怖い人ともお友達だったりするの?」
「この寺の怖い人?」
「うん。――こっちに来て」
 少年は立ち上がると、窓辺の方へ歩いて行った。
 部屋の窓からは本堂の階段が見えた。
「仏さまのお家が見えるでしょ? あの階段を上ったところに誰かいるの、視える?」
「階段の……ああ、柱のところかな。ここからじゃ遠くてよく見えんけど」
「あそこにね、鎧を着た怖い顔の女の人がいたの」
 某放送協会の、日本史上の人物や事件などをテーマにした某ドラマに出てくるような鎧をまとった女武将。その手には長い武器――特徴からして真田幸村の十文字槍が浮かんだ――が握られていたらしい。
 そして、その女武将は少年を見るや、ものすごい形相で睨みつけてきたそうだ。
「ねえ。このお寺って関所寺って言うんでしょ? お髭のおじちゃんが言ってたよ。悪者はここから出られないって」
「ああ、そんな話してたな。――でも、それが?」
「あの怖い人は悪者を見つけて懲らしめる人だと思うの。この雨もきっと、あの怖い人が降らせてるんだよ」
 悪者を――僕を、このお寺から出さないために。
 少年はぽつりと呟いた。
「…………」
 俺には少年が言わんとすることがわかった。
 そして、おそらく。
 灼さんが言った“誰か”が、この少年のことだということも。
『誰かが足止めを食らってるみたいなんだわ』
 灼さんの言葉を反芻する。
『そいつの心の内を聞いて“前に進めてやる”ことができたら「合格」だってよ』
 目の前の少年――それは“誰か”ではなく、昔の自分と向き合っている気分だった。

つづく


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